生死出ずべき道/一楽真

大阪教区第12組発行
2021年6月21日 組内寺院にて
お話:大谷大学教授・一楽 真 先生

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はじめに

 「今のこの状況、時代をどのように生きていくか」というテーマを頂戴いたしました。もちろん私がその答えを持っているわけではありません。しかし聞法というのは我々に先立って悩んでくださった方、生きる道を求めてくださった方に聞いていくということであります。時代が変わっても、国が違っても、生きることに悩まれた方々が我々に先立っておられる。その方々の生き方に学ばせていただく。

 昔の人のことなんか聞いてもしかたないということなら、仏教の学びというのは始まらないわけであります。ですから勉強会の形は取りますけれども、けっして新しい知識を憶えてもらうのではなくて、そういうものの見方、考え方を、先達にたずねていくということだと思います。

 今回テーマをいただいた時に、やはり宗祖親鸞聖人のお姿、お言葉にまずたずねていきたいなということを思ったわけであります。八百年前の親鸞聖人の時代は、科学技術も医療もあまり進んでいませんから、疫病ということで言えば今以上に、いわば祈るほかないような状況だったと思います。

 現代でもそうですが、こういう問題が起きると、「お坊さん、なんとかしてください」「仏教はこういうことになにか力を持っていないんですか」と聞かれたりします。お経を読んだりして、疫病を退散するというような儀式は色々な宗派でなさっておられます。それを云々するつもりは一切ありませんが、しかし親鸞聖人の書かれたものを読んでいると、驚くほどそういうものは少ないのです。「現世利益和讃」には若干それに重なることはありますけれども、しかし私たちが思うような形で、疫病が退散するということは書かれていないわけです。
 さらに二千五百年遡ったお釈迦様も、なにを教えてくださったのかと言ったら、けっして病気にならない方法じゃないんですね。疫病が流行る中で、命終わっていくこともあるわけですよ。その中で死なない方法を教えてくださったのがお釈迦様だと言うわけにはいかない。いろいろなことがある中を、なおも生きていくような力、勇気を見出してくださったのがお釈迦様であり、あるいは親鸞聖人のお言葉ではないかと思うわけです。

 しかしこのことを始めからお話しますと、これは学生たちでもそうですが、「なんや」と言われます。「仏教ってなんの力もないんですか、ご利益ないですね」って言われることも多いわけです。しかし本当の意味の利益とはなにかというのが、親鸞聖人の問いだと思います。目の前の都合の悪いことを取り除いてくれたら、私たちはそれで「助かった」と言います。しかしそうなら、また問題が起こってきた時には、それを取り除いてもらわないといけない。それはずっと問題を恐れ続ける、いろいろなことが起こってくることから逃げるような生き方になるのかもしれません。

 親鸞聖人の生き方というのは、いろいろなことがある中を生きていける、ものすごくたくましい教えだと思うんですね。これを「真実の利益」とか「無上の利益」という言葉で聖人は語ってくださっています。

後世を祈る

 ただそうは言いましても、親鸞聖人も始めから今遺してくださっているようなお言葉が全面に出ておられるわけではありません。比叡山で二十年修行をしておられる時には、やはり迷いをなくす道、あるいは問題の中でくよくよと悩むことのないような強い立派な私になっていく道に立っておられたのです。

 「煩悩具足の凡夫」というのが真宗の立場でありますが、その煩い悩みを断ち切るのが問題解決の道だと、比叡山時代は信じておられたわけです。煩い悩みがなくなる境地を目指して、修行に励んでおられたと言っていいと思います。しかし親鸞聖人は、二十年やってみてその煩い悩みが消えなかったんですね。わかりやすい言い方をすれば、腹が立つ心ひとつが消えない。あるいは同じ修行をしている仲間同士でも、「あいつに負けた」とか、「俺はあいつよりは上だ」という妬んだり憎んだりという気持ちがなくならなかった。これが聖人の二十年だと思います。

 そんなものだと開き直ることができたなら親鸞聖人は比叡山を下りる必要はなかったと思います。なぜならまわりもみな、煩悩を断ちきらないといけないと言いながら、その内実はぜんぜん違っていたわけです。

 当時、比叡山の僧は国家公務員の待遇ですから、比叡山にいたら食べていけます。疑問があってもそんなものだと高をくくれば、親鸞聖人も山を下りなくてよかったわけです。ではなぜ下りられたか。ここが大事だと思うんですね。

 嫌になって逃げ出したのではないと思います。それなら二十九歳まで頑張らないと思います。もうちょっと若い頃、十八、九歳で逃げ出してもいいんじゃないでしょうか。二十九歳まで頑張ったということは、やはり九歳から縁を持った比叡山の仏教が大事だと思っていたからですよ。ところが、煩悩を断ちきれば迷いから解放されるということは理屈ではわかりますけれども、煩悩がなくならない。腹立つ心は一瞬で湧いてきます。こんな自分はダメなんじゃないか、仏教から漏れ落ちるんじゃないかという危機感もあったと思うんですね。そんな中で、比叡山を下りて、六角堂に百日籠った上で、法然上人の許を訪ねられるわけです。

 今年は聖徳太子の千四百回忌ということで、大阪の四天王寺でも大きな法要が予定されているようです。また奈良のほうでも、法隆寺を始め興福寺などで行われるようです。日本の仏教の中で聖徳太子を馬鹿にする人はいません。しかしその聖徳太子はなにを教えてくださったかといえば、修行しなさいって言ったわけじゃない。だって在家の信者さんですから。結婚生活もなさり、子どもさんもいらっしゃいました。そんな中で仏教を勧めていった。その時には山に上る仏教ではないんですよ。修行して煩悩を断ちきる仏教ではなくて、日常生活の中でいただける仏教です。六角堂でこの聖徳太子の励ましをいただいて、親鸞聖人はようやく法然上人の許に行くんですね。

 その時の親鸞聖人のお気持ち、お心が『恵信尼消息』に残されております。これは当時、越後におられた親鸞聖人の妻である恵信尼様が、京都で聖人の身の回りのお世話をされていた娘の覚信尼様に宛てられたお手紙です。恵信尼様は親鸞聖人よりも九つ下の寅年です。親鸞聖人はひとまわり前の巳年生まれです。親鸞聖人が九十歳で亡くなられた時、恵信尼様は八十一歳ですね。そして娘の覚信尼様は、恵信尼様が数え四十三歳の時の子どもですので、八十一歳のお母さんが、三十八歳の娘に送っている手紙です。

昨年の十二月一日の御文、同二十日あまりに、たしかに見候いぬ。(聖典六一六頁)

 親鸞聖人が亡くなったのが十一月二十八日です。おそらく次の日、二十九日に葬式をして、お骨になるのに一日がかりだったと思います。昔はお月様の暦ですから、二十九日で終わる小の月と、三十日で終わる大の月があるんですが、この年は十一月は三十日までありました。ですからお骨拾いを終えて十二月一日付で書いたお手紙なんでしょうね。それが「同二十日あまり」ですから、二十日あまりかかって新潟の恵信尼様のところに届いているんですよ。

 それで、「たしかに見ました」と。当時の通例でしょうね。今のように郵便事情はよくありません。手紙だけ届けてくれる人はいません。何かの物資に託して届ける。それがきちっと届きましたよということをまず言っておられます。

 そしてその次の言葉がすごいです。

何よりも、殿の御往生、中々、はじめて申すにおよばず候う。(聖典六一六頁)

 「殿」というのは親鸞聖人のことです。「殿の御往生」つまり親鸞聖人が往生なさったのは、「中々、はじめて申すにおよばず候う」ですから、いまさら、初めて申すまでもありませんという意味です。

 あとまで読んでいくとわかりますが、どうも娘の覚信尼様は、お父さんである親鸞聖人の往生を疑っているんですね。ですからここからは私の推測ですが、親鸞聖人は最後は南無阿弥陀仏を称えることができなかったかもしれません。あるいは苦しまれて、まわりのご家族にも「今までありがとう」というお礼の言葉、お別れのご挨拶も言えなかったかもしれません。そういう死に方を見せられたものですから、娘は「お父さんは本当に往生したんでしょうか」と疑った。

 私たち『御伝鈔』では、「ついに念仏の息たえましましおわりぬ」(聖典七三六頁)と読んでいます。「ついにお念仏の息が絶えられた」と。それはそれで間違いないことです。「南無阿弥陀仏」とその時、発音してたかどうかじゃないですね。

 でもここはそうではなく、娘とお母さんのやりとりです。その時に、「お父さんは本当に往生したんだろうか」と書いてあったものですから、「あんた何言うてるんや」という感じだと思います。「親鸞殿の往生は今さら言うまでもありません。死に方で戸惑ってはいけませんよ」と。もちろん娘ひとりに宛てた手紙ではなく、まわりの人にもよくそのことを言ってくださいとおっしゃっていますので、たぶん京都ではざわついてたんでしょうね。「親鸞聖人って偉いお坊さんだって聞いてたけれども、本当に往生できたのだろうか」と。

 これ、どうでしょうか、私たち今でも言いませんか。「あんな死に方したら、成仏できるやろか」みたいに。それは死に方が悲惨だったり、あるいは前後不覚のようなことになったら、悔いは残るかもしれません。しかしながら親鸞聖人のお手紙にもはっきりとありますが、臨終の形は問題じゃないんです。ひとりの人が一生を終えられたという意味では、本当にかけがえのない人生を尽くされたということです。「臨終の善悪をばもうさず」(聖典六〇三頁)と親鸞聖人はお手紙で明確におっしゃっています。

 恵信尼様はそれを受け継いでいますので、たとえ苦しんで亡くなったとしても、あるいはご挨拶できなかったとしても関係ない、「あなたのお父さんはこういう人だった」ということを娘に明確に言い、そして「まわりにもそのことをちゃんと共有しといてくださいね」というお心の手紙なんです。

 けっこうきつい言葉だと思いますよ。八十一歳のお母さんが三十八歳の娘に手紙を出すのなら、「確かに見ました」のあとは、普通はこんな言葉が入りませんかね。「長いこと看病ありがとうね」と、苦労をねぎらうんじゃないでしょうか。お礼を言って当然だと思うんですよ。しかしその前に「殿の御往生は今さら言うまでもありません」と書いているということは、よほどこれだけは言っておかなければならないという思いがおありになったのでしょう。

 結果的にこの手紙が出されたのは二月十日です。だいぶ間があいています。どう書こうかを悩んでいらっしゃったのかもしれません。あるいは四十九日のお勤めが終わって、区切りがついたところで出したのかもしれません。それは、わかりません。ただ、娘にきっちりと言っておかなければいけないという思いがあったに違いないと思います。

 このあとに、先ほど申し上げた、親鸞聖人が比叡山を下りて、六角堂に百日籠って、そしてそのあと法然上人の許に行ったということが出てきます。「あなたのお父さんはこんな人だったということを、もう一度言っておくぞ」という、こういう感じのお手紙であります。そこに親鸞聖人が何で悩んでいたのかということが、たいへんよくわかる言葉があります。

山を出でて、六角堂に百日こもらせ給いて、後世を祈らせ給いけるに、(聖典六一六頁)

 「山を出でて」、これは比叡山を出てということです。「六角堂に百日こもらせ給いて」。「六角堂参籠」と言われます。六角堂に百日間お籠りになった。廣瀬杲先生が、「山を出でて」というのは、六角堂で行き先が見つからなかったらまた比叡山に戻ればいいという中途半端で行ったんじゃないと、繰り返しおっしゃっておられました。「山を出でて」というのは、文字通り退路を断って、戻る場所もなくて山を出たということだと。だから六角堂に百日、本当に籠ったのだと強調しておられました。

 今も比叡山のほうの伝承では、比叡山から夜な夜な通われたということになっているんですね。京都の六角堂に行きますと、正面入って右手に親鸞聖人のことを大事に思う方が建てられた親鸞堂というお堂が建っていて、そこに駒札があります。ここには、夜な夜な比叡山から百日通ったんだと書いてあります。まあ通えない距離ではありません。親鸞聖人は健脚ですからいくらでも歩けるんですが、私は廣瀬先生の言うとおりだと思っています。山に戻る場所を確保したまま来たのではなくて、もう出てしまった。これから先、行き先が見つからなかったら山に戻ることもできない、生きていくことも、死んでいくこともできないような状態じゃなかったかと思います。

 そしてその次、「後世を祈らせ給いける」とあるでしょう。これが親鸞聖人のその時の気持ちを押さえている言葉だと思います。後世を祈っておられたというんですね。国語辞典で「後世」を見ると、「死後の世界」とか、「あの世のこと」とか、「今の次の世」とか書いてあります。そういう意味で使われているのも間違いないですが、親鸞聖人の悩みは、けっして自分が死んだあとどこに行くのかというものではなかったと思います。これは文字どおり、後の世と書いてありますから、今から先、未来のことだと思います。未来が見えなかったら、私たちは現在も生きられないんじゃないでしょうか。例えば本当に明日がまったく見えない状況だったら、今日を生きる元気が出ますかね。

 今もコロナでたいへんな状況ですけども、なんとか落ち着いていくのではないかという思いでみんな踏ん張っていますよね。でも思った以上に長く続いている。去年はまさかこんなにかかるなんて誰も思ってないわけですよ。今はワクチンが切り札のように言われて、ワクチンを打っている人はまわりにもどんどん増えてきました。「緊急事態宣言」も解除の方向に動いてきているということがあるわけです。でもわかりません。もう片方でオリンピックもありますから、本当にどうなるかわからない。

 明日が見えなかったら、今日生きる元気も出ないと言えます。逆に一年後にこんな行事があるから、今年から準備をしないといけないと段取りを立てて、それを迎える。そこに毎日、しんどいことがあっても、なにか力が湧くということもありますよね。不思議な話です。未来というのはまだ来ていないんです。来ていないけれども、現在に力を生み出すようなものを持っているわけです。

 親鸞聖人が「後世を祈る」とおっしゃっているのは、これ以上比叡山にいても、煩悩を断ちきって迷いを超えていくことは訪れそうもないという感覚です。しかしだからといって、下りればなんとかなる、それもないんですよ。法然上人のところに行けば、明るい未来が待っているというのだったら、わざわざ六角堂を経由しなくてもよかったと思います。比叡山を下りて、そのまま法然上人のところに突っ走ればいいんですね。

 しかし法然上人の「ただ念仏」についても、そこまで断言できるものを親鸞聖人は持っていなかったと思います。今まで修行をバリバリやってきた人です。その立場からすると、南無阿弥陀仏と称えただけで助かるなんていうのは、うさんくさく見える。これは私たちでも一緒です。初めて南無阿弥陀仏の教えを聞いた人で、「ああ、ありがたい教えですね」って言う人はいないですよ。「南無阿弥陀仏と言って助かる? そんないいかげんな」って言われますよ。やっぱり体を鍛えるとか、お経を山ほど読むとか、そういうことをした向こうにあるのが覚りだというイメージがある。

 親鸞聖人は比叡山で二十年修行した人ですから、法然上人はすごい人だとは聞いていたでしょうけれど、なかなか踏み出せなかったと思うんです。しかし比叡山にも留まれない。山にもいられないし、法然上人のところにも行けない八方塞がりの状況、ぎりぎりのところで、六角堂に籠ってこれから先を祈るしかない。そうしたら聖徳太子が夢告をなさった。それが「九十五日のあか月」ですが、それを縁として法然上人の許を訪ねたと続きます。

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Last modified : 2021/09/26 19:08 by 第12組・澤田見(組通信員)