「若し臨終に及び死して地獄に墮すること有らんに、家の内の眷屬其の亡者の爲に佛を念じ及び轉誦し齋福せば、亡者則ち地獄より出でて淨土に往生す。況や其の現在に自ら能く修念せば何を以てか往生することを得ざる者あらんや」と。是の故に彼の『經』(灌頂經卷一一意)に云く。「現在の眷屬亡者の爲に追福すれば遠人に餉するに定んで食を得るが如し」と。 第七には廣く諸經を引きて證成す。『大法鼓經』(卷上意)に説くが如し。「若し善男子・善女人、常に能く意を繋けて諸佛の名號を稱念すれば、十方の諸佛、一切の賢聖、常に此の人を見ること目の前に現ずるが如し。是の故に此の經を大法鼓と名く。當に知るべし、此の人は十方淨土に願に隨ひて往生す」と。又『大悲經』(卷二意)に云く。「何んが名けて大悲と爲る。若し專ら念佛相續して斷えざれば其の命終に隨ひて定んで安樂に生ぜん。若し能く展轉して相勸めて念佛を行ぜしむる者は、當に知るべし此等を悉く大悲を行ずる人と名く」と。是の故に『涅槃經』(北本卷一九・南本卷一七意)に云く。「佛、大王に告げたまはく。假令ひ大庫藏を開きて一月の中に一切衆生に布施すとも、所得の功德、人有りて佛を稱する一口の功德に如かず。前に過ぎたること挍量すべからず」と。又『增一阿含經』(卷三四意)に云く。「佛阿難に告げたまはく。其れ衆生有りて一閻浮提の人に衣服・飮食・臥具・湯藥を供養せんに、得る所の功德寧ろ多しと爲んや不や。阿難佛に白して言さく。世尊、甚だ多し甚だ多し、數へ量るべからず。佛阿難に告げたまはく。若し衆生有りて善心相續して佛の名號を稱すること一び牛乳を搆る頃の如くせん、得る所の功德上に過ぐること量るべからず。能く量る者有ること無し」と。『大品經』(摩訶般若經卷二一・智度論卷八四意)に云く。「若し人散心念佛すれば乃至苦を畢るまで其の福盡きず。若し人散花念佛すれば乃至苦を畢るまで其の福盡きず」と。故に知んぬ、念佛の利大なること不可思議なり。『十往生經』、諸大乘經等、竝びに文證有り。具に引くべからず。