問い

小学生のときに大病をして以来、病弱な私でしたが、今は優しい夫らに支えられ幸せに暮らしています。先日、孫から「おばあちゃんは何を思ってナムアミダブツと言っているの?」と聞かれました。私は手を合わせて「片方の手は感謝、もう一方の手は懺悔(さんげ)の気持ちでお念仏もうしているのよ」と話しましたが、それでよいのでしょうか。

(70歳・女性)

答え

 お孫さんと一緒にお内仏の前で手を合わせておられるほほえましい姿が目に浮かびます。お孫さんがふと疑問をもたれて尋ねられたことに対してのお答えは、実にスバラシイと思います。私も同感です。

 親鸞聖人は『尊号真像銘文(そんごうしんぞうめいもん)』というお聖教(しょうぎょう)のなかで、

南無阿弥陀仏をとなうるは、仏をほめたてまつるになる

とおっしゃっています。仏とは阿弥陀如来のことです。阿弥陀如来は一切衆生(しゅじょう)、すべての生きとし生けるものの命となってはたらいておられるのです。すべてのものの命を阿弥陀如来と教えられているわけです。その阿弥陀如来の命を生きている人びと、動物、植物のおかげで私たちは生かされているわけです。そのことに気づけば感謝せずにはおれません。その気持の表現が南無阿弥陀仏であるわけです。

 さらに聖人は

南無阿弥陀仏をとなうるは、すなわち無始(むし)よりこのかたの罪業(ざいごう)を懺悔(さんげ)するになる

とおっしゃいます。私たちは阿弥陀如来の命を生きている人びとに何かと迷惑をかけなくては生きていけません。さらに動植物に対しては、その命をいただいて食料としなければ、自分の肉体を養うことはできません。動植物の大切な命を殺して自分は生きているわけです。「ごめんなさい」ですむ問題ではありません。静かに手を合わせて南無阿弥陀仏と念仏する以外ないでしょう。

 さらに聖人は

南無阿弥陀仏をとなうるは、すなわち安楽浄土に往生せんとおもうになるなり。また一切衆生にこの功徳をあたうるになるとなり

とおっしゃっています。このことは深く念頭におかなくてはならないと思います。

 貴女自身がお念仏の心を内にいただかれて合掌礼拝し、お念仏を称えておられるそばでお孫さんも手を合わせておられる。そのお孫さんは必ずやお念仏の心に感動されるときがくるに違いありません。またお孫さんを通して、やがて新しい念仏者が誕生することでしょう。「一切衆生にこの功徳をあたうる」とは、まさにこのことを教えられていると思われます。

(本多惠/教化センター通信 No150)

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Last modified : 2015/03/02 18:19 by 第0組・澤田見(ホームページ部)