問い

真宗の法話を聞きますと、「私のような人間が」とよく言われます。「こんな私が」というところから聞法が始まると聞きますが、私には卑下しすぎだと思えます。卑下することより、プライドを持つことの方が必要な気がするのです。プライドが高いのは救われないでしょうか。

(35歳・主婦)

答え

 確かに深く聞法をされている方の口から、「こんな私が」「私のような人間が」という言葉が聞かれますが、ここから聞法が始まるのではなく、実は聞法が深まってゆくことにより、仏智に照らされて我が身の実の姿が明らかになった自覚の言葉なのです。だから決して自分で自分を卑下した卑屈な言葉ではなく、それは同時に真実なるものに出遇ったよろこびの表現でもあるのです。

 教えに照らされての「私のような人間」という自覚は、思いあがった自我心が砕かれた謙虚なものであり、同時に仏法により独立者として生きてゆくという自信、ほんとうの意味でのプライドといえます。

 ところが、一般に言われるプライドは、「私はこんなもんだ」という自分への勝手な執着心(しゅうじゃくしん:我執)であって、仏教で高慢といわれるものであり、さらに増上慢といって人を侮り見下す高ぶった思いでもあります。私たちは、そういう慢心を自分として生きているため、他人と比べては優越感を持って思い上がり、時として劣等感に落ち込んで自分を卑下し、常に自分の物差しで比較して浮いたり沈んだりを繰り返しているのではないでしょうか。いずれも自我心であり我執であって、そういうプライドに縛られているため、かえって自分に自信が持てず、深いところでいつでも卑下慢に陥っているのです。

 真宗は、そういう我執によるプライドからの開放です。仏智に照らされて我執を我執と知らされ、高慢な思いで他人を見下し孤立していた我が身の実体に気づかされて頭の下がったところに、はからずも共に生きてある賑やかな世界が開かれてくる。

 若い頃から自分に自信が持てず、劣等感に悩んでおられた方が、真宗の教えに聞いてゆく中で、「善いところも、悪いところもお前自身ではないか。丸ごと全部を自分自身として生きてゆけ」というほんとうのいのちの呼びかけ(南無阿弥陀仏)を聞かれたという。そこに、「なんと今まで自分の都合ばかりを追ったてて生きてきた思い上がった、愚かな私であったか」と頭が下がった。「こんな私」のすべてを認めてくださってあった如来の心を知らされ、初めてありのままの自分を生き切ってゆける真の自信、元気をいただかれたということです。

(本多惠/教化センター通信No134)

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Last modified : 2015/03/02 18:28 by 第0組・澤田見(ホームページ部)