前を訪う2 内山宗之さんに聞く

教区の学習会の折、「住職の信心も、門徒の信心も、如来より賜る信心に変わりはない」とご自身の聞法精神を熱く語られたのは、大阪教区門徒会前会長・第3組 西元寺門徒の内山宗之さん。

新教化体制も3年が経ちました。今一度、教区教化活動を確かめ合う手がかりとして、願いを持って教化にかかわってこられた諸先輩がたをお訪ねし、その思いをお聞きする企画「さきを訪う」。今回第2回目は、門徒と寺族で共に創って行く浄土真宗の形を、内山宗之さんにお訪ねしてみたいと思います。

教区門徒会長のご苦労

どうしても、住職が教える側、門徒が聞く側に回っているんですよね。北陸の方なんか見てみると、住職と門徒は本当に対等なんですよ。対等というよりは、住職を横へ置いて、門徒で「お講」のような、自分らの勉強会をやっておるわけです。全国門徒会長会議などに出ているときには、いつも北陸の方の門徒会長に「おまえ等何してるんや、元気無いやないか」と言われていました。

教区門徒会長で苦労という事はないけれども、私はどうしても、推進員の連絡協議会を作らなあかんと思ってました。なかったのは久留米教区と大阪教区だけやからね。ですから、教区のいろんな挨拶のときには、必ず住職方に「お願いしますよ」と「とにかくやってくださいよ」と、何回も何回も言うてきましたけど、これがなかなかやねん。

だけどね、実を言うと僕自身も最初は推進員養成講座に反対やったんです。「なんで、聞法するのに資格が要るんや、そんなもの門徒会で十分ではないか」って思ってた。だけど門徒会というのは行政やから、どうしても聞法する時間を取られるんです。あんまり、聞法と関係ないことをやってるわけでね。そういう意味で推進員は必要やと思った。その中で全国的に見ても、大阪に推進員連絡協議会がないというのは寂しいということで、教化委員会の中に項目を入れようやないかと動き出したんです。そして大阪教区としての推連協を作るという方向になったわけや。

教区教化委員会の事業について

教区の教化委員会への関りで言うと、同朋大会実行委員。それから行事部。だから、「教区同朋大会」は非常に愛着があります。最近は、同朋大会の実行委員って、「寺族」が多くなってしまったけど、昔はもっと門徒さんがいっぱい手伝ってはったんやで。段々少なくなってきて、気がついてみたら、会議のときによくしゃべってるのは住職ばかりです。門徒はほとんどしゃべらへんのや。それで、よけいに門徒が減ってきたような気がする。

だから、共同参画とかなんとかよく言うんだけど、実際のところは、住職の力が強くなって、門徒があまりしゃべらなくなってきている。言いにくい状態になってきている。正直いうたら、ホンマは聞法が中心になっていくような集まりにならないとダメなんですよ。さっきの北陸の「お講」の話やないけど、門徒が中心になってやるようなそういう集会、あるいは講演会、こういうものを同朋大会としてやっていかないと。それがなくなってきているから、余計に、住職の発言が強くなっているように感ずる訳ですね。

聞法道場「安住荘あんじゅそう」について

Ⅰ その始まり

安住荘は昭和55年やったから、もう40年ぐらいやってますね。私は親父から引き継いだだけなんです。この辺は昔、田んぼばっかりでね。うちの親父も百姓しとって、ここは自分の土地やったんですよ。親父は熱心な聞法者で、参議会の前身にあたる門徒評議会に出てたんですが、安住荘の聞法会へはそういう関係の人を誘うかというとそうではなくて、どちらかと言うとこの地域の人たちや親戚の人を誘ってやってたんです。

ただそのルーツを探るとね。親父の前の前の代ぐらいの時に、うちの家でも「お講」というものをやってた様な気がするんです。実際見たこと無いから分からんよ。分からんけども、お膳がたくさんあったり、お椀がたくさんあったりしたのを見ると。あるいは、机やとか、色んなものがあるんです。「お講」というのは、今の本山の報恩講でも改悔批判がいけひはんちゅうのがありますね。要は、門徒の代表が感話をして、それを受けて講師の先生がお話する。今でもあるでしょう?そういうお講を門徒の家で行ってきたことが、教えが伝わってきた大きな役割を果たしてたと親父は考えていたようです。

Ⅱ 交流の場

現在の安住荘の聞法会は休み無しに行ってます。まぁ、講師の先生の都合が悪くなったときもあるんだけど、その時は、その先生同士で、「あの人にやってもらうから、俺はちょっと都合が悪いけど、その先生でお願いします」っていうこと言われて、まぁそういうのもあって、ほとんど休んでません。

僕が教区へ出るようになってからは、聞法慣れした人たちが来はります。そういう意味では、教区のいろんな場で聞法している人たちの交流の場にもなってるんですね。法話が終わったら喫茶店行くねん。ほんでそこで今日はこうやったああやったって2時間ぐらいそこから話するねん。これがまた非常に楽しみやねん。

昔、大阪教区の駐在教導やった久津谷先生が、大無量寿経の「各各安立」から安住荘と命名してくれはった人なんやけど、この先生が座談会が好きなんです。だから座談会をやろうとしたんだけど。座談会嫌な人もおるんだよね。なんか、座談会なったらスーっと帰ってもうて、おらんようになって。これね。本山なんか行ってもそうだよ。「本山行きませんか」って言うても「本山行ってもええけど、あの夜の座談会あれが嫌やねん僕、僕、じっと我慢してあれ聞いてんのんが嫌なんだ」という人がかなりおるんです。ほんとはね、座談会が非常に大切なんですよ。自分はこう聞いたと、あの人はああいう風に聞いてるんやということがよくわかってね。やっぱり自分で自分に納得させてるのはダメなんですよ。人がどう聞いてるかというのがね大切なんですよ。

Ⅲ 垣根を越える

聞法に来られる方は、若い層の方はあんまりいないんですが、いわゆる聞法初めてという人はいらっしゃいますよ。この安住荘は、聞法会だけでなくて詩吟だとか、民謡だとか、俳句だとか、いろんな教室もやってるんです。なぜそういうものをやっているかというとね。やっぱり最初の段階で、聞法だけではどうしても人が集まらないから、いろんなことやって人集めてやろうと。だから案内状は毎月60枚、70枚ぐらい出してますよ。

詩吟の先生でね。いつもお弟子さんも連れて来てくれはるんですけどね。ご自分は浄土真宗じゃないんですよ。けど凄く法話を聞きたくて来はるんです。そういう垣根を超えるのも、こういう場やからなんでしょうね。各お寺の法話っていうのはどうしても垣根があるでしょ。なんか、うちの門徒じゃないのが来てるなあっていう目で見られる。それが嫌だから行かないって人もいるんですよ。なんかよそ者が来たなぁっていうような目で見られるんやっていうような。

昔からそうですが、お東さんは非常にお話の数が少なかった。西さんはものすごく多かった。僕のお袋は西さんなんです。お袋の実家で「一味会」って会をやっててね。やっぱりうちみたいなことをやっとったわけです。だからうちの親父もお袋はもちろんのことお西さんのお寺にお参りに行ってたんです。お西さんのお話で、僕はいつでも関心するのはね、お西さんの同朋大会みたいなもんがあってね。仏教講演会みたいなもんです。それに行きますと、必ず「次回はあなたは来なくてもお嫁さんに来てもらって下さい」とか「息子さんに来てもらって下さい」と「あなたは留守番して下さい」ってこういう事を言わはりますわ。司会の人が。いろんな人に来てもらわないと、あなただけが聞くんじゃなくてってそういうことを言うんですね。言うたら悪いけど、お東の講師の先生は喋ったら喋りっぱなしで、後どうなるかというについてはあまり、考えておられないじゃないかと。やっぱりおんなじ話をするならあの人の息子さんにも聞いてほしいと。お嫁さんにも聞いてほしいとかそういうことをね。考えながら喋ってもらえるような講師であってほしい。ただ自分の仏教学を弘めるようなことだけを喋るんじゃなくてね。

Ⅳ 伊東慧明先生との思い出~もっとまじめに聞きなさい~

それとやっぱり伊東慧明先生の「歎異抄に聞く会」の存在が大きかったですね。伊東先生があるところで「歎異抄を聞く会」をやっておられて、けど、そこがやめるということで会場に困ってられて、それは渡りに船とうちへ来てもらうことになって、そこから35年。先生、「死ぬまでやるから」って言うたはった通り、最後まで辞めるとは言わはりませんでした。

伊東先生の講義を聞いてるとね、必ず曽我量深先生とか金子大榮先生が出てくるんですよ。そうするとね、僕らは曽我先生や金子先生は会ったことがないんやけども、なんか親しみを感じるようになってくるんです。不思議なものです。それから、伊東先生にしょっちゅう言われたのはね、「うかうか聞いていてはいけません。親鸞聖人からずっと伝わってきた教えを、あなたが横を向いて聞いておって、間違った解釈をすれば、あなたの代以降の人たちが、間違った方を真実だと信じてしまうからです。だから、もっとまじめに聞きなさい」と。よく言われました。また「話は真剣に聞きなさい、理解できなければ徹底的に講師の先生に聞きなさい。聞法には『いい加減』という言葉はありません」と、妥協を許さない先生でした。間違っていくと。あなた以降の人はみな間違っていくと。これは大きな責任やと思います。これ「前を訪う」というでしょう。

「歎異抄に聞く会」の案内ハガキを会員10人ぐらいが持ち回りで書くんですが、ハガキの3分の1くらいは何月の何日に安住荘で、どうゆう講題で話をしますとこう書くんですけど、後の3分の2ぐらいはね、そのハガキを書いた人の聞法の問いを書かなアカンねん。そして次の月の講義の最初に10分か15分ぐらい、誰々さんの文章です言うて読んでね、「今まで何を聞いてきたのか」、「これは説明するに値しない」とかあるいは「てにをはの使い方が成ってない」と叱責を受けることも多々ありました。あんまり、厳しく言うもんやから、情けないやら悔しいやらで、帰りに難波別院の本堂行って泣いた人もおるぐらいやったんやで。

これからの教区・お寺について

やっぱりね、僕はあのー、教区単位だとか組単位だとかいうよりも自分の寺をいかに守っていくかということが重要なことやと思う。やっぱりお寺の住職やからね。言うたら悪いけど住職方はもう少し熱心になってもらいたいですね。住職は指導力というか、単にお参りだけしとったらエエという訳じゃないと思うんです。住職も中にはね、お逮夜参りだけしとけばいいという考えの方もあるようですが、また、実際にそれだけで成り立ってるからアカンのやろうけどね。つまりもっと「ご法話してください」とか言うことです。だけどね、そんな住職を育てるのは門徒の役割でもあってね、ここも重要なところなんですよ。やっぱり、それこそ共同教化というか、門徒と一緒になって勉強するというような態度になってもらいたいですね。

聞法の利益りやく

先ほども言いましたが、親父は熱心な聞法者でした。その父が73歳の時に脳腫瘍になったんです。手術してから10何年生きたんやけど、言ってる言葉が聞き取れなくなって、そうするうちに手足も不自由になり、家の中でも車椅子で移動するようになったんです。それでも熱心な聞法者やったから、朝夕のお勤めは欠かしませんでした。で、僕がお内仏の前まで連れて行って、毎朝正信偈のお勤めをするんだけど、親父は何を言うてるかさっぱりわからんのです。呂律が回らない口で、よだれを垂らしながら、ページもロクに繰れないで、毎日毎日正信偈のお勤めを、私も後ろに座って聞いておりました。それがね、最初の頃、気がつかなかったんだけど、何かの拍子で前へ回った時に気がついて、親父の顔を正面から見たときに、なんとも穏やかな顔してるんです。ものすごい安心感というかね、穏やかな顔して正信偈をお勤めしてるんです。日ごろ車椅子で不自由に暮らしているが、お内仏の前で正信偈をお勤めする時ばかりは、その不自由から解放されているのだと思いました。そしてこれがやっぱり聞法することの利益じゃないのかなと思ったんです。僕は社会人の時は商社に勤めてたからね。全然聞法なんかクソくらえと思ってた。だから推進員なんかもそんなもの要らんと思ってたからね。だから、自分は聞法なんてことは考えてなかったんですけど、親父のその車椅子に乗りながら満足そうにお勤めする顔を見た日以降、私も父と一緒に正信偈を唱和するようになったんです。だから熱心にやりだしたのはその頃からやね。ただ、寺へはあんまり行きませんでしたね。やっぱり伊東先生の「歎異抄に聞く会」が大きいですね。僕が聞法するきっかけでしたね。だけど、これまた縁のものでね、私はそう思ったけど、これうちの弟たちも同じように思ってるはずなんやけど、あんまり……ですね(笑)。

師から受け継いで行く

編集者:内山さんの所へインタビューに行かせてもらった日の夜。内山さんから一本の電話があった。インタビューのキッカケとして内山さんの「住職の信心も、門徒の信心も、如来より賜る信心に変わりは無い」という言葉を頼りに、話しを進めさせてもらった。このことについて…

今日はありがとうございました。ちょっとね。最初に紹介して下さった「住職の信心も、門徒の信心も、如来より賜る信心に変わりは無い」という言葉についてね、ちゃんとお話出来てなかったので、ちょっと付け足しで連絡させてもらいました。あの言葉はね、継続聞思の会でやってる宗祖親鸞聖人に出遇う入門講座 『歎異抄』に聞く」でお話させてもらったときに言ったことなんですがね。「住職と門徒は同レベルだ」という風に聞き違いをしてもらったら困るんです。やっぱり住職さんには、しっかりと教えを伝えてほしい。それを門徒は聞かせてもらう。その先生の教えを受け継いで行くという事なんです。その上では、如来より賜る信心に変わりは無いということです。親鸞聖人が法然上人を師と仰いでように、浄土真宗の聞法は、師から受け継いで行くことが大切なんです。住職と私たち門徒、一緒に聞法し、教えを受け継いでゆきたいと思います。

編集者:しゃらりん編集者が勝手に内山さんの言葉をインタビューのキッカケに使っただけなのに、頭の下がることでした。「聞法する」ということに真剣に向き合っておられる姿が感じ取れます。まさに、伊東慧明先生のおっしゃる「聞法には『いい加減』という言葉はありません」という教えがそのまま内山さんに受け継がれているようでした。

(しゃらりん36号2020/6発行・文責:しゃらりん編集部)

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Last modified : 2020/06/29 21:35 by 第12組・澤田見(組通信員)