願因の名号をきくなり。しかれば名号執持することさらに自力にあらず、ひとえに光明にもよおさるるによりてなり、このゆえに光明の縁にきざされて、名号の因はあらわるるというこころなり。
 「開入本願大智海 行者正受金剛心」というは、本願の大海にいりぬれば、真実の金剛心をうけしむ、というこころなり。
 「慶喜一念相応後 与韋提等獲三忍 即証法性之常楽」というは、一心念仏の行者、一念慶喜の信心さだまりぬれば、韋提希夫人とひとしく、喜悟信の三忍をうべきなり。喜悟信の三忍というは、一つには喜忍という、これ信心歓喜の得益をあらわすこころなり、二つには悟忍という、仏智をさとるこころなり、三つには信忍というは、すなわちこれ信心成就のすがたなり。しかれば、韋提はこの三忍益をえたまえるなり。これによりて真実信心を具足せんひとは、韋提希夫人にひとしく三忍をえて、すなわち法性の常楽を証すべきものなり。
 「源信広開一代教 偏帰安養勧一切」というは、楞厳の和尚はひろく釈迦一代の教をひらきて、もっぱら念仏をえらんで、一切衆生をして西方の往生をすすめしめたまうなり。 「専雑執心判浅深 報化二土正弁立」というは、雑行雑修の機をすてやらぬ執心あるひとは、かならず化土懈慢国に生ずるなり、また専修正行になりきわまるかたの執心あるひとは、さだめて報土極楽国に生ずべしとなり。これすなわち、専雑二修の浅深を判じたまえるこころなり。『讃』にいわく、「報の浄土の往生はおおからずとぞあらわせる 化土にうまるる衆生をば すくなからずとおしえたり」といえるこころなり。