正念はすなわちこれ正業なり。また「乃至一念」とは、これ更に観想・功徳・遍数等の一念を言うにはあらず、往生の心行を獲得する時節の延促につきて、乃至一念と言うなり。知るべし。
 「浄信」と言うは、すなわち利他深広の信心なり。すなわちこれ「念仏往生の願」より出でたり。また「至心信楽の願」と名づく、また「往相信心の願」と名づくべきなり。しかるに薄地の凡夫・底下の群生、浄信獲がたく、極果証しがたきなり。何をもってのゆえに、往相の回向に由らざるがゆえに、疑網に纏縛せらるるに由るがゆえなり。いまし如来の加威力に由るがゆえに、博く大悲広慧の力に因るがゆえに、清浄真実の信心を獲せしむ。この心顛倒せず、この心虚偽ならず。信に知んぬ、無上妙果の成じがたきにはあらず、真実の浄信実に得がたし。真実の浄信を獲れば、大慶喜心を得るなり。大慶喜心を得というは、
復乃至一念者是更非言観想功徳遍数等之一念、就獲得往生心行時節延促、言乃至一念也。応知。
言浄信者則利他深広信心也。即是出於念仏往生之願。亦名至心信楽之願、復可名往相信心之願。然薄地凡夫底下群生、浄信叵獲、極果叵証也。何以故、不由往相回向故、由所纏縛疑網故。乃由如来加威力故、博因大悲広慧力故、獲清浄真実信心。是心不顛倒、是心不虚偽。信知、無上妙果不難成、真実浄信実難得。獲真実浄信、得大慶喜心。得大慶喜心、
 『経』(大経)に言わく、「それ至心に安楽国に生ぜんと願ずることあれば、智慧明らかに達し、功徳殊勝な