つながりを生きる/宮城  第35回大阪教区同朋大会(2004年4月10日)講演録より つながりを生きるT(午前の部講演) 1 三つの言葉  講演の前に、仏教讃歌の時間がございまして、私は控え室の方で聞かせていただきました。『ありがとう』という讃歌も歌われましたが、私は初めて聞かせていただきました。この讃歌を聞いておりまして、頭に浮かんだことが一つございます。  犬養道子という方がいらっしゃいますが、難民の子どもたちに、教育の機会を何とかして与えたいと、努力をしておられる方でございます。  犬養さんは、いろいろな土地に出て行って、その土地の中に入って、語り合い、難民の子どもたちを少しでも教育の場にと努力されております。その犬養さんの言葉に、世界の民族、それぞれに言葉も違えば、考え方も違う。生活習慣も違う。そういう中でも、一人の人間としてそういう人々の中に入っていくうえで、門になる言葉、その門を通っていけば、まずどの民族の人たちともお互い一人の人間として出会っていけるという、そういう言葉が三つあるということをおっしゃっていました。  一つは「ごめんなさい」。それからもう一つが「ありがとう」という言葉だと。そして最後の一つが、「プリーズ(Please)という言葉ですね。プリーズというその時の言葉は、「あなたがもしよろしければ、こういうことをしましょうか」、相手の気持ちを聞きながら自分に出来ることを申し出る。そういう時にプリーズという言葉を使うのだそうです。この三つの言葉さえ本当に身に付いておれば、付け焼き刃じゃなくて本当に身に付いていれば、どういう国に行っても人として出会うことが出来る。そういうことをご自身の長い経験をとおして語っておられました。  考えてみますと、仏教では「地獄」、「餓鬼」、「畜生」と、いわゆる「三悪道」ということを申します。三悪道というのは、人間が人間として出遇えない世界を意味しているわけですが、その三悪道には、今の三つの言葉がないわけですね。「ごめんなさい」という言葉がない世界が地獄でございます。お互いに自分を主張し合う。正義は自分にあると。悪いのは相手だと。そこではお互いに譲り合うということもありません。それこそ、現在行われているようなありさまそのままに、結局、正義の名による争いということが止めどもなく繰り返されていく。そういう「ごめんなさい」という言葉のない世界が地獄です。  次に「ありがとう」という言葉のない世界が餓鬼です。どれだけもらっても、どれだけ豊かになっても、今、身にいただいているものを「ありがとう」と喜ぶ心がない。もっと、もっとという要求ばかりでございますね。これが餓鬼の世界でありましょう。  そして、この「プリーズ」という言葉がない。つまり相手の気持ちを推し量り、自分に出来ることは少しでもその人たちのためにしてあげたいと願うという、そういう心のない世界を畜生と教えられています。畜生の世界というのは甘ったれの世界でございます。この自立できない在り方を畜生という言葉で仏教では教えられています。  私は、今、讃歌を聞かせていただきまして、この三つの言葉ということが頭に浮かびました。そして、それと同時に、この『ありがとう』という歌詞を聞いておりまして、ここには決して何か私にして貰ったことに対する感謝、何か私のためにこういうことをしてくださった、それでありがたいと。ありがとうと、そういう歌詞はどこにもございませんね。そうではなくて、具体的には、「花よ今日の日を明るく咲いてありがとう。小鳥よ元気な声を聞かせてくれてありがとう」と。小鳥は小鳥として、花は花として生きている。その姿をとおしてそれぞれが、それぞれのいのちを輝かして生きているその世界が、私を限りなく勇気づけてくれている。  この「ありがとう」というのは、実はこの私のためにしてくださったことに感謝するというよりも、いろんなものが共に生きてくださる。いろんなものがそれぞれにそのいのちを輝かせて生きている。そのことが私に、私がそれこそ自分のいのちを受け止めながら生きていく、そういう気持ちを呼び起こしてくださる。言いますならば生きている事実をありがとうと、受け止める心でございます。そこにはいろんな「おかげ」を受けて私が、今、生かされておる。花や鳥もそうでありますが、さらに言えばご先祖もそうでございます。周りの人々もそうでございます。いろんなはたらきかけをこの身に受けて、私はいまこうして生きている。私が今ここにこうして生きていることをありがとうと、このように受け取っている言葉でございますね。 2 知恩の心  これは折に触れて申し上げていることでございますが、日本、アジア全体も充分に存じませんので、よくは申せませんけれども、少なくとも欧米にはこういう「ありがとう」という言葉はないそうでございますね。これはつまり、「恩」という言葉で日本人は表してきました。ご先祖のご恩、自然の恩。その恩を知る。知恩の心ということを仏教は説いてくださっているし、特に親鸞聖人のご生涯を貫いております心は、まさに知恩の心でございます。  しかし欧米には、そういう知恩という心はありませんし、言葉もないそうでございます。いろいろしてくださったことに対する感謝の心を表す言葉はあるけれども、私が生きている事実をそこに深い恩を感じながらいただく、こういう心、あるいはそういう心を表す言葉は、欧米にはないのだそうです。  アメリカのある学者が、今の世代間の断絶をはじめ、人間関係がバラバラになってきているが、それではどうすればいいのか。その先生が、どういう縁で知られたのかわかりませんけれども、日本人のいう恩という言葉、これが今一番大事なのではないかと。こういう世代間の断絶をはじめとして、広げれば隣近所との断絶、民族間の断絶、あらゆる関係が断ち切られて、お互いが、ただ自分ということを振りかざして生きている。そういう在り方を今一度、人間としての在り方に呼び返してくださる。その呼び返されていくうえで大事な言葉が知恩という言葉だと、おっしゃっています。  私が生きている事実を「ありがたい」こととして受け止める。そうこう心が自分を大事に、そして周りの人々を大事にと、そういう心に広がっていくと。そういうことをそのアメリカの学者は感じられまして、恩という言葉をそのままローマ字で「ON」とこういうように、発音をそのまま使って恩という言葉を使った論文を書いたり、学会で発表したり、そしてさらにそういう心を伝えていく運動をされている。そういう方がおいででございます。  そういう恩という概念ですね。そういう意味では日本が本家本元といっていいかと思うのですけれども、その本家本元の私たち日本人の間に、その恩という心が非常に薄れてきております。  先日も具体的な学校の名前は覚えておりませんけれども、ご承知のように学校で子どもたちに給食する。その給食の時間は、まず最初にその学校、学校によって言葉は違うでしょうけれども、感謝の言葉をあげ、そして食べ終わってお礼の言葉を一緒に言うということが、どこの学校でも習慣づけられてきているのですけれども、ところがある学校のPTAの会合で、一人の若いお母さんが「けしからん」と怒られたそうです。子どもが給食を食べているのは、あれはみんな親がきちんと給食費を払っているからだと。だから子どもは給食を受ける権利があるのだと。それを何で、感謝を強制するのか。それはけしからんことだと意見をおっしゃったそうです。  そのお母さんは、子どもをどういう人間に育てて欲しいと願っておられるのでしょうか。いつも権利、義務ですね。そのうちその子が大きくなったらお母さんに向かって、育てる義務があるんだ。もっとしっかり育てなければならないというようなことを言い出すかもしれませんね。なにかそういう心の移り、そういうことも指摘されております。しかし、このことは非常に大切であります。「ありがとう」と、こういう合掌というものをとおしてでも、改めて「ありがとう」と。その心を私どもが呼びさまされていく。このことは本当に大事なことだと思います。そういう心だけがやはり、私のいのちに恵まれておりますつながりというものを受け止めていく心なのでございましょう。今、讃歌をお聞きしまして、予定外のことを思い出し、お話しさせていただきました。 3 つながりを生きる  さて、この大会のパンフレットに書かせていただきました、この「つながりを生きる」ということで、正確には昭和58(1983)年1月9日の京都新聞に載せられておりました投書でございます。21年前になります。その投書には、「自らいのち断った娘、生きる尊さ教えたかった」という、これは記者が付けた題かもしれませんが、綾部市の方がお書きになった投書です。こういう文章を投書しておられます。  「悲しい正月を迎えることになりました。中学三年生だった二女が亡くなって二十日余りになります。二女は今春の卒業と進学の喜びを捨てたのです。父として今、失った春の重さにうちひしがれています。二女は自分の意志でわずか十五年の人生を断ちました。あまりにも短い歳月でした。葬祭を片づけ、来客で日が暮れて、妻は今も夜ごとに、失った娘を偲んで泣いています。寂しくなりました。年老いた足の不自由な母は、孫を亡くすなど死ぬ順番が違うと訴えます。今は高校二年の長女の優しさと明るさだけが、一家の支えとなっています。たくさんの人に驚きと大変なご迷惑をおかけしました。こんな多くの人とのつながりの中に自分があるのをどうしてもっと死んだ娘に教えてやれなかったのか。それが無念でなりません。父母があって自分があり、社会があって己があるのです。その自己が、家庭、学校、社会生活で重要な一因であるのを、どうか皆さんはわかってください。」  そういう祈りといいますか、願い。そういう言葉でその投書は閉じられています。そこにわずか十五歳、中学三年という若さでそのお嬢さんが自らいのちを断ってしまわれた。その事実にそれこそ呆然としておられたのでしょう。お通夜、葬儀、次々と続くその営みの中に実にたくさんの友だちや、あるいは関係の人々が集まってくださった。そのたくさんの人々を見ているうちに、お前はこれだけの多くのいのちのつながり、これだけ多くの人々のいのちのつながりをその身に恵まれて、生きていたのではないのか。そのことがわからないままに、一人、自分の思いの中で絶望に陥り、自分の思いの中で一人寂しく死を選んでしまった。何かもう少し「いのちのつながり」があるのだということを子どもに伝えてやれたら、こういうことにはならなかったのではないかと。まさに、父親としての無念でございますね。そういう父親としての無念を訴えておられました。  そしてだからこそ皆さんは、どうかそういうつながりの中に生かされてあることということを忘れないでほしい。そのつながりというものを本当に大切に大事に生きてほしいと、こう訴えておられるわけでございます。その中に、「こんな多くの人とのつながりの中に自分があることを」と、書いておられるのですね。  自分がつながりを持つのではございません。つながりの中に自分というものを与えられてきているわけでございますね。私というものがまずあって、そしてその私が周りのいろんな人とつながりを持っていくのであれば、それならつながりは、私のいのちの外のことでございます。いろんな事情でそのつながりが失われても、私は私だと、そういうことにもなりましょう。けれどもそうじゃない。私のいのちの事実は、つながりのほかにないのですね。決して外のものとつながっているのではない。私のいのちの事実として、いのちの中につながっている。 4 いのちの事実  こういうことがございました。私が九州の方に関わりましてもう35年ほどになりますが、九州に行きました初めの頃、目の不自由な人たちのグループと出会う機会を与えられました。グループには、病気や事故、いろいろなことで視力を失われた、まったく失明してしまっている人々。それから少しぼんやり見えるという方。そして、そういう人々のつながりを、ある意味で自分たちも一緒に生きようと集まっている目の見える人々。そういうつながりがございましして、私も加えてもらっていたのですが、その目の不自由な人々の生活していく道は、いわゆるマッサージや鍼灸でございました。しかもその方々はそういうマッサージというところに生きる道を見い出しておられますから、一所懸命に学んでおられるわけですが、ホテルや大きなところからは全部閉め出されるんですね。やはり、目が見えませんと、呼ばれた部屋がなかなかわからない。誰かが付いていくとなれば人手がかかる。そういういろいろな都合がございまして、そういう人々を職場から閉め出すということがございました。  それに対してその人々が団結して、何とか働く場をと、訴える運動をされておられました。マッサージや鍼灸の世界は、ある意味では徒弟制度的な親方が今でもおられて、その親方に従って仕事に就くわけです。ですからその親方に背きますと、全国のマッサージの親方のところに回状が回るわけですね。これこれの者は、こういう人間だ。だから、もし仕事を求めてきても雇わないように。こういった回状が回りますから全く閉め出されてしまうわけですね。それを覚悟でその人たちは、歩みを起こしたわけですが、そういう中でいろんなことの話し合いがございました。  その中のメンバーの一人に在日韓国の方で、しかもどういう病気なのか具体的にはわからないのですけれども、その家族の女系ですね、女の方にばかり出る病気で、失明してしまう。そういう病気に遺伝的に代々かかって苦しんでおられる。そういう家庭の娘さん、娘さんといっても、その時、もうだいぶんとお歳でございましたが……。そのお母さんもまったく目が不自由でした。そのお母さんを抱えながら、やはり目の不自由なその人がマッサージや鍼や、そういうことでお母さんを抱えて生活をしておられる。それで、その生きておられる間、本当に大変だったわけでございますね。お母さんの面倒も見なければならない。自分が何かしたいと思っても、お母さん一人を置いていくわけにはいかない。いつも自分を縛り付けている。それこそ「やっかいな人」と、その方も折りにはそういうことを感じられたこともあったようでございます。  ところが、そのお母さんが病気で亡くなり、そして葬儀などを済ませまして一段落した時に、少しお話ししたことがあるんです。その時にその方がですね、このようにおっしゃったのです。自分一人のためなら、こんな辛い人生はもうごめんだと。もう死にたいと。そういうことを訴えられました。そして生きている間は、母親が本当に自分にとって耐え難い荷物だと思っていたけれども、死なれてみて初めてわかったと。自分はお母さんに支えられて生きていたのだ。お母さんがいらっしゃったからこそ、メソメソもしておられない。何とか生活を開いていかなければならないと、お母さんの存在が私に勇気を与え、お母さんの存在が私を歩かせてくれていたのだ。しかしその時には、そのことが少しもわからないで、このお母さんさえいなければ、どんなに自分は思いどおりの生活が出来るだろうなと、そんなことばかり思っておったと。そのことを亡くなって一ヶ月ばかり経ったその間に、しみじみと思い返されたのでございましょう。自分一人のためだけならば、もうこんな辛い人生はとても生きていく勇気は出てこない。もうごめんだと。そういうことを訴えられました。  その方はその後、盲導犬に恵まれて、その盲導犬との心のつながりの中で、次第に元気を取り戻していかれました。つながりというものは、実はつながりを切っても私は私だと言っておれるようなそういうつながりなら、これはその場限りのつながりでございます。だけれども私たち人間は、このいのちの事実として限りないつながりを恵まれている。 5 13万1072人  ある人に教えられてビックリしたことがございます。私は、私の寺の十八代目の住職をしばらく務めさせてもらいましたが、ある方が、「人間十八代で親が何人いると思うか」と聞かれまして、そんなこと考えたことがございませんでしたから、「さあ」と言っておりました。そうしましたら人間、十八代目ということは、十七代にわたる方々が上におられるわけです。その数はなんと13万1072人という数になるんですね。  両親にそれぞれのご両親がいらっしゃる。そのおじいさんおばあさんそれぞれ両方の父方、母方、その両方のおじいさんおばあさんに、またおじいさんおばあさんがいらっしゃる。ずっと十七代上を訪ねていきますと、13万1072人という方がおられる。そのいのちの歴史が今この私にいのちを与えてくださっている。その歴史がなかったら、今のこの私はここにはいないかもしれない。しかもまたその人々は、そんなに早くっても、親になるまで生きておられたわけですから、どんなに早く亡くなった方であろうと、20年は生きておられたのじゃないかと思いますが、20年生きる間にどれだけの人とのつながりを与えておられたかですね。縦に十七代、その数13万1072人。同時に横にその13万1072人という人が、親になるまでこの世を生きていく上で、限りないつながりに恵まれ、生活を営んでおられた。それがあればこそ、その歴史は今日私にまでつながってきている。そうして見ますと、つながりというつながりというものを決して、この私が頭であの人となら手を結べるかなあとか、あの人とは趣味が合うから結ばれようかと、そういう外に求めていくつながりではない。この身に受けているいのちに賜っておるつながり。そのつながりのほかに、私のいのちの事実はない。私がつながりを持っているのではなくて、つながりの中に私を賜るのでございます。そういうことを改めて教えられました。 6 共命鳥  そして、そのことを経典の上では、『阿弥陀経』には、「共命鳥(ぐみょうちょう)」という鳥の名で説かれてございます。御浄土には、いろんな鳥が住んでいる。そしてそれぞれが、その鳴き声において法を語っている。その鳥の中に、命を共にしている鳥、そういう共命鳥という名で説かれている鳥がございます。  その鳥は双頭一身、胴体が一つで頭が二つという鳥だと説かれているのです。頭が二つということは、思いが二つあるわけでございます。そしてその思いはいつも別々なのでございます。左側の頭が水を飲みに行こうと思うと、右の頭がエサの方に走ろうとする。自分が木の枝に止まろうとすると、右の頭が地面の虫を追いかける。いつも考えることが食い違うものですから、お互いに邪魔されあうわけです。それで、もしこの右側の頭がいなかったら、そうしたら私は自分の思い通りの生き方が出来るはずだ。そうなったらどんなに楽しいだろうと、共命鳥はそう思って、とうとう右側の頭をつつき殺してしまったのですね。  それで右側の頭が死んでガクンとなって、さあこれでこれからは頭は一つ、思いは一つと、自分の思いのままに自由に生きていける。これからはどんなに楽しい生活が出来るだろうと思うわけですが、胴体は一つでございますね。突かれて死んでしまった頭は、次第に腐っていくわけでございます。それはやがて胴体をも腐らせていく。そうしたら、その左側の頭も胴体につながって生きているわけですから、胴体が腐ってきたら、結局自分自身もいのちを失ってしまう。自由を取り戻そうとして、邪魔になるものを突き殺して、さあこれで……と思っていたら実は自分自身のいのちを失うことになった。つまり、つながり。そこに押さえられておりますつながり。それは、そういう一つのいのちを共に生きているのだと、そういうことを教えられてくるわけでございます。 7 共なるいのち  善導(ぜんどう)大師が、『観無量寿経』という経典の心をはじめて明らかに教えてくださいました。よくご存じだと思うのですが、阿闍世(あじゃせ)という王子が提婆(だいば)という友だちにそそのかされて父の王を殺し、自分が国王の位に就こうとする。その国王、頻婆娑羅王(びんばしゃらおう)を捕らえて、牢に閉じこめて、一切飲み物も食べ物も口に入らないように、自然に死ぬのを待つということをする。それに対して、妻であり阿闍世の母親である韋提希(いだいけ)は、いろんな苦心を重ねて、その牢屋の中の夫、頻婆娑羅王のもとに食べ物、飲み物を届ける。しかしそれが発覚して、阿闍世に髪の毛を握られ引きずり回されて、そしてその刀をもって今まさにその首をはねられようとする。その時に、二人の大臣が止めに入り、いのちだけは助かるのですが、韋提希も牢に閉じこめられる。それでその牢に閉じこめられた韋提希がですね、そこに「愁憂憔悴(しゅううしょうすい)」という言葉で説かれていますが、憂いの心でもう全身が憔悴しきってしまう。「愁憂憔悴す」と書いてあるのです。  それを善導大師が、おかしいじゃないかとおっしゃる。なぜならば普通なら今まさに殺されようとした時に、大臣のおかげで一命が助かったのだから、もっと喜んでしかるべきではないのか。韋提希はもっと喜んでしかるべきなのに、なぜ「愁憂憔悴」と、憔悴するほどまでに憂い、悩むのかと。こういうことを問うておられます。  そして善導大師は憂いに三つの理由をあげておられるのですが、その一つは阿闍世に対する愚痴の言葉でございますね。「なんでこんな子が」という思いです。父、頻婆娑羅王を殺そうとして牢に閉じこめ、助けようとした母親の私までをも、こうして牢に閉じこめる。こういう阿闍世とどうして私は親子でなければならなかったのかと、こういう言い方をしておりますね。善導大師は、何でこんな子と共に親子となったのかと、こういう書き方をなさっておられます。普通なら「この子は私の産んだ子だ」、その私の産んだ子が「何でこんなに悪い子なんだ」と、こういう愚痴になるのでしょう。ところが韋提希のその言葉は、「何でこんな子と共に親子でなければならないのか」と、こういう言い方をしております。つまり、そこに「共に」ということで押さえられていることは、「共なるいのちの事実」でございます。 8 響きあうもの  阿闍世と私。私と頻婆娑羅王。いろいろな人間関係を持って生きている。その人間関係を持って生きているということは、実は、共なるいのちをいきているんだと。その共なるいのちを私は母親として、妻として、そして阿闍世は子どもとして生きている。生きられているものは、共なるひとつのいのちの事実。いのちがつながっておればこそ、そういう母となり子となり、そしてまたそういう争いの中で、いうならば相手を切り捨てることがそのまま自分自身の在り方を失うということになる。  これは共命鳥の胴体でございますね。私とあなたは、一つのいのちを生きているということがなかったら、出会うこともないでしょうし、もう知らない、あんな人は関係ないと、切り捨てるということも自由でございましょう。だけれども人間には、関係を否定して切り捨てることが、そのまま自分自身を失ってしまうことになる。そういうつながりが一番根っ子にございます。親子関係ということもそういうことでございましょう。夫婦関係もそうでございましょう。また友人関係もそういう、外に一人ひとりが別々のいのちを生きておって、たまたま仲がいいから一緒にと、そういうことではなくて、そこに何かいのちの響きあうものを感じている。いのちが響きあうという体験がそこに与えられる。そういうことがあって、はじめてつながりというものが、恵まれてくるのだと思います。 9 帰去来(いざいなん)  私どもは今日、本当につながりを一所懸命に求めております。親子の断絶、夫婦の断絶、そして友だちとの間も、本当の友だち関係というのもなかなか持てないで苦しんでおります。さらに広く言えば、民族間の断絶。同じ民族の中でも主義主張による断絶。そしてそれを憂いてどうすればいいかと、いろいろ智恵を絞っております。けれども智恵をしぼってずっとやってきたのですけれども、人間というものはもうこれで3000年近く、つまり人間の歴史の始まりと同時に、戦争ばかりしてきたのですね。  いつもご紹介するのですが、私は昭和6年(1931)生まれでございますから、生まれた時には満州事変がございました。そして、小学校に入りました年に日中戦争が始まり、5年生の時に大東亜戦争。このように戦争の時代でございました。そして小さな子どもの時代にいつも聞かされたのは、「今は非常時だから我慢しなさい、欲しがりません勝つまでは」という言葉です。ですから私は、非常時というのは戦争の時代を表す言葉だと思っておりました。  ところが、カントという方がおられます。その方の書かれたものを読んでおりましたら、「非常時とは平和の時だ」と書いてあるのですね。そして「戦争こそが人間の常時だ」と書いてありました。これはカントが深い悲しみをもって書いているのでございましょう。人間の歴史を振り返ったら、本当に戦争ばかりを積み重ねてきている。そして武力では何一つ本当には解決しないのに、未だに武力を手段として、何かつながりが開かれるかの如くに、思いなしている。そうではないのでしょう。そこに何か、思いのところに立って、その思いを尽くしてどうしたら一緒になれるか。妥協してみたり、屈服させてみたり、いろいろと人間、理智を働かせて、やってきたわけでございます。  しかし、それはついに本当の人間としてのつながりを開く道にはなっていない。お一人おひとりが善意で、イラクに入って行かれた3人の人が捕らわれて、そしてそれがまた駆け引きの道具にされるというようなことが起こりました。本当に人間の理性とこう言っていますが、そういう人間の理智、理性というものが、いかに無力といいますか、本当の人間としてのありようを開いてこれない、そういう事実に対する深い悲しみを持たずにおれません。  そうではなくて、そこに善導大師は、「さあ帰ろう」と私どもに呼びかけられております。理智を働かせて、理想を実現しようと、向こう向こうへ行くのではなくて、「さあいのちの事実に帰ろう」と。いのちの事実は、たくさんなつながりのおかげである。そのいのちの事実に帰ろうじゃないか。「帰去来(いざいなん)」という言葉で、善導大師は呼びかけておられます。  そしてそのためには、「仏に従いて、本家に帰せよ」と。本来の家に帰れと。こう『法事讃』でおっしゃっておられます。仏に従ってということ、それは仏の心を常に聞きながら、その仏の心において歩もうではないかということです。私どもの理智に立つかぎり、決して本当のつながり、人間としてのつながり、そういうものはもはや開かれないということ。この長い歴史の果てに、今ぶつかっている現実が、本当に身に痛く、教えてくれているではないか。まさに念仏申すということにおいて、いのちの事実、賜っておるいのちの事実にお互いが帰る。そこにつながりの中に、つながりを私として賜っていた、そのいのちの尊さを改めて受け止めていこうではないかと、そういうことを善導大師は、「帰去来」、「いざ帰ろう」と、こう教えてくださっていることを思います。  この「つながり」という言葉を改めていただきまして、そういうようなことをいろいろと思わずにはおれなかったわけでございます。  大変、不十分なことで申し訳ございませんが、これをもってお許しいただきたいと思います。どうもありがとうございました。 つながりを生きるU(午後の部講演) 1 五感喪失  先ほど、仏教讃歌を聞かせていただきました。指揮の先生が、全身を使い、肺を動かしてという、喉からの声ではなしに、全身から出る声ということを教えてくださっていたのではないかと思いますが、お互いに、共に合唱するということが、私たち人間にもたらします一つの大きな力がございますね。何かそこに心が一つに解け合っていく、まあエコーという言葉もお使いでございました。お互いの声が響き合う。エコーというのはおもしろいですね。みんなが同じ声だったらエコーにはならないのですね。それぞれ異なった声が、しかも一つに響き合う。何かそういうエコーの世界ということもおっしゃっておられました。  これは改めて教えられたわけですが、現代におきまして、私ども人間が、人間としての自然なあり方というものをどんどん失っている。いわゆる人間の手による自然破壊ということが、現代の大きな問題となっていますが、その外なる自然を破壊してきた行為というものは、ただそれだけに止まらずに、人間としての自然、人間としての自然な感情。自然な心。そういうものをも共に破壊してきたということがあるわけでございます。  今日、本当に新聞やテレビを見るのが心重くなるような、そういう事件が次から次へと報道されております。それもただ、凶悪な人間がたまたまいて、凶悪な事件を引き起こしたと、そういうことではなくて、何かある意味で、どう言えばいいのでしょうか、最も現代的な、そういう育ち方をしてきた若者たちが、凶悪と言いますよりも、非人間性といいますか、同じことといえば同じなのですけれども、何か意識して凶悪な手段で人のいのちを奪うというよりは、もう何の抵抗、何の疑問、ためらいもなしに、どうしてそういうことができるのだろうかというような行為を、次から次へと起こしていく。関係のない小さな子どもを引きずりまわして、果てはビルの上から投げ降ろす。ただむしゃくちゃしたからというだけで、何の関係もない学校の子どもたちに刃物をふるう。そこには何か人間として当然あってしかるべき心というものが、もうなくなっていると、そういう思いが強くするわけでございます。 2 風景のような存在  これはよくご紹介した話ですけれども、2001年ですからもう3年前ですか、2月の朝日新聞に、「電車の中で化粧をすることをどう思いますか」というテーマで、女性タレントだそうですが、遙洋子という方とそして芸能レポーターの鬼沢慶一という方が対談をなさっておりました。鬼沢さんという方は私と同じで、昭和一桁の方ですので、若い女性が満員電車の中で、周りとはまったく無関係といいますか、おおっぴらに化粧をしている。それがどうにもたまらない。いったい若い女の人の羞恥心というのはどうなったのだと、そういうことを鬼沢さんが遙さんに質問されておられるわけなんです。  それに対して遙洋子さんは、「基本的には周りの方を人とは思っていません」と、まずこういっておられるのです。基本的には自分とは無関係な周りの人、そういう周りの人というのは、人とは思っていません。そして「好きな人の前では、化粧をしない。合う前に完成させておきたい」と。好きな人に会う時は事前に化粧をするが、その途中で出会う人は、自分の人生に何の関係もない、風景のような意識外のものなのですと、こういうことを遙さんはおっしゃっているのですね。  そうしますと満員電車の中で、これだけたくさんの人が見ている前で、よう恥ずかしくもなく化粧してと、私どもの世代の者は思うわけですけれども、その若い人たちからすれば、林の中で化粧をしているようなものですね。周りの人は人ではないのですから、自然の中。そういう風景のような存在だということになりますと、林の中に入って心地よく風に吹かれながら、思う存分化粧している。そういう感覚のようでございますね。そして、お互いにその暗黙の了解のもとに、その電車なら電車の中で、個人個人の空間を作っているのだと。「それをジロジロ見る方こそマナー違反です」。こう言って鬼沢さんを叱っておられるのですね。見る方が悪い。なるほどそういうことになっているのかと改めて教えられました。  しかし、遙さんもですね、今は元気で……おいくつかは存じませんけれども、お若いお顔が写っておりました。若くてお元気で、関係のない人は人とは思わない。風景のようなものだと言っておられますけれども、年を取り、病気になり、何か自分だけの力ではどうにもならなくなった時に、やっぱり同じことが言えるかどうかですね。  周りの人、関係のない人は風景のようなものだとするならば、遙さんがどれだけ苦しんでのたうち回っていても、それはどういうことになるんでしょうね。林の葉っぱが風でそよいでいる騒ぎと同じだと、そういうことになるのでしょうか。何かそこでは元気な若い人たちにとっては、そう主張できるとしましても、ひとたび自分が自分の力というものを失っていく、そういう事態になった時に、そういう社会がどういう社会として受けとられていくかですね。まったくつながりというものが、そこでは開かれてこないわけでございましょう。 3 全身性を取り戻す  何かそういうことが、今日ございます。そういう五感を喪失して、身体のごく一部だけで生きている。朝から晩までインターネットの画面、あるいはゲームの画面、そればかりを前にしている。何かそういう自分だけの、しかも、目だけの、耳だけの、そういう生き方でございますね。そういう中で何かこういう先ほどのような合唱、その合唱はやはり全身性を取り返す。全身性を取り戻す人間の大きな分野だと思うのですね。何か歌う。合唱される時には、全身で周りの声を聞いているということがございますね。そしてその中で自分も声を出していく。だからハーモニーが生まれるのでしょう。周りの声を全身で感ずるということがなかったら、ただ自分一人酔ってですね、自分の美しい声にうっとりしている。それだけのことになりますと、これはぶち壊しでございます。それで合唱というものが何か人としての全体性を回復する。そして全身的なつながりというものをそこで感じながら生きていく。行為する。何かそういうものを感じるわけです。  歌が下手で合唱などとんでもない私が、こういうことを言っても説得力がないかもしれませんが、しかし、下手なりに合唱というものを聞きます時に感ずる一つの感動というのは、決して身体の一部分での感動ではないということを改めて思います。そういう全身性を回復しなければ、私どものつながりというものは、やはり偏ったつながりでしかなくなるのだろうと思います。 4 人生列車  今回のテーマですが、「つながりを生きる」という前に、「わかったことにしていませんか? 私のこと」とこういう言葉が掲げられてございます。私ども、人に向かってはちっとも自分のことをわかってくれないと、人には文句を言っております。けれども自分自身からですね、お前は自分のことがわかっているのかと問いつめられますと、これは普段はそういう体験を持たないわけでございますけれども、改めてこういう言葉の前に立たされてみますと、自分というものが、どういう人間であったのか。何を求めてどこへ行こうとしているのか。そのことがハッキリしないままに、日を過ごしてきている。そういうことを改めて感じるわけでございます。  私は、吉川英治という方の言葉をよくご紹介させていただくのですが、『人生列車』という短かな文章を書いておられます。吉川英治さんの時代ですから、今から50年、もっと前になりますか、東京から名古屋まで特急で6、7時間かかった時代ですね。出発点である東京を出る時は、何も覚えがない。横浜を通り過ぎる時も気づかなかった。それで、丹那トンネルを過ぎる頃、ようやく薄目を開ける。そして静岡あたりで急に「汽車に乗っているんだなあ」と気がつく。そして6時間ほど走って、名古屋に到着する。それで名古屋駅での5分間停車。当時名古屋で汽車が5分間停車したかどうかはわかりませんけれども、吉川さんはそのように書いておられます。5分間停車をするようになってから急に、ずっと東京から乗って来ていた乗客の一人が、「この汽車はいったいどこへ行くのだ」と慌てだす。もし、そういう乗客と一緒に乗り合わせたら、おそらくみんな笑うだろう。6時間も汽車に乗っていて、行き先も考えなかったのかと。今頃になってこの汽車はどこに行くのかと騒ぎだす。「何とまあ」と、笑いだすだろうと。だけど人生列車の乗客はみんなそうなのだ。こういうことを吉川さんが書いておられるのです。  人生列車ということで、あえて言えば、東京を出る時というのは誕生の時でございましょう。横浜はまだおさな子でありましょうね。丹那トンネルを過ぎる頃、薄目をあけるというのは、これは幼児でしょう。初めて外界というものを意識しだす。そして静岡あたりで急に、「ああ汽車に乗っているんだなあ」と気がつく。これは青年から壮年の間でしょうね。いわゆる人生ということをフッと感ずる。自分の一生、自分のこの人生、どう生きればいいのか。どういうものなのか。何か心にかかってくる。そして名古屋の5分間停車、これはもう老年でございましょうね。一気に駆け抜けることが出来ないのでございましょう。名古屋で5分間停車をする。つまり、老年になって、はじめて私の人生どこへ行くのだと思って急に騒ぎだす。それは本当に汽車の中でそういう人に出会えば、大笑いするでしょうけれども、吉川さんがおっしゃいますように、人生列車の乗客は、みんなそうだと。確かに自分自身を振り返ってみても、その日その日を追われながら生活をしている。どこへ行くのか。何をしようとしているのか。静かに自分自身に尋ねるなんて、そういう余裕もないままに、それこそ息せき切って暮らしているわけですが、しかしフッと私の人生、何なのかと。いったい私という存在はどういう存在なのかと。どうすればこの私が本当に生きたと言えるのか。そういう問いが心を占めるということがございます。  そういうことから思いますと、私も73年間、この私と付き合ってきたわけですけれども、73年付き合ってもわからないわけですね。いったいどうしようとしているのか。今、尽くしていかなければならない仕事が、いろいろ与えられている。そのころで頭がいっぱいですね。毎日毎日がただ、そのことで過ぎて行く。結局、お前は何者だという、そういう問いは、なかなか私どもの日常の中では問いになってこない。こういう言葉で、改めてこの問いが投げつけられますと、そこで立ちすくむということがあるわけでございます。  そういう場合に、私たちは自己ということを、やはり自分の思いのところで捉えているわけでございます。自分を大切に生きる。自分の人生を大切に生きる。そういうことを自分の思いを歪めずに、自分の思いを尽くして生きるということにしてしまう。そして自分に納得できないことはしない。自分に本当に納得できることだけを尽くしていく。何かそういうことが自分を、あるいは自分の人生を大事に生きることというように思ってしまいます。 5 人生の事実  これもよく申し上げることなのですが、私どもの大学では、仏教科の学生は、いわゆる海外研修ということで、ネパール、インド、中国という国々を一緒に旅行するということをしております。  そして、その年はネパールへ行くということで、みんなに発表されたわけですが、そうしたら一人の学生がやってまいりまして、「自分はみんなと一緒にそういうところに旅行するということに納得がいかない。何で一緒にそういうところに行かなければならないのか。納得がいかないから、私は参加しません」と、非常に肩そびやかして、強い調子で抗議に来た学生がおりました。  彼としては、納得がいかないままに行くということは、自分の貴重な人生を無駄に過ごすことになるという思いもあったのでしょうね。その時に、大変、皮肉な言い方になったかと思うのですけれども、「君は、本当に納得のいかないことはしないか」と聞きましたところ、「絶対にしたくない」と、その学生は頑張るのですね。それで、「それなら君は、どうして生きているの」と聞きましたら、キョトンとしておりました。「君は納得して日本人になったの、納得して男として生まれたの、そして、今いろいろ反抗したり、お父さんと対立したりして、苦しんでいるそのお寺の子として、納得して生まれてきたのか」と聞きましたら、まあ、困って黙ってしまいました。納得できないことは絶対にしないということになったら、日本人として生きていくということは、これはおかしいことになる。男として、寺の子として生きるということは、全部、納得する、納得しないを越えて、与えられていたあなたの人生の事実ではないかと。その人生の事実を私の人生の事実だと受け止めて、そこから歩み出すことのほかに、生きるということは始まらないのではないか。納得する、しないではなくて、受け止めるか受け止めないか。そのことの方が一番根っこの問題ではないのだろうか。そういうことを申しました。  私は、先ほど言いましたように、73歳になりまして、いろいろな面で老化現象が起こっております。そして、悲しいことに友だちが次から次へと亡くなっていきます。死というものが本当に身近にだんだん感じられてまいります。だけれども、この老いるということも、死ぬということも、これは納得してきたわけではございませんね。何とか若さを保ちたいとあがきながら、気が付いたらやっぱり老いているのです。死ぬのも決して納得してから死ねるわけではございません。今は、まだ死ねないのだと、そういくら叫んでも死ぬ時がくれば死ななければならない。そうしたら人生の始めも終わりも納得できない。そういう事実で成り立っているのではないか。 6 お迎えくすべ  これは非常にいい言葉だと思ってよくご紹介するのですけれども、昨年、北海道で「お迎えくすべ」という言葉を聞きました。「くすべ」というのは老人性のシミでございます。私も手の甲にいっぱい出ておりますが、そのシミを「お迎えくすべ」と言い、ああ、私にもだんだんお迎えが近づいてきた。それが、この「くすべ」となって知らせてくださっていると、そういう意味だそうです。  「お迎えくすべ」というのは、ある意味「いい言葉だなあ」と思いました。現代の私たちはこういうシミを見ますと、すぐにレーザー光線か何かで取ることばっかり頭が回ります。しかし、昔の方はそういういのちの事実をしっかりと受け止めて、そして、だからこそ、いのちあるかぎりしっかりと生きる。事実を受け止めるがゆえに、その事実を尽くして最後まで生きる。そういうことをこの「お迎えくすべ」という言葉にも感じました。  これは一昨日の朝日新聞夕刊に映画監督の恩地日出男さんのことが載っていました。「蕨野行(わらびのこう)」という映画をお作りになったということです。これはいわゆる東北地方の棄老伝説ですね。食べ物が少なくなってくると、お年寄りたちは自分で野原に出て行って、そして力尽きれば、そこで死んでいくという、いわゆる「優婆棄て(うばすて)」の伝説と同じでございますね。  東北地方のそういう棄老、老人を捨てるという、棄老伝説を題材に映画を作られたのだそうですが、その映画に主演されている市原悦子さんが「死を受け入れるということは、死ぬまできちんと生きるってことなのよね」と。こういうことをおっしゃっていることが夕刊に載っておりました。「死を受け入れるということは、『もうダメだ』といって投げ出すことではないのだ。死ぬまできちんと生きるということなんだ。そういうことをこの映画に出演させてもらって教えられた」と。  何か「お迎えくすべ」という言葉をお互いに語り交わしながら生きていかれた、そういう人々の生活人生に対する姿勢でございますね。どこまでも事実を事実として受け止めて、そしてその事実を尽くして生ききるという。決して頭だけでいろいろ解釈して考えて心を閉じてしまうということではない。全身でいのちの事実を受け止めて、全身を尽くして生きていく。何かそういうことが改めて市原さんの言葉、そしてその映画の紹介から教えられました。  そういうことから振り返りますと、私どもは自分ということを思いのところで主張したり、絶望したりしていますけれども、自分の生きているいのちの事実というものを本当に受け止めるということがないままにきているのではないか。人生の始めと終わりが、決して納得のいく事柄で決められてくることではないと同時に、その中間もですね、決して自分の納得いく日々を送れるわけではないのです。 7 思い  ご存じのように、高史明(コ・サミョン)先生の息子さんの岡真史(おか・まさふみ)君ですね。12歳で自らいのちを絶たれた。その岡少年が残された詩の一つに「自分」という詩が残されているわけでございますが、その「自分」という詩に、人の脳はよくわかる。人の考えていることはよくわかる。しかし自分の脳は少しもわからないということを書いておられます。  周りの人に対しては「ああだこうだ」といろいろ言える。批判も言える。だけれども肝心の自分自身は、一向にハッキリしてこない。いったい自分はどう考えているのか。どうすれば満足するのか。結局自分の脳の方がわからないということを詩っておりますが、まさにそういうことですね、決してその岡少年だけの特別な思いというよりは、ある意味で人間みんなそういう思いを抱えて生きているのではないかと、そういうことを思いました。  そして、その自分というものを私どもが、思いのところだけで生き始めますと、思いの行き詰まりはそのまま人生の行き詰まりになってしまいます。思いは必ず行き詰まるのですね。この世の中、私の思いで作った世界ではございませんから、その私の思いで作った世界でないこの人生を、自分の思いで生きようとしたら必ず行き詰まる。その行き詰まった時にそれでもうすべて終わりと、思いが行き詰まったことがそのままいのちの、人生の終わり。そういうことになってしまう。だけれども思いなんてものは、もう一ついえば理性なんてものは、いのちのほんの一部分なのですね。私どもは理性こそ大切と思って、理性の限りを尽くして生きてきております。またその力で今日の文化を築いてまいりました。  だけれども、理性というものがいのちの表面的な、ほんの一部のはたらきだということを私は17年前に死にました母親から教えられました。私の母親は、いわゆる老人性痴呆症でした。ほんとにあの3年余りは、それこそ体験なさった方でないとわからない苦しみでございました。 8 いのちの事実  例えば、私の母親はちょっと目を離すと、外へ出るのです。とんでもない格好をしたままで外へ出まして、そしてトラックだろうが何であろうが、車が来たら全部止めてしまうのですね。こう立ちふさがりまして……。車が止まりますと家の方に向かって、「ほら車が来たから帰るよ」って言うのです。こっちはあわてて連れに帰るのですが。出る時はちょっと目を離したすきにパアッーと出た母親が、家に連れ帰ろうと思うと15分くらいかかるのです。それで、ちょっと引っ張ったりすると、すぐに「痛い、痛い」と言いますし。そうしますと近所の窓がパタパタと開きまして、いったい何をしているのかと、そういう眼が私たちに注いでくるわけです。  それで、なだめて家につれて帰るのですが、「帰るというけど、どこに帰るのか」と聞きますと、母親の生まれたのは東京の王子でございます。「そりゃ、王子に帰るんだ」と言います。それでたまたま母親の弟で、私どもが「藤ちゃん、藤ちゃん」という愛称で呼んでおった叔父が見舞いに来ておりまして、その叔父が「王子って言っても、もう家もないし、誰も住んでないよ」と、こういうことを言いました。そうしましたら「いやあ藤ちゃんが待っている」と言うのです。それで叔父の藤ちゃんは、「僕はここにいるじゃないか」と言いましたら、「そんな大きな藤ちゃんとは違う」と。つまり3歳以前に戻るんですかね。そして、次から次へと出てくる名前は全部私たちのまったく知らない名前なのです。ただ、藤ちゃんという叔父に聞きますと、そういえば小さい時にそんな子が近所にいたな、と。つまり3歳以前にかえると、医者が教えてくれました。  つまり私どもは、理性で自分の人生を築いてきたと思っているのですが、その理性で築いてきた自分の人生、それがスポーンと消えてしまうのですよ。自分が産んだ子どもまで、名前から存在から、まったく消えているのです。最後は、施設にお願いしたのですけれども、母に会いに行きますと、私がわからないわけですよ。食い違った話ばかりしているのです。それで、「ともかく明日、また来るから帰るよ」と言いますと、母親が「ねえや」と呼ぶのです。看護士のことを「ねえや」と呼ぶのです。子どものころには家に女中さんがいてくださいまして、京都ですから「ねえや」と言っておりまして、私なんかは「ねえや」に育ててもらいました。あの頃は、お寺はどうなっていたのですかねえ。それで母親が、「ねえや、先生がお帰りよ」と、こう言うのですよ。自分の息子に向かってですよ。そうしたら看護士さんが、「よっぽど生まれがいいのですか」と聞かれるのです。そういうことがございました。  そういうふうに、理性の限りを尽くして、ああでもあろうか、こうすればいいかと、本当に一所懸命に築いてきたその人生がスポーンと消えて、3歳以前にかえる。どういうことなのだろうと。そして、いわゆる夢遊病のようにしてフラフラと歩きます。フラフラ歩くその方向は、必ず生まれた土地の方向に向くのだそうでございます。何か私どもは理性こそが私だと思っているのですが、いのちの事実は理性よりもっと深い営み、歴史を持って生きている。決して理性で私を包むわけにはいかない。理性はどこまでも私の一部分でありますし、一面でございます。そういうものでは尽くせないいのちの深さ、いのちのつながりを私どもはこの身にいただいている。昔の私どもの先祖は、決してそういう理性をもって物事を決めつけて図ってということではなくて、どこまでもいのちの事実に頭をさげて生きていかれた。まさに「お迎えくすべ」という言葉は、その一つでございましょう。  身の事実、いのちの事実というものに本当に頭をさげて、しっかりとその事実を受け止めて、そしてその事実を力の限り生きていく。そういう人生を私どものご先祖、人々は生きておられた。それが今日、私どもは理性こそがということで、理性で割り切る。納得がいくか、いかないか。それが何よりの物差しになってしまう。私どもが期待する、しないを超えた、いのちの深く重いことがわからなくなってきている。  よく親鸞聖人は「深重(じんじゅう)」という言葉をお使いでございます。この深重というのは、その事実の前では頭を下げるほかない、その事実に頭を下げその事実を受けて生きていくほかはない。そういう事柄として、その人生を生きられました。私どもはそれを理性で処理しようとしている。深重というものを感ずる感覚を失ってまいりました。いつ知らず、自己中心、人間中心にすべてを計る傲慢さというものを、人間が持ってしまった。 9 圏外孤独  文化が発達したと、こう申します。文化が発達するということは、便利になるということですよね。生活、社会が便利になる。私どもも非常にその便利さの恩恵を受けております。ですから、頭からそれを否定するわけにはまいりません。けれども、よくよく心得ておくべきことは、便利だということは、人と人の間に機械が入り込んでくるということですね。今までは困っている人を周りの人が助ける。困っている人がそういう意味では、迷惑を周りにかけながら、だからこそ「おかげで」、「おかげで」と生きていかれた。周りの人も助けることをとおして、自分自身、やはりいのちの限りあることを身に感じながら生きておられた。  だけれども今は、全部機械がしてくれる。そして機械をとおしてしか、人と会えなくなってきている。それこそ今の学生や若い人たちは、本当にメール、メールでございますね。これも朝日新聞に「食卓を囲んで」でしたか、何か連載の特集がございました。その最初に書かれておりましたのが、食事中に娘がメールばかりを見る。食事をせっかく作ってもらったけれど、ごちそうに目を向けることがない。いつも目は、画面の方に向いている。片手で食べている。親も年中メールをしているものだから、怒るわけにもいかない。そういう食卓風景を最初に取り上げてございました。  そういう便利な機械でいつでも話が出来る。その意味では、ありがたいことなのでしょう。けれども、そこでは本当の全身的な人間のぶつかり合いは出来なくなってきている。友だちといいましても、今の若い子どもたちは、非常に心優しい者ばかりでございまして、相手の嫌がるようなことは決して言わないのですね。  私どもの子どもの頃といったら、それこそ泥をなすりつけるような、批判のやり合いをいたしましたし、時には取っ組み合いもしました。しかしその中で、いのちのふれ合いを感じてきた。けれども今の若い人たちは、そんな相手を傷つけるようなことはしない。結局、情報交換でございますね。お互いに情報交換はいつもしているのだけれども、本当の出会いというものは、だんだん出来なくなってきている。  そして、ひとたびメールが届かないところに入ってしまうと、孤独ですね。ジャーナリストは上手な言葉を作りますね。昔は「天涯孤独」と申しましたが、今は「圏外孤独」というのだそうです。メールの届かない圏外ですね。もうその圏外が怖くて仕方がないそうです。これもテレビで実験していましたが、30分が限度だというのです。そのメールが届くと安心していられる。だけどメールが一切通じない、そういうところに行くと非常に怖い。それを圏外孤独というのだそうです。  何かそういう人間がどんどん全身性を失ってきている。だけれども、私どもはそういうこの身に受けているいのちは、限りないつながりの中に賜っているいのちでございます。私がつながりを生きているのではございません。つながりを私として生きていくということ。つながりのほかに私のいのちの内容はないのでございますね。 10 いのちの願い  思いは決して私の本当の心を表すものではない。そうではなくて、思いが本当に行き詰まってどうにもならなくなった時、そこから出てくる叫び。そういう叫びとなってほとばしるような、いのちの願いでございます。それはいのち自身が持っている願い。頭でそれぞれの状況の中で作り上げた願いではない。そうではなくて、いのちそのものが抱えている願い。そういうものを聞き取り、そしてそういうものを私どもに伝えてくださったのが、実は本願の教えということでございます。  本願というのは、いのちが持っている、いのち本来の願いであり、いのちの根本の願いでございます。それは、私どもが自分の理性を頼みにしている間、気づくことのない願いでございます。だけれどもひとたび自分の思いの届かない、いのちの深みに立たされた時、私に先立って、念仏とともにそういう人生の事実を生きてくださった人々の、その歴史が私を受け止め、私の中のいのちそのものの願いを呼びさまさしてくださる。そういうことがそこにはあるわけでございましょう。 「わかったことにしていませんか? 私のこと」、そして「つながりを生きる」というテーマがあげられました。これはまさに今、私どもが本当に考えなければならない問題だと思います。ある意味で、今この時を失いますならば、もはや取り返しのつかない状態に人間は陥るのではないかとさえ思います。今も人間としての自然がどんどん崩れておりますから、もしこのままで突き進みますならば、私どもは人間であることを失うと、そういうことにもあるかと思います。その意味で、今回のこのテーマというものを私は非常に大事なテーマとして、改めて考えさせてもらったことでございました。  大変まとまりのないことを申し上げましたが、これをもって今回のご縁をお許しいただきたいと思います。ありがとうございました。