沙汰におよばず、没後葬礼をもって本とすべきように衆議評定する、いわれなき事。
 右、聖道門について密教所談の「父母所生身 速証大覚位」(発菩提心論)とらいえるほかは、浄刹に往詣するも苦域に堕在するも、心の一法なり。全く五蘊所成の肉身をもって、凡夫速疾に浄刹のうてなにのぼるとは談ぜず。他宗の性相に異する自宗の廃立、これをもって規とす。しかるに、往生の信心の沙汰をば手がけもせずして、没後喪礼の助成扶持の一段を当流の肝要とするように談合するによりて、祖師の御己証もあらわれず、道俗・男女、往生浄土のみちをしらず、ただ世間浅近の無常講とかやのように諸人思いなすこと、心うきことなり。かつは、本師聖人の仰せに云わく、「某親鸞閉眼せば、賀茂河にいれて魚にあたうべし」と云々 これすなわち、この肉身をかろんじて仏法の信心を本とすべきよしをあらわしましますゆえなり。これをもっておもうに、いよいよ喪葬を一大事とすべきにあらず。もっとも停止すべし。

17 一 おなじく祖師の御門流と号するやから、因果撥無と云う事を持言とすること、いわれなき事。
 それ三経のなかにこの名言を求むるに、『観経』に「深信因果」の文あり。もしこれをおもえるか。おおよそ、祖師聖人御相承の一義は、三経共に差別なしといえども、『観無量寿経』は機の真実をあらわして、所説の法は定散をおもてとせり。機の真実と云うは、五障の女人・悪人を本として、韋提を対機としたまえり。『大無量寿経』は深位の権機をもって同聞衆として、所説の法は凡夫出要の不思議をあらわせり。大師聖人の御相承はもっぱら『大経』にあり。『観経』所説の深信因果のことばをとらんこと、あながち甘心すべからず。たとい、かの『経』の名目をとるというとも、義理参差せばいよいよいわれなかるべし。そのゆえは、か