廣く普觀を解し竟んぬ。
[一三、雜想觀]
十三に雜想觀の中に就て、亦先づ擧げ、次に辨じ、後に結す。即ち其の十一有り。
一に「佛告阿難」より已下は、正しく告命結勸して後を生ずることを明す。
二に「先當觀於一丈六」より已下は、正しく像を觀じて以て眞を表し、水を想じて以て地を表することを明す。此は是如來諸の衆生を敎へて、境を易へ心を轉じて入觀せしめたまふ。或は池水の華の上に在まし、或は寶宮・寶閣の内に在まし、或は寶林・寶樹の下に在まし、或は寶臺・寶殿の中に在まし、或は虚空・寶雲・華盇の内に在ます。是の如き等の處に、一一に心を住せしめて之を想じて、皆化佛の想を作さしむ。機境相稱ひて成ずることを得易からしめんが爲の故なり。
三に「如先所説」より下「非心力所及」に至る已來は、正しく境大に心小にして、卒に成就し難し、聖意悲傷して、勸めて小を觀ぜしむることを致すことを明す。
四に「然彼如來」より下「必得成就」に至る已來は、正しく凡心狹小にして、聖量彌々寬く、想を注むるに由無し、成就し難きことを恐れたまふことを明す。斯れ乃ち小以ての故に成じ難きにあらず、大に由るが故に現ぜざるにあらず。直是彌陀の願重くして、想者をして皆成ぜしむることを致す。
五に「但想佛像」より下「具足身相」に至る已來は、正しく比挍して勝を顯すことを明す。像を想ふに尚自づから福を得ること無量なり、何に況や眞佛を觀ぜんは、益を得る功更に甚し。
六に「阿彌陀」より下「丈六八尺」に至る已來は、正しく能く所觀の佛像を觀ずるに身に大小有りと雖も、明かに皆是眞なることを明す。即ち其の三有り。一には彌陀の身通無礙にして、意に隨ひて徧周することを明す。「如意」と言ふは二種有り。一には衆生の意の如し、彼の心念に隨ひて皆應に之を度すべし。二には彌陀の意の如し。五眼圓かに照らし、六通自在にして、機の度すべき者を觀はして、一念の中に、前無く後無く、身心等しく赴き、