本願の力

 後半は、信心、または信心の生活というのはどういうものであるのかをお話ししたいと思います。

 先ほど寺川先生のお言葉から、私の人生が「いぶし銀のように光り輝く人生」になっていくとご紹介しました。この「光り輝く」ということを手がかりにお話を進めてまいります。結論から申しますと、煩悩いっぱいの私たち凡夫に光り輝くような人生を実現させるのは本願です。その本願の教え、これを「法」といいます。その「法」つまり本願の教えを聞くことが聞法です。聞法のみが、私たち凡夫に光り輝くような人生を実現するのです。

 本来、仏教で「法」というのは、お釈迦様の覚りということです。ですから一般に仏教と呼ばれるものでは、修行して煩悩を断じてお釈迦様が得られた涅槃の覚りを得て行くことを仏道だと理解されます。

 ところが推進員養成講座の先生から修行しなさいって言われたことありますか。ないでしょう。千日回峰行しましょうとはおっしゃらなかったでしょ。あるいは、断食しましょうとか座禅組みなさいともおっしゃいませんね。とにかく「お話を聞いてください、聞法してください」ということを重ねておっしゃっていたと思います。浄土真宗は「法」を聞くのですね。

 お釈迦様の覚りを自分が悟っていくのではないのです。修行しても、煩悩がいっぱいだから覚りを得ることができない私たちのために、お釈迦様は本願の教えを説いてくださったのです。

 では、本願の教えとは、いったい何が説かれているのでしょうか。一言でいえば「阿弥陀様が私たちに本当に願ってくださっていることは、このようなことですよ」と四十八カ条に渡って説いてあるのです。『仏説無量寿経』というお経に説いてあります。その本願の教えを「なるほどそうだな」とうなずくこと、つまり阿弥陀様の方から私たちに向かって「こうなってくださいよ」と願っておられる教えを聞いて「ああ、なるほどそうだった。阿弥陀様が願っておられたことこそ、実は私が本当に願っていたことなのだ」と、いただけた心のことを信心というのですね。

 普通、信心といったらどういうことを想像しますか。何か「神様とか仏様とかが、どこかあの世におられる」ことを信じ込む、また「何か分からないのだけれども仏様というのはありがたいな」と言って信仰する。あるいは熱心にお寺にお参りする人を「あの人は信心家」と言いますよね。

 けれど親鸞聖人がおっしゃる信心というのは、そういう世間の信心という言葉ではなくて「四十八ある本願の教えは、なるほど私の心底からの本当の願いをよく見抜いて説いてくださっていたのだ」と気づいたお心を言うのです。

 私たちは普通、日常の生活ではいつも健康やお金、地位や名誉や権力などを貪欲に求めて生きています。つまり、自分の思い通りに生きることしか思いつきません。しかし本願は、私たち一人一人が本当になりたい私をよく見抜いて「あなたは、本当はこういう生き方をしたいと願っているのではないですか」「こういう人間になりたいと思っているのではないですか」と、教えてくださっているのです。そして、そのお言葉にうなずいた心を信心というのです。

 ですから、信心というのは私の中に芽生えた心なのだけれども、私の心ではなくて、阿弥陀様の願いとして、私がいただいたお心のことを信心というのです。阿弥陀様の側にあったら「本願」です。本当の願い、その願いが私に響いてきた、その通りだとうなずいたら、それが「信心」と名前を変えるのです。

 この信心は、私に生きる意欲と、生きる希望と、嫌なことでもやっていこうという力を与えてくださるのです。そこが本願の力のすごいところですね。私たちの煩悩の心は、私たちの欲望にかなうことはしたいけれど、欲望にかなわない嫌なことはしたくないでしょう。けれども、本願の心は私たちの煩悩よりも、もっと深いところに届いてくるのです。煩悩を超えた深い願いのお心のことを信心というのですね。

そのままで光り輝く

 本願の中には四十八カ条にわたっていろいろなことが説かれてありますが、今日は先ほどから申しています「金色に輝く」ということをお話しいたします。本願の第三願にそのことが説かれています。

 四十八それぞれに願名(科文)というのがあります。江戸時代の偉い先生がそれぞれの本願にはどういうことが書いてあるのかを、一言でまとめられたものです。真宗聖典をお持ちの方は九七三ページに書いてあります。

 第三願は「悉皆金色」の願とあります。これは、「ことごとく皆金色に光り輝くような人生を歩んでいきたいと思っておられるのでしょう」と、本願の方から言ってくださっているのです。でも、実際には本願はすでに成就しています。法蔵菩薩は阿弥陀様になられたのですからね。だから、本当は私の毎日の生活が光り輝いているはずです。それなのに煩悩が邪魔して光り輝いてないように思ってしまうのです。どうですか、みなさまがたは毎日が光り輝いておられますか。自坊のご門徒さんに聞いたら「住職さん、私なんかもうあかんわ。五十年前やったら、今よりは光り輝いていましたけど」と、おっしゃっていました。でも本願は「今こうしてここに生きておることが本当は光り輝いているのでしょう」と言ってくださるのです。

 その具体的なことが第四願に説いてあります。「無有好醜」の願、あるいは「形色不同」の願とも言います。「形色不同」とは、形も色も同じでないと書いてあるのですね。私たちそのとおりでしょ。形は簡単に言ったら体型、色は皮膚の色、どちらも皆それぞれですね。今日は、ここへお見えになるために皆さん朝から時間かけてお化粧されてますけれども、家に帰って寝る前にぺろっとめくったら、それぞれ地金が出てくるでしょう。それぞれ色も形も全部違っていいのですよ。金子みすゞさんに「みんな違ってみんないい」という詩がありますが、それを言っているのです。

 ところが、私たちは「こういう人間でなければならない。ああいう人間でなければならない」と何か理想の自分を作って、そうでない自分がなんか惨めで情けなくなってきて「こんな自分であってはいけない。こんな私はだめだ」と自分で自分を値踏みして、結局「なんで私だけがこうなのだろう」と愚痴の元になってくるのでしょう。

 色も形も違うって『仏説阿弥陀経』に「青色青光、黄色黄光、赤色赤光、白色白光」と出ていますね。青いものは青いまま、黄色いものは黄色いまま、赤いものは赤いまま、白いものは白いままでそれぞれが光り輝いている。それぞれのままで良いというのです。

 大根は「俺、どうしてこんなに白いのか、もっと赤い大根になりたい」って言わないですよね。大根は形がいろいろです。市場で売っているのは真っ直ぐな大根です。うちのご門徒さん、お寺には形の整った良いものを持ってきてくださいます。けれども、お参り先には自分の所で引いてきた二股になったような大根がいっぱい置いてあります。いろんな大根があります。それでも「俺なんでこんな形なんだろう」て、悩んでいる大根はないでしょう。どんな形でも大根は一所懸命にぐっと根を張って生きております。人参は赤いままが良いのです。人間だけが「こんな自分であってはならん」と文句言うのです。

 犬でも猫でもそうですね。うちに白ちゃんという猫がいました。この白い猫が「俺どうしてアメリカンショートヘアみたいに鮮やかなマーブル模様ではないのか」と悩むことはないですよね。いつも堂々と生きていました。猫はすごいです。死ぬ時もです。白ちゃんは口の中に癌ができましてね、食べられなくなりました。だけど、食べられなかったら食べられないままに食べませんね。それでどんどん弱っていきます。今日はもうあかんかなと思って「白、白」って呼んだら、「ふっ」と目開いて「もうちょっと生きているわ」という顔していました。次の日、朝起きてきて「白ちゃん生きているか?」って聞いたら、「ふ〜ん」って返事はするけどもう全然ご飯食べません。夜、名前を呼びましたけど目も開かないようになってきて、それで十分ほどして、子どもが「白ちゃん」って呼んでみたのですけど「お父さん、白、死んでるわ」っていう具合です。すーっと死んでいきました。直接は癌で死んだのではなくて、食べられなくて衰弱死でした。

 死んでいくというのも、生き物に与えられた果たして行かなければならない最後の仕事なんですね。猫は立派に果たしていきます。人間だけが「死ぬの嫌だ」って文句言います。

 少し話がそれましたが、阿弥陀さまの方から私たちに「そのままで光り輝いているでしょ」と願ってくださっているのです。その願いに「なるほどそうやったな」とうなずけたら、どんなことがやってきても「これが、私が仏様からいただいた果たしていかならければならないお仕事だ」と、こういただいていくことができるのです。確かに、嫌なことがあったら気持ちは沈むし、腹も立つし、どうしてかとも思います。けれども「なんまんだぶつ」と称えて仏様に手を合わせ、阿弥陀様に頭を下げて「自分の煩悩は嫌がっているけれども、阿弥陀様はこう促してくださった。これが本当の深い願いだ」と気持ちが変わるというか、うなずいて行くことができるのです。

 清沢満之先生は「他力の救済を念ずる時」と「他力の救済を忘れる時」という表現をなさっていますね。「忘れる時」があるとおっしゃっていますから、いつもこんな心で居れると言われているわけではありません。私たちは、ほとんど念仏なんか忘れていますよね。南無阿弥陀仏と仏様に頭が下がった時だけ「自分の煩悩の心よりも、つまり自分の煩悩が欲するものよりも、阿弥陀さんが願っておってくだされたものの方が本物であった。私の本当の願いであった」と念仏するたびに気付かされるのです。そしたら一つ一つ、誠実に、丁寧に「お仕事を果たして行こうか」という意欲が湧いてくるのですね。

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Last modified : 2020/04/28 17:48 by 第12組・澤田見(組通信員)