願海に入りて、深く仏恩を知れり。至徳を報謝せんがために、真宗の簡要を摭うて、恒常に不可思議の徳海を称念す。いよいよこれを喜愛し、特にこれを頂戴するなり。
 105信に知りぬ、聖道の諸教は、在世正法のためにして、まったく像末・法滅の時機にあらず。すでに時を失し機に乖けるなり。浄土真宗は、在世・正法・像末・法滅、濁悪の群萠、斉しく悲引したまうをや。106ここをもって経家に拠りて師釈を披きたるに、「説人の差別を弁ぜば、おおよそ諸経の起説、五種に過ぎず。一つには仏説、二つには聖弟子説、三つには天仙説、四つには鬼神説、五つには変化説なり。」しかれば四種の所説は信用に足らず。この三経はすなわち大聖の自説なり。
爰久入願海深知仏恩、為報謝至徳、摭真宗簡要恒常称念不可思議徳海。弥喜愛斯、特頂戴斯也。 信知、聖道諸教、為在世正法而、全非像末法滅之時機、已失時乖機也。浄土真宗者在世正法、像末法滅、濁悪群萌、斉悲引也。是以拠経家披師釈、弁説人差別者凡諸経起説不過五種。一者仏説、二者聖弟子説、三者天仙説、四者鬼神説、五者変化説。爾者四種所説不足信用、斯三経者則大聖自説也。
 107『大論』(大智度論)に四依を釈して云わく、涅槃に入りなんとせし時、もろもろの比丘に語りたまわく、「今日より法に依りて人に依らざるべし、義に依りて語に依らざるべし、智に依りて識に依らざるべし、了義経に依りて不了義に依らざるべし」と。「法に依る」とは、法に十二部あり。この法に随うべし、人に随うべからず。「義に依る」とは、義の中に好悪・罪福・虚実を諍うことなし。かるがゆえに語はすでに義を得たり、