阿弥陀如来とお釈迦様はどうちがうのですか

お釈迦様は約2500年前に実在され、人々に仏法を説かれたお方です。一方、阿弥陀如来は歴史上の人物ではありません。色も形もない「法性法身(ほっしょうほっしん)」のお名前です。

釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)、王舎城および舎衛国(しゃえこく)にましまして、大衆(だいしゅう)の中にして、無量寿仏(阿弥陀如来)の荘厳功徳を説きたまう(聖典p168)

とあるように、お釈迦様の教えによって、阿弥陀如来のはたらきを明らかに知ることができたのです。そこで、お釈迦様のことを「教主」、阿弥陀如来を「救主」と言うこともあります。

善導大師は、信心が起こる時の心の内景を『二河白道(にがびゃくどう)の譬喩(ひゆ)(水火二河の喩え)』として表現されました。(聖典p219-221)

お釈迦様は、東の岸(この世)から「この道を尋ねて行け」と勧め、阿弥陀如来は西の岸(浄土)から「汝一心に正念にして直ちに来れ」と呼び招きます。

私たち衆生は、こちらの岸から「行け」と発遣する釈迦如来の声と、彼の岸より「来たれ」と召還する阿弥陀如来の声を聞いていくのです。この二尊の意(おんこころ)に信順し、信心に目覚めて迷いを離れ西の岸に到れば、阿弥陀如来の姿を見て慶喜する、と語られています。

親鸞聖人は、善導大師の教えを

釈迦弥陀は慈悲の父母 種種に善巧(ぜんぎょう)方便し われらが無上の信心を 発起せしめたまいけり(聖典p496)

という和讃に詠まれました。また、

まことの信心をば、釈迦如来・弥陀如来二尊の御はからいにて、発起せしめ給い候う(聖典p590)

往生の信心は、釈迦・弥陀の御すすめによりておこる(聖典p562)

とも教えておられます。

釈迦・弥陀二尊は、一方は実在の人、他方は法性法身の名ですが、共に「如来」(真如より来る者)と称されます。それは、どちらも私たちに本当の信心に目覚めよと励ましておられる「真実のはたらき」だからです。

教区出版会議発行『真宗入門Q&A』より

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Last modified : 2018/05/10 17:51 by 第12組・澤田見(組通信員)