神を救う(梵天勧請)/沖野 頼信

シッダータが悟りを開いたとき、その悟りの内容は深遠で、おそらく誰にも理解できないだろうから、死ぬまで誰にも話さずにおこうとした。

しかしそのとき梵天王(バラモン教で説く宇宙の創造神、マハーブラフマン)が現れて法を説くように勧めた。これが有名な「梵天勧請(ぼんてんかんじょう)」である。

仏蹟の壁画や、レリーフなどのテーマに、梵天勧請は好んでもちいられている。
もともと仏教では神の住む天上界も一種の迷界であり、神もまた仏陀によって教化されなければならない存在であった。
迷いの存在というのは、自己中心の矮狭な世界観を持っているために、この世界のほんとうの相(すがた)が見えないもの、という意味である。

okino2だから神は同じ迷いの存在である人間からの、自己中心的な祈りに応えてしまうのだ、とされている。
この神も迷っている、救われるべきだという考え方は非常に興味深い。
仏教は「悟りを開く」などという表現から解るように「世界をそのままで誤りなしに見る」ことを目的とした宗教である。
これは世界を変化させたり、人間を変化させたりするものではない。
つまり仏教は神の力などでこの世界を思い通りに変化させようとする宗教へのアンチテーゼでもある。
現在の世界の様相をみわたすと、それは文明の衝突とか宗教戦争とかいわれているが、一神教的な文明同士が自己中心の考え方でお互いに非難し合い殺しあっているように見える。

一神教的な思考とは他を認めないことであり。自分の思考や行動が唯一の正しい神によって保障されたり祝福されていると信じることである。

しかしこの考えは非常に危険である。別の対立した一神教と衝突したとき、他との対立を解消する原理が、どのような一神教の内部にも存在しないからである。
そのことがわかっているから、一神教信者は世界中を一種類の宗教にしてしまおうとするのである。かれらの布教意欲の強さはそういったある種の平和願望のあらわれである。
これはキリスト教やイスラム教やユダヤ教だけでなく、自己中心的な理想の達成(ひらたく言えば欲望の満足)を目的とする宗教におしなべて当てはまることである。
なぜなら自己中心的な理想たちは他の自己中心的な理想たちとつねに対立するものだからである。

そしてその対立を解消するのは、対立する相手を自分と同じ考えにしてしまえばよい、と短絡的に考えてしまう。このことがじつは自己中心主義そのもので、新しい対立を生み出していることに、全く気づいていない。
「唯一無二の神とか真理とか」を名乗る自己中心主義が、二十一世紀の地球を徘徊し人々を苦しめている。
このことは決して神の本意ではないはずである。もしかしたら、いま最もこころを痛めているのは神自身かも知れない。

いま、救われなくてはならないのは神である。神はシッダータに師事し守護した梵天王にならって仏教を聞かなければならない。

それからこの世界のすべての宗教、主義、思想を認めることである。
ある民族だけとか、ある宗教だけとか、教 義を信じる者だけ、戒律を守るものだけとかいうように、地球の上に境界線をひくことによって、無意味な対立を作り出さないことである。
神よ、君はいまどこにいるのか、メッカあたりにか、エレサレムにか、バチカンにか(この間バチカンへ行ったときは留守だったね) 地球のコアにか、射手座の方向のどこかにか、それとも、もう死んでしまったのか、どこに居てもかまわない、生死にもかかわらずだ、

シッダータの法を聞け!

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Last modified : 2015/02/24 10:59 by 第12組・澤田見(ホームページ部)