すすき
五つの怖畏(おそれ)

 仏教では、人間の目に見えないものに対して常に五つの怖畏(おそれ)をいだいていると教えられます。

 第一は、「不活畏(ふかつい)」〈延命畏〉。食っていけなくなるのではないかというおそれで、生活の不安、特に衣食住の不安を言います。会社が倒産しないか、病気になったらどうしよう……。しかし、このような取り越し苦労ばかりしていても始まりません。すべてを如来にまかせきって、精一ぱい生きていくことでしょう。

 第二は、「悪名畏(あくみょうい)」、周囲から悪く思われないか、悪口を言われているのではないかとおそれ、絶えずまわりを気にしているということです。ということは、良く言われたい心があるからでしょう。しかし、世の中には良く言う人もあれば、必ず悪く言う人もあるものです。万人が万人共良く言うということは絶対にないのです。

 第三に「怯衆畏(こしゅうい)」〈大衆威徳畏(たいしゅういとくい)〉衆を怯(おそ)れ、大勢の人に威圧されるおそれです。世間態を気にするのです。世間が何と言っているだろうか、どんな評判を立てているだろうか、そのことが気になってたまらない。実体のない世間の思惑ばかりを気にしてビクビクしているのです。よく「世間がああ言っている、こう言っている」とか言うのですが、ごく二、三人の人が無責任に、その時の都合で言っているのが多いのですが、それが「みんな言うてはる」と思い込んで気にしているのではないでしょうか。

 第四には、「命終畏(みょうしゅうい)」、命の終わる時の畏(おそ)れ、死ぬ時の畏れということでしょう。人間の命の終わろうとする時には、ああしておいたらよかったのにとか、死んだらどうなるのだろうかという漠然とした不安が身をおそってくるということです。

 しかし、どれほどあがいてみても、もがいてみても、全く手も足も出ないのです。生きたいと思っても生きられないのです。全く手放しでおまかせするしかありません。

 第五には「悪趣畏(あくしゅい)」。悪趣とは三悪趣(地獄・餓鬼・畜生)といわれるような苦しみの世界のことですが、そういう世界に陥(おちい)るのではないかという畏れのあることです。よいところに生まれられないのではないかということでしょう。

 その点、親鸞聖人は、よいところなど生まれられるはずは絶対にない。何故なら今日に至るまで、なに一つ善いというようなことはして来なかったのだから。善いことをやったつもりでいたが、仏智(ぶっち)に照らされたら、すべてが雑毒(ぞうどく)の善であり、虚仮の行(こけのぎょう)以外の何物でもなかったとして自覚しておられたのです。

 深く自己をみつめられた一点から、見えてきたものは死んでから地獄にゆくということではなく、現在が「地獄は一定(いちじょう)すみかぞかし」であったのです。もうこれ以上墜ちる所がない地獄の底にこそ、極楽の門が開かれていたのです。地獄一定と自覚することが、南無のすがたなのです。南無のこころにはじめて阿弥陀のはたらきが感じとられてくるのです。そうなれば、もう地獄であろうと極楽であろうと気にならなくなるのです。

 真実の信心を得るならば、これらの怖畏から開放されるのです。何をビクビクしているのか、自分は自分なりに精一ぱい生きたらよいのではないかということでしょう。

(平成9・11・20)

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Last modified : 2014/12/10 3:21 by 第12組・澤田見(ホームページ部)