問い

私は、自分が不安で頼りなく自信が持てません。この不安な気持ちに耐えられず、若い頃からお寺さんへ行くようになりましたが、仏法を聞いても、なおさらいらだってくるのです。この気持ちを抑えようと酒を飲んだりギャンブルをしたりしますが、スッキリしません。私のような者にも安心の世界が開けるのでしょうか。

(49歳・男性)

答え

 ある先生は、高校生の頃まで赤面恐怖症に悩まされておられました。人前に出るとおじけづき、口ごもってしまう。思いあまってある時尊敬する寺の住職さんに相談されました。「私は人に会うと顔がポーとしておじけづいてしまうので悩んでいますが、どうにかなりませんでしょうか」。住職さんは「それはおまえの性格だからどうにもならんだろうな。どうにかしようと思わんでもよい。顔が赤くなったら赤くなったままで人に会ったらいいのではないか」とおっしゃった。それに対し、「しかし、オドオドして口ごもったり、ドモッたりするのがやり切れません」と反論すると、住職さんは「オドオドしてドモッたら、オドオドしながら話したらよいではないか」とおっしゃった。

 高校生には納得しかねる部分もありましたが、その方は何かしら目の前が明るくなったような気持ちになられたそうです。その後も、その住職さんの言葉が念頭にあって、いつも勇気づけられたとのことです。そして気づかれたことは、自分にとって嫌な性格も、好きな性格も、それはその人の個性なのであって大切な意味を持っているのだなあということです。性格や個性を変えようと思ったり、ごまかそうとすることは、自分を粗末にすることであって、個性をほんとうに生かすところにこそ、その人の輝きが発揮されるものなのでしょう。

 仏教では人間はすべからく五つ畏れ不安を持っていると教えられます。一、不活(ふかつ)・二、死・三、堕悪道(だあくどう)・四、悪名(あくみょう)・五、大衆威徳(だいしゅういとく)に対する畏れ、不安です。これらの不安・畏れを、酒やギャンブルでごまかそうとするのは邪道です。「不安や苦悩は阿弥陀如来のラブコール」と言った人もあります。不安や自信が持てず悶々とする。そこにこそ謙虚に仏法が聞けるのです。念仏の道は、不安をなくし、何も畏れない者になるのではなく、むしろ不安な心を大切にし、苦悩をひっさげて真実なる教えを聞いていくバネにしてゆくことでありましょう。

(本多惠/教化センター通信 No.138)

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Last modified : 2014/12/09 6:16 by 第12組・澤田見(ホームページ部)