必ずどこかに喜びがある

同朋新聞という真宗大谷派の新聞に、こういう歌がありました。「目を病めば 匂いで見よと 梅匂う」。読まれた人の名前を書いたメモを失くしてしまったのですが、この人は「目を病んで見ることが出来なくなりました」ということですから、「外楽」が終わったのです。しかし「仏法を聞かさせていただいたおかげで花は見えないけれども、匂いをいただくことができました」という喜びの歌です。

もう一度読みます。「目を病めば 匂いで見よと 梅が咲く」、こういう喜びがあるのです。普通でしたら、目が見えなくなったら「情けないなあ、何でこんなことになってしまったのだろう。もう死んだ方がましだ」と、人生全部が崩れていくのではないですか。だけど「法楽の楽」はそうじゃないのですよ。必ず仏法を聞かしていただいたらどこかに喜びがあるのです。私の力では気付かないけれども、どこかに喜びがあるのですよ。

仏法を喜ばれた人

昔、私が三十代で東本願寺にお勤めをしている時に、木村(きむら)無相(むそう)という方がいらっしゃいました。

この方は、東本願寺の門を入ったところの守衛室で、守衛の仕事をされていました。本当に仏法を喜ばれた人です。守衛室に座ってお仕事をされていたら、いろんな喜びがわいてくるのだそうです。それを歌にされました。その中の一つに

 雪がふる 雪がふる 雪がふるふる 雪がふる 煩悩(ぼんのう)無尽(むじん)と 雪がふる
 雪がふる 雪がふる 雪がふるふる 雪がふる 大悲(だいひ)無倦(むけん)と 雪がふる

と詠まれました。

守衛室で、ちょこっと座って、窓越しに外を見られていたのでしょう。守衛室の窓ですから、見渡しが効くように全部透き通ったガラスです。そしたら雪が降ってきた「雪がふる 雪がふる 雪がふるふる 雪がふる」まるで腹立ちそねみの私の煩悩の尽きないことを教えるように降ってくる。また「大悲無倦と 雪がふる」。「大悲|無倦(むけん)」というのは、阿弥陀如来様が飽きることなく、とどまることなく、休むことなく私たちにはたらいてくださっているそのおはたらきです。無倦とは、飽きることがない終わることはないという意味です。ですから木村無相さんは、天から落ちてくる雪を見ながら「はあ、これはまるで阿弥陀如来様の大悲の心が、私に降り注いでくださる姿や」とこういただいたのです。皆さん、普通なら、雪が降ると先に愚痴がでませんか。それで降り過ぎると腹が立つじゃないですか。それがちゃんと喜びに変わっていくのです。転じていくのです。

実は、こういう人が沢山いらっしゃるのですよ。

年取ったからいただける喜び

東大阪市で小間物商を営んでいらっしゃった榎本(えのもと)栄一(えいいち)さんっていうおじいさん。百歳で亡くなられましたが、この方も小間物商を営みながら非常にお念仏を喜んだ人です。

榎本さんは、生活の中で一杯喜びがわいてくる。その喜びを詠まれた歌に

昔は一日中店に立っていたが 今はじき腰かける
南無大悲の仏様 勘弁してください

という歌があります。「今はじき腰かける」とありますね、私だったら「年を取るのは情けないなあ、年は取りたくないな、昔は元気に動いていたのに情けないなあ」とこうなるのです。
それを「昔は一日中店に立っていたが 今はじき腰かける。南無大悲の仏様、勘弁してください」と詠んでおられるのです。

皆さんこれはね、年取ったからいただける喜びなのです。「昔は一日中店に立って働いていた。その時は立ち尽くされる阿弥陀様が贅沢に見えた。ワシらはこんなに忙しく立ったり座ったりしゃがんだり、それに比べて阿弥陀様は結構なことだ、じっと立ってたらいいのだから。ところが今、自分が立ったり座ったり出来なくなって、すぐ腰掛ける身になって気が付いた。私は『ああしんど』と腰を下してすむけれど、阿弥陀如来様は腰も下さずしゃがみもせず、私に念仏を届けるために立ち尽くしてくださっておりました。その阿弥陀様のご苦労を、腰掛ける身になって初めていただいたとは、なんと横着なことでしょうか。南無大悲の仏様、勘弁してください。」と、いただくことができるのです。

「居眠りせずに仏法を聞く」この一点です

推進員になられた皆さんは、こういう榎本さんのお歌を、お声を、教えを聞いた上は「仏法聞きながら絶対に居眠りをしない」そういう人になってください。先ずそれが出来たら推進員です。推進員なんて何も難しいことないのです。「居眠りせずに仏法を聞く」この一点です。どうしてかというと、阿弥陀様は立ち尽くして、私たちに「貫(つらぬ)いていく喜びをいただいてくれ」とはたらいてお見えだからです。

今あなたが、科学や教育や経済の力で作った喜びは全部色あせて変わっていくのです。決して一生貫くものではないのです。若い時は嬉しかったけれど年とったらダメ。健康な時は良かったけれども、病気をしたらダメ。そういうものばっかりです。しかしその中で、今、私が推進員として聞かしていただている仏法は、生きている間と死んでからを貫いているのです。

親鸞様はご和讃のなかに「信心よろこぶそのひとを 如来とひとしとときたもう」と、おっしゃっています。「信心よろこぶ」つまり阿弥陀如来様のさとりのお言葉を心に聞いていただいて喜んでいる人は、さとりの阿弥陀様のお言葉が、すなわち智慧が、私のなかに届いているのだから、その人はもうすでに如来と等しい人だとおっしゃっているのです。

等しいとは別々のものが肩を並べたということですが、如来様と同じだとはおっしゃっていません。確かに、仏法をいただいて喜ぶ。さとりのお言葉をいただいて喜ぶその喜びは如来様の喜びなのですから等しいのです。

しかし、体がある間は如来様と同じとは言えません。どうしてかというと、体が文句をいうのです。体が愚痴(ぐち)の種になるのです。そうでしょ、皆さん。夏は暑いて知っているでしょ。でも「暑いなあ」と文句が出るのは体が言わすのです。だからこの体がある間は、私たちは仏様と同じとは言えないのです。

だけど阿弥陀様のさとりの言葉をいただいているから「その人は如来様と等しい人だ。同じ資格の人だ。つまり、その御信心が仏になる種となって、私たちはやがてお浄土に仏と生まれさせていただける」と教えてくださるのです。これがこの世とあの世を貫いていく喜びなのです。

曇鸞様は、これを「法楽の楽」と言われて、楽に三種ありと抑えられます。仏法を聞いて、私たちはこの世の喜びに酔うのでなく、この世の喜びはこの世の喜びとして、しっかりと喜びながら、そこに潜む問題を気付かせていただいていく。

そして本当に貫いていく喜びに目覚めさせていただく、そういうことが非常に大切なことでないだろうかと思います。

四十分というお約束ですので、ここで終わろうと思います。

ようこそお聞きをいただきました。

合掌

本書は、2018年12月5日に難波別院堺支院(堺南御坊)で開催された「第5回 第21組 推進員の集い」の澤田秀丸先生のお話をまとめたものです。
この「推進員の集い」を開催するにあたっては、毎年、当検討会で推進員と住職が本音をぶつけ何度も打ち合わせを行います。その結果、第4回に引き続き「南無阿弥陀仏で本当に救われる?」という、正直な思いをもう一度澤田秀丸先生にお伺いすることにしました。
これに対し、先生は「救われるとはどういうことか」と、丁寧な副題をつけくださり、生だけでなく死まで貫く救いの事実を教えてくださいました。
それは堅苦しいお話ではなく、先輩方の具体的な生活を通してのお言葉を数多く紹介された心に響くものでした。
このたびも、先生のお話を少しでも多くの方と分かち合いたく冊子として取りまとめました。どうぞご一読ください。
最後になりましたが、本書の発行に御快諾いただきました澤田秀丸先生に深甚の謝意を申し上げます。
2019年10月1日      

推進員の活動に関する検討会

Pocket

Last modified : 2020/04/28 17:49 by 第12組・澤田見(組通信員)