糸菊
便利になりすぎて

 「数年前には考えられなかったことが現実になり、日本社会は変わった」(フランス・ルモンド紙)と書かれていました。戦後57年を迎えましたが、いろいろな面で日本社会はずいぶん変わって来ました。

 かつては、お金持ちでしか所有できなかった車、電話、冷蔵庫、洗濯機、炊飯器、掃除機などがどの家庭にも揃っているなんて、昔の日本人には想像もつかない状態であります。

 景気は低迷しているとは言うものの、食べる物、着るものも街にあふれ、テレビ、パソコン、ファックス、携帯電話なども日用の道具になり、飛行機や新幹線、電車、バスなどの乗物も便利になって来ました。ご先祖の誰一人も経験しなかったような便利で、豊かで、ぜいたくな生活を送るようになって来ました。

 物や生活の面では、ぜいたくなまでに豊かさに満たされているはずですのに、ただおもしろく、おかしく、自分さえよければよい、自分のしたいようにして何が悪いといった風潮が強く、人の心は暗く、みんななぜか疲れて、何かぎすぎすとしています。生活の豊かさとは反対に頑(かたく)なな、うるおいのない争いと破壊と不信に満ち満ちているように思われます。

 私たちは、ただものの豊かさ、便利さを幸せだと思って生きて来ましたが、本当に大切なもの、本当の豊かさを見失なって来たのではないでしょうか。

 「いまのままの日本では駄目になってしまう」、晩年の司馬遼太郎氏の言葉です。

 敗戦直後は、物も食料もありませんでしたが、親子、友人、近所同士助け合う共生社会があり、そこにはやさしさ、美しさ、ロマンス、心意気、上品さがありました。

 一昔、二昔前まではどこの家でも表の戸もあけっ放し、隣近所、知り合いの人たちが自由に出入して、縁側でお茶でもよばれて世間話。作ったご馳走をあげたりもらったり、ちょっとした調味料の貸し借りなど屈託のない縁側のおつき合いがありました。

 今では、用心が悪くなったこともあり、どこの家でも表をしめ、「ピンポーン」と押しても、どなたですか、何の用事ですかと、みずくさくなって来ました。

 「ご飯粒、粗末にしたら目がつぶれる」「ものを粗末にしたら、罰あたる」「もったいない」とものを大事にして来ました。

 「蓮如上人、御廊下(ごろうか)を御とおり候いて、紙切(かみぎれ)のおちて候いつるを、御覧ぜられ、『仏法領の物を、あだにするかや』と、仰せられ、両の御手(おんて)にて御いただき候うと云々

総じて、かみのきれなんどのような物も、御用と、仏物(ぶつもつ)と思し召し候えば、あだに御沙汰(ごさた)なく候いしの由、前住上人、御物語候いき。

と、『蓮如上人御一代記聞書』第310条にありますが、蓮如上人は、「仏祖より頂戴したものを粗末にするのか」と言われて、両手で押しいただかれた。「すべて、紙の切れ端などのようなものに至るまでも、如来より下された仏物とお思いになられていたため、何ひとつとして粗末になさるこはなかった」と、実如上人が語られました。

 何でも大量生産、大量消費、大量廃棄、ごみの山。お金さえ出せば何でも買えるぜいたくな現代、「もったいない」「ありがたい」「おかげさま」といった心が薄らいで来ているのではないでしょうか。

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Last modified : 2014/12/10 3:21 by 第12組・澤田見(ホームページ部)