百日紅
一度きりの尊い道

 心暖まる明るいニュースがなく、むしろ腹立たしい、また、痛ましいさまざまな事件、事故、犯罪が次から次へと起こっています。

 まさに、五濁悪世、欲望に翻弄(ほんろう)されて、いのちの尊さが見えなくなって来ているように思われます。

 と言ってもひとごとではなく、私もいつ、何が起こるのかわからない、一寸先は闇のこの世の中の一員として生きているのです。しかし、私一人のカでは世の中を変えることもできませんし、この世の中から逃げ出すこともできません。とすれば、否応(いやおう)なしにこの世の中を生きていく以外に道はないわけです。

 人間というものは、「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」(『歎異抄』)で、今のところ、新聞ダネになるようなご縁がないだけですが、翻(ひるがえ)ってみますと、私自身も、「凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず」(『一念多念文意』)と教えられている凡夫であることには違いありません。

 「一年は短いが、一日は長い」とだれかの言葉ですが、その長い一日も「一分一秒年をとっている」のです。ある女優さんが「一年が一千万円で買えるなら、私、買いますよ」と言ったそうですが、買えるわけでもありません。毎日毎日、明日もある、明後日もあると思って、ついうかうかと過ごしています。

 NHKの「みんなのうた」で「自分にはわからないが、いつかその日がやってくる」というのがありました。「その日」というのはどんな意味で使われているのかわかりませんでしたが、いろいろな解釈ができると思います。しかし、いずれにせよ、お互いに「再びは通らぬ一度きりの尊き道をいま歩いている」(榎本栄一さん)わけであります。

 ややもすれば、いやなことは避けて、毎日、おもしろおかしく、自分をみつめることもなく、押し流されているとも言えるのですが、尊いいのちをいただいている自分自身の本当の姿に気づいて、自分をみつめ直すことが現在、求められているのではないかと思われることです。

『正信偈』の

我亦在彼摂取中
煩悩障眼雖不見
大悲無倦常照我

真実信心をえたる人は、身は裟婆にあれども、かの摂取の光明のなかにあり。しかれども煩悩のまなこをさえて、おがみたてまつらずといえども、弥陀如来はものうきことなく、つねにわが身をてらしまします。(『正信偈大意』)

を改めていただきたいと思うことでございます。

(平成12・7・1)

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Last modified : 2014/12/10 3:20 by 第12組・澤田見(ホームページ部)