戦争と仏教―戦争は戦争の顔をしてこない―/山内小夜子

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第101回南御堂ヒューマン・フォーラム(2016/5/17)講演録より

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はじめに

皆さん今晩は、私は山内小夜子(やまうち・さよこ)と申します。どうぞよろしくお願い致します。
私は京都の東本願寺、真宗大谷派の解放運動推進本部で働いています。

今日は「戦争と仏教」という講題に、「戦争は戦争の顔をしてこない」という、ちょっとわかりにくいサブタイトルをつけました。皆様と一緒に戦争や平和について、また日本国憲法(以下憲法)で言えば、第九条と、第二十条の「信教の自由」という条文で表現されている問題を確かめたいと思います。

そのことを、私の所属する真宗大谷派(東本願寺)の歴史、とりわけ戦争中の歴史と、その歴史を戦後どのように受け止めてきたかたどる中でご報告させていただき、一緒に考えていければと思っています。

若い人たちを戦場に

資料1「仏具の供出」

資料1「仏具の供出」

仏教の教えの中で、初期の頃から大事な戒律、戒めとしてありますのは不殺生戒です。仏教とは、「殺すなかれ、殺さしめるなかれ」という戒めを持つ宗教です。

しかし、戦争中は、そのような仏教の戒律や宗祖親鸞聖人の教えが、一人ひとりの心の中にはあったのでしょうが、大きな国の流れの中に巻き込まれていくような状況でした。

少しそのことを知っていただくために、一枚の写真(資料1)を見ていただきたいと思います。タイトルに「仏具の供出」とあります。
一九四一年(昭和一六)太平洋戦争が始まります。資源が少ない私たちの国は、戦争のための鉄や金属等が乏しくなってしまい、一軒一軒の家から鍋や釜や農機具、女性たちの装飾品の指輪や首飾りまで供出させました。
この写真は、岐阜県池田町恩知小学校講堂での「仏具の供出」法要の様子です。梵鐘、花瓶、喚鐘、燭台等が並べられています。私たちからすれば仏具は、仏様の道具です。そういうものまでが供出させられていくという状況がありました。戦争の中で、お寺も戦争に巻き込まれ、仏様の道具まで戦争の道具として供出したのです。

資料2「挺身殉国」

資料2「挺身殉国」

そして一方、このような動きもありました。こちらは東本願寺の大門前の写真(資料2)です。大門に「挺身殉国」というスローガンが掲げられました。「身を挺して国に尽くしなさい」という言葉を、仏教教団が不殺生ということを言いながら掲げた歴史があるのです。

次に、この「大谷派内出陣学徒壮行会」の写真(資料3)なども、今から見れば非常に痛ましい写真でございます。一九四四年(昭和一九)の学徒出陣の写真です。戦争中、戦争が終わった後の未来の日本社会の中核となり国を担っていくのが若い学生であると考えられ、当初は徴兵を猶予されて戦場にはいく必要がありませんでした。ところがいよいよ戦況が厳しくなっていくと、兵隊が足りなくなって、学生までもが出陣しました。学び舎を出て、真宗聖典や万年筆を置いて、戦場に行くことになります。

この写真は、足にゲートルを巻き、手に銃剣を持たされて、いよいよ「戦争に行きます」という学生たちに、当時の「法主」が、「戦場で頑張ってこい」と訓話をし、戦地に送り出す状況を写した写真です。

資料3「大谷派内出陣学徒壮行会」

資料3「大谷派内出陣学徒壮行会」

戦争が始まると、仏教教団も戦争と無関係にいることができず、若い人たちを戦場に送り出し、ご門徒の方々には「仏法は心に、身は国家に尽くしなさい」と教えていくのです。

戦争を信仰の課題として

日本は七十一年前に敗戦を迎えました。戦争でおよそ三二〇万人の国民が亡くなられました。アジア太平洋地域、中国や朝鮮半島、南洋諸島で、日本の戦争によって亡くなられた方々は二五〇〇万人とも三〇〇〇万人とも言われています。本当にたくさんの生命が失われたのです。

その戦争をどう考えるのか。それも仏教者としてどう考えるのか、ということです。
長い間、日本社会の中で、戦争や戦争責任を仏教者自身が信仰の課題として取り上げることがありませんでした。むしろ敗戦国として、戦後の荒れ地からの復旧・復興、新しい国づくりに懸命に猛進した七十年間だったのかもしれません。

それでも戦争が終わって四十年ぐらい経ってから、自分たちの宗門の歴史を振り返り、仏教教団として、あるいはその時を生きた仏教徒として「先の戦争をどう考えたら良いのか。戦争中の自分の仏教徒としての信仰と、戦争が終わった後の仏教徒としての信仰の差異に、どうやって整合性を持たせるのか」と、信仰の課題とされた僧侶たちがいらっしゃいました。

その中のお一人が市川白弦さんです。市川さんは臨済宗妙心寺派の方で禅の研究者であり、京都市の教育委員や花園大学でも教鞭をとられました。日本の仏教徒として、おそらく一番初めに「日本の仏教徒の戦争責任」を自らに問い、表明された方です。『仏教徒の戦争責任』という論文を一九七〇年(昭和四五)に執筆されています。その中で、仏教徒にとって戦争体験とは何であったのかを、次のように述べられています。

戦争体験は単なる戦争体験として捉えてはならず、それはどこまでも天皇制体験と戦争体験との統合としての聖戦体験として捉えられ反省されなければならない。我々の戦争責任の反省が天皇制に対する批判と我々の内なる天皇制的エートスに対する自己批判を欠くならば、それは不徹底という他ないであろう。 (『仏教徒の戦争責任』市川白弦・法藏館)

戦後生まれの私たちには、当時の「天皇制」とか「天皇制体験」もしくは「内なる天皇制的エートス」という内容について、実感としてよくわかりません。ただ戦争というと、単純に戦場で兵士がどういう戦闘をしたのか、もしくは兵士を送った後の家族がどのような銃後体験をしたのか、という程度の戦争体験しかイメージできなかったのです。市川先生からは、戦争体験とは、「戦争体験」と「天皇制体験」とが一つに合わさったものとして考え、反省されなければならないという視点をいただきました。

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Last modified : 2020/04/28 18:00 by 第12組・澤田見(組通信員)