今月のことば/寺林惇

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なごりおしくおもえども
娑婆の縁つきて
ちからなくしておわるときに
かの土へはまいるべきなり

『歎異抄』(聖典630頁)

今月のことば 自分が、生業やいろいろな役目を与えられた境遇で、どのように生きて、いかに死んでいくかは、一人の人間にとって最重要問題です。これをどう解釈するかということで、お釈迦さまは、王位や家族などの世俗的幸せを捨てて出家修行の道を選ばれました。六年間の修行の結果、縁起の道理(因縁果の道理)に目覚めて、正しい智慧を得て仏陀となられました。

 それは、自分はいろいろな境遇に出逢うが、法(まこと)に従って、毎日を思い残すことなく生きて、静かな穏やかな涅槃(仏さまの世界)に生まれるように生きるのだということでした。

 岸上たえさんは「『力なくして終るときに彼の土へ参るべきなり』この度病みて嬉しき御言」(歌集『白い道』在家仏教協力)という短歌をつくっています。力なくしてという言葉の意味は、自分の思いや力でどうにかなる身体(生命)ではありませんということでしょう。死の因縁が整えば(縁がつきれば)、限りある身体(生命)はなくなります。

 私たちは、いろいろな出来事に出遇います。事の原因を外へ外へと求めていく場合を外観といい、内に原
因をたずねるのを内観といいます。自分の死に関して、人はこの世への心がいろいろに動きますが、自分に死が来るのは、自分は死する身だからと観るのが内観です。この時、自分の死に落着きが生まれるのではありませんか。金子大榮先生が「寿命の寿が仏のいのち。死なないいのちである。生命というのは人間のいのち、五十年か百年の一生である」(『月愛』昭和五十年十一月号)と記されています。「かの土へまいって」仏のいのちとなります。阿弥陀さまの本願(まことの心)のお蔭で「地に這ひし身をあざやかに転じたる蝶軽々と彼方に消えぬ」(岸上たえ作)蝶のように地を這う迷いを転じて、かの土へまいれればと、今月の言葉に思う自分です。

(寺林惇/所出・教化センターリーフレットNo294 2011/11発行)