問い

年齢も年齢ですし、今のまま穏やかに死ねたらと教えを聞いています。そのようなことではいけないのでしょうか。

(77歳・女性)

答え

 喜寿といわれる77歳を現に無事平穏に生きておられる、いわゆるお幸せな貴女の日常がほほえましく伺われます。ご質問も現在が幸せであればこそのものと同感いたします。人間すべからくそのようでありたいと思っていることでしょう。

 貴女の考え方にクレームをつけるわけではありませんが、問題が二点あるように思われます。一つには、今のまま穏やかに死ぬために教えを聞くということです。仏教では安らかに死を受けとめることを教えていますが、一般に言われるように、安らかな死を迎えることを説いてはいません。死の縁は無量だと教えられます。つまり、極端な言い方をすれば、平穏に生き、平穏に死を迎えたいと思っていても、家庭をはじめとする人間関係で悪戦苦闘して死に追いやられることもあるかもしれません。身心共に七転八倒して死に至ることもないとはいえません。もちろん、安らかに眠るが如くに死ぬということもあるでしょう。

 だからして、教えを聞けば穏やかに死ぬことができるであろうというのは、いってみれば自分の理想を教えにゆだねようとする想いにすぎないとも言えます。仏教は理想を実現する教えではありません。現実を現実として受けてゆく自立をうながす教えです。

 第二には、貴女の質問の中で、「そのようなことでは、いけないのでしょうか」という問いが出たということです。この問いは、「それで良いですよ」と答えてほしいという気持ちと、「どうも違うのではないか」という想いが交錯しているように思われます。

「私はこれでいいのだろうか」という問いを持つことは大事なことです。「それでいい」と言われて安心したり、「それではいけない」と言われて動揺するのが私たちですが、問いを持ち続けることが大切かと思います。仏教では「余生」ということは教えません。常に現在、ここ、我を生きているのです。

 ひと言つけ加えれば、常に問いを持って生きる人は、精神的老化はないと言えるのではないでしょうか。

(本多惠/教化センター通信 No185)

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Last modified : 2014/12/09 6:16 by 第12組・澤田見(ホームページ部)