コラム法話 #生老病死 「聞」の生活【しゃらりん36号】

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蓮如上人は『蓮如上人御一代記聞書』の中で、「仏法は大切にもとむるよりきく者なり」(聖典878頁)と言われ、また「ただ仏法は聴聞にきわまることなり」(聖典889頁)とも言われています。

その意味では、この「聞」の一字は、私たち真宗門徒にとっての根本語であり、浄土真宗の教えに出遇った私たちにとっての生きる態度を表された言葉であります。

ところで私はこの「聞」ということについて、二つの聞ということがあるのではないかと思っています。一つは文字通り教えに聞いていくということです。善導大師は教えに聞いていく生活のことを「経教は鏡の如し、さくさく読みさくさく尋ぬれば智慧を開発す」(『観経疏』序分義)と明確に言われてます。

「経教(おしえ)」とは、私たちにとって鏡のことだと言われるのです。ただ私たちがイメージする鏡は自分の顔を見たりする手鏡か、顕微鏡とか望遠鏡など鏡にもいろいろありますが、このような鏡は決して自分の素顔や内面をそのまま照らし出すことはありません。それは鏡の問題というよりも人間の問題なのでしょう。鏡で自分の顔を見ようとしても私たちは自分の顔が少しでもよく見えるように自分の顔をかざってしまうのです。「人間の内面なんてこわくて見れますか。いまだ誰も踏み込んだことのない原生林みたいなものだ」と言われた方がおられますが、本当は私たちは自分のことは見たくないし知りたくないのかもしれません。他人の欠点は顕微鏡で見るように拡大して見ようとしますし、逆に自分の欠点はできるだけ見えないように望遠鏡で見ようとするのが、私たちではないでしょうか。

私たちは自分のことは自分が一番よくわかっていると思っていますが、実はもっとも近くてもっとも遠いのが自分であるということです。自分のことは自分にはわからない根源的闇、自分がかわいいという心に覆われて生きているのが私たち人間なのだと。その闇を照らし出すのが「経教」なのです。だからこそ私たちは常に経教を「さくさく読み、さくさく尋ね」ていく、生活習慣にまでなる歩みが大事なのでしょう。生活の片隅の聞法ではなく、行住坐臥、日常の生活全体が聞法生活になることが求められているのです。

ところで、はじめに「聞」に二つあると申しました。それは私たちには悲しいことに法の鏡を人間の鏡にしてしまうという愚かさ、したたかさがあるのです。それは教えによって自分の正体(我執)が知らされたことに座り込むということがあるのです。救いに安心してしまうのです。わかったつもりになることによって、さらに深い闇(法執)に迷い込んでしまうのです。自分が見えなくなるのです。

このような光の病を破ってくれるのは現実だけです。老病死のことや、温暖化で破壊してしまった自然環境の問題、コロナ禍によって苦しんでいる社会不安などの一切の現実が、私たちを裸形の人間にかえしてくれるのではないでしょうか。業縁の身を生きている事実に立つということです。
教えに聞き、現実に聞く。聞の生活に終わりはありません。

(門井 斉/第5組圓龍寺・組同朋の会教導)