問い

私は七年前主人に先立たれ、現在息子夫婦と一緒に住んでいますが、最近医者から脳血栓になりやすいと注意されました。動けぬ体になるのではと不安で、寝ている間に安楽に死ねたらと思います。どうすればよいでしょうか。

(65歳・女性)

答え

 「安楽に死ねたら……」と願うお年寄りが多いようです。その背景には老人福祉の問題、家族制度の問題など、皆が考えねばならない大きな問題がありますが、しかし「都合よく死にたい」という思いを通して、今どういういのちを生きているのかという、だれもが問われねばならない根源の問題が問われてきているようです。

 若い人たちに迷惑をかけたくないという思いもあるようですが、しかしなお一層深く「若い者の世話になりたくない」という傲慢が潜んでいます。そこには、普段は人に迷惑をかけずに生きているつもりの私があり、事実は常に他に迷惑をかけずには生きられない存在であることに気がつきません。

 私たちは、いのちを「私のいのち」として常に私の思いどおりになろうと我がままいっぱいに生きてきたのではないでしょうか。そして死をも思いどおりに死にたい。それこそ「寝ているうちに」ということで、夢の中に一生を過ごし、夢の中で終わろうとする。死すべきいのちを今生きているという自分を一度も本気で問おうとしない私たちです。

 ある同朋会の席で、「自分は毎日楽しく過ごしており何も言うことはないが、ただひとつ気になることがある。長患いをして周りに迷惑をかけないよう一週間ぐらい床について、その間周りの人々に『お世話になりました。ありがとう。ナムアミダ仏』と言って美しくこの世を去っていきたい。このことだけが不安である」という話が出て、聞いていたみんなも深刻な顔をしてうなずいておられました。

 これも、死ぬときを問題にしているようですが、実は死に方を問題にしているのは今現在の私なのです。

 鎌倉時代に関東で大飢饉があり、惨たんたる状況の中で老若男女の人々が悲惨な死をとげていかれた。そんな状況の中で、親鸞聖人は「善信(ぜんしん)が身には臨終の善悪を申さず」と言っておられます。
 死ぬときの状況、死に方は言うまでもなく、死に至るまで続く不安、苦悩、その全てを任せ切れるおはたらきを阿弥陀如来と信知せしめてくださる教えが真宗であり、本願念仏だと教えられています。
「ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべし」との仰せにうなずけてくるところに、周りの人々にも「病気になって世話をかけると思うが、よろしく頼むな」と頭の下がる世界がいただけるのではないでしょうか。

(本多惠/教化センター通信 No.120)

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Last modified : 2017/03/01 20:25 by 第0組・澤田見(ホームページ部)