『悲願の構造』 宗教と科学の出会いを求めて     藤澤 隆章 著 発刊によせて  藤澤兄にお会いしてから、もう二十年になるようですが、もっともっと前からの知己のように感じられてなりません。藤澤兄は、やんちゃな子供っぽいところがあるかと思うと、どこかで私のようなものをも支えてくれているような人ですが、大学教員として、研究の上でも、学生の教育においても、そういう面がある人柄であろうと尊敬しています。  私は僧侶として、案外、他方面の人たちとお会いしてきたと思っていますが、科学者に出会ったのは、兄が初めてですので、経典の講義をしながらも――こんなこと、貴方の仕事のお役に立ちますか――と尋ねますと、兄は――役に立ちます――と必ず答えて、私の講義をはげまして下さいました。そんなことから宗教と科学、とくに親鸞聖人の仏教と科学は接点があるのだなぁと思いつづけてきました。  大乗仏教、とくに親鸞聖人の仏教は、個人救済の法のみではなく存在の法、あらゆるもの(存在)の法・原理となるものですから、そうにちがいないと思っていましても、科学そのものを理解することができませんので、憶測の域を出ることはできなかったわけです。  そうこうする間に、「いい先生が見つかりました」といって、東京工業大学の名誉教授の、その頃は長岡技術科学大学の学長をしておられました斎藤進六先生にお会いする機会を、藤澤兄が作って下さって、ついに『仏教と科学技術の出会い――仏教史観と科学技術史観――』(永田文昌堂刊)を生んで下さいました。  これは、大へんな書物が生まれたものだと思っています。  親鸞聖人の仏教は、生きているもの、流れているものをそのままとらえ、表現していこうとするものです。大乗仏教は、本来そういうものの筈ですが、仏教の祖師のなかでも、そのようなとらえ方を果しておられる方は少ないようです。  こんなことを申しますのは、斎藤先生にお出会いしてから、科学や科学技術に関する書物をほんの少しばかりのぞいたのですが、科学の世界でも、生きているいのちをそのままとらえている科学者が少ないことに驚きました。  そして、斎藤先生との出会いを作って下さった科学技術者である藤澤兄の偉大さを改めて認識し、感謝しています。いま、私たちは斎藤先生のご教示をいただきつつ、素粒子論を学んでいます。やがて、『仏教と素粒子論』を世に問うことが出来ればと願っています。  少し話が変わりますが、私たちが発行しています仏教求道雑誌『願海』は小さな冊子ですが、現代の文化をとおして親鸞聖人の教えを学び直すことを願いとしていますが、発行後しばらくして編集に参加して下さった藤澤兄の賛助の力には、大きいものがあります。  その『願海』誌上に、ながい年月をかけて執筆して下さったものが、このようなかたちをもって世に問われることになったことには、発行人として感慨深いものがあります。  とくに、最初に書きつづけて下さった「悲願の構造」、すなわち本書の第一部から第四部までの、《記号にみる悲願》、《味にみる悲願》、《住まいにみる悲願》、《科学・技術にみる悲願》は、多くの読者、もちろん私をはじめ、が引きつけられて読んだものです。そして、いつの間にか科学技術の世界に引きづり込まれていったものです。  この長い間、五ケ年余りの兄の努力があったからこそ、現在「仏教と科学技術」を小さな冊子の誌上で取りあげても、誰も不思議に思わず受け入れているのだと思っています。いや、私自身が育てられてきたことを忘れてはなりません。  第五部の《宗教と科学の出会い》は、科学技術者として、みずからが問題としておられるところを説き、それにそって小乗仏教から大乗仏教への展開をあきらかにされているのではないかと思っています。  最後に、斎藤先生の「技術の源泉を問う」という論文をいただいておられますが、これは斎藤先生が、二十一世紀に向かって、科学技術は如何にあるべきか、そのためには何をおいても、まず技術の源泉にかえらねばならないと叫ばれているものだと思い、斎藤理論の根本的なものだと受けとっています。  この論文を本書の最後にのせられている藤澤兄の意図をおもいはかるとき、科学技術者である藤澤隆章工博のやるせない思いに胸つまるものがあります。  ほんの少し、本書が世に出ますお祝いとお礼のことばを書かせていただくつもりでしたが、長くなり申し訳けございません。  なお、本書の校正と割り付けは『願海』誌編集担当者の伊藤正善兄にお願いいたしましたことを申し添えておきます。                                           合掌   平成四年一月十四日                                    高原覺正 目  次  はじめに  第一部 記号にみる悲願    一、数学の世界    二、記号――いのちの形象化    三、言葉の響きと民族性    四、対話の場――聞く姿勢    五、いのちある表現    六、教行信証との出会い  第二部 味にみる悲願    一、失われつつある家庭の味    二、日本の味    三、かみしめて味わう    四、季節の美味    五、生活の知恵    六、生態系の回復  第三部 住まいにみる悲願    一、自然のいのち    二、作るものと使うもの    三、住まいと空間    四、住宅貧乏物語    五、住まい、家庭とは    六、住まいづくり  第四部 科学・技術にみる悲願    一、科学・技術とは    二、科学史の楽屋裏    三、古代人の自然観    四、ユーラシア文化革命期    五、コスモスとカオス    六、文明・文化はめぐる    七、ルネサンス時代    八、思想の転換    九、デカルト    一〇、聖俗革命    一一、静的と動的創造論    一二、現代なき宗教・宗教なき現代    一三、人類の危機  第五部 宗教と科学の出会い    一、科学する心    二、人間の執着心    三、本能としての技術    四、根本的不安と願    五、別世界と此世界    六、いたみを持つ    七、情報化社会    八、情報のろ過    九、顕彰穏密の義    一〇、観測・推理・論理性    一一、法則の適用範囲    一二、視座の転換    一三、特殊体験    一四、科学技術と人間の欲求    一五、科学・技術の輸入と翻訳    一六、共通の言葉と普遍性    一七、仏教の歴史    一八、大乗仏教の勃興    一九、仏像の意味    二〇、大乗と小乗    二一、仏教伝来の道    二二、仏典の漢訳    二三、中国仏教の興隆    二四、東西文化の出会い    二五、個人と社会    二六、環境汚染    二七、宗教と科学・技術の出合いを求めて  技術の源泉を問う               斎藤 進六    一、科学と技術    二、科学的法則    三、生物的自然    四、生物と人間    五、エロスと死    六、意識と志向  おわりに  はじめに  本書は昭和五十三年一月から五十八年七月まで「悲願の構造」と題して <記号にみる悲願>、<味にみる悲願>、<住まいにみる悲願>、<科学技術にみる悲願>を七十四回にわたって『願海』誌(主宰者 高原覺正)に掲載させていただいたものと、斎藤進六先生(東京工業大学名誉教授、元長岡技術科学大学学長)とのお出会いを通して書かせていただいた「宗教と科学の出会い」(『願海』誌 昭和六十二年一月〜平成元年十二月の間三十三回にわたる)を加筆修正したものです。  さらに、斎藤先生のお許しをえて、先生の論文「技術の源泉を問う」(未踏加工協会出版)も同時に掲載させていただきました。  「悲願の構造」は生活に直接関係する物事、表現(記号、味、住まい、科学・技術)を通し、その意味や背景を尋ねることによって、それらの底を流れる人類の悲願の声を聞き求めたものです。一方、「宗教と科学の出会い」は、一般には科学・技術と宗教とは相反するものとして受け止められています。そのことに対する批判も含め、両分野の出会い、学び合いの必要性に重点を置いて書かせていただきました。さらに斎藤先生の論文によって、科学・技術の真の意味を受け取って頂ければと掲載させていただいたしだいです。本書が、読者のみなさま方への問題提起にでもなれば幸いです。ただし、引用文および参考図書名はそれぞれ「」、『』で囲んでいます。  斎藤先生からは「すでにビッグバンに立ち会っていたいのちがある」という表現によって、いのちあるものの志向性(願)・宇宙意志について現代物理学の見地から教えていただきました。  お釈迦さま(『大無量寿経』)によって凡夫が本当に救われる道(いのちある生き生きとした生活道)が開かれましたが、それを龍樹菩薩から天親菩薩へと伝承・展開されました。曇鸞大師は、天親菩薩の『浄土論』の注釈書として、『浄土論註』を著わされました。曇鸞大師はその時代の中国の生活の言葉を用いて、浄土教の流れにそって「他力廻向」、「本願力廻向」すなわち「往相廻向」・「還相廻向」の作用を開顕されました。  我が親鸞聖人はそれらを受けて、『大無量寿経』を宇宙の原理・構造・展開として受け取られ、『教行信証』(広本)、『文類抄』(略本)に著わして下さいました。この両廻向は、いのちあるものの存在の法・道理(本願の道理)でありますから、科学・技術におきましても、あらゆる存在の道理となると言えますでしょう。  平成二年の夏から三年の三月にかけての湾岸戦争により、世界中が振り回された感がいたします。また、東欧諸国やアラブ諸国の民族対立の状況も、毎日のように報道されています。テレビ報道や新聞報道だけでは、判断できない裏の問題が山積しているのでしょう。また、これらの問題の裏側には、宗教や思想の違いによる要因が見えかくれいたしております。ただ、ユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒、仏教徒の枠、すなわち文化の違いを越えて、人類と地球の今後を考えなければならない時代であるはずです。いまだ、指導者意識と民族意識、個々の主義主張から脱却していないように想えてとても残念です。  それぞれの国、民族には、それぞれの歴史的背景や宗教があり、感情的にならざるをえない点もあるとは思います。しかし、民族を越え、国を越え、専門分野を越えて対話するための共通の場が現在要求されています。同じ時代に宇宙に存在し、共通の問題を抱えた人間そのものという立場のみが共通の場であると思います。  親鸞聖人が、常に言われていますように「無善造悪の凡夫」、「罪悪生死の凡夫」、「煩悩熾盛の凡夫」(これは覚者からの言葉ですが)にたった場が、唯一の人類共通の立場であり、対話が可能な場であると考えます。エントロピー的自然世界(存在するものは必ず滅亡していかなければならない世界)に生命をともにする人類をはじめ、あらゆる動植物との共存を志向し、ともにネゲエントロピー的生命世界(感応道交の世界)に目覚めたいものです。  第一部  記号にみる悲願  一、数学の世界  「いま、ここで考える<数学>とは、計算や証明などだけをこととする、限られた性格の学問ではない。哲学や思想や芸術などとも深い交渉をもち、人類の文化史に深く根を下ろした極めて壮大な学問である。『西洋文明とは何か』という問題を考えるときには、キリスト教の思想などとならべて、必ず考慮しなくてはならぬ大きい『思想の流れ』でさえあるのである。  過去に創造された数学は、あくまで手本であって、むしろそのような体系を生み、方法を生み、理論を生むごとに、その苦闘の中から新しい一つの<数学>が誕生するというべきではないか。<数学>は何を創造したかではなくて、<数学>はいかに自らを創造したかが問題なのである。  <数学>とは実にその奔放な創造の底に横たわるあるものである。世界の根底には数や式で表わされる理法があって、しかも、それは誰にでも捉えられる ・・・そのような信念こそ、あらゆる<数学>に共通な一つの根本精神のように思われるのである。」(村田全・茂木 明著『数学の世界』NHKブックス)  <数学>という言葉を聞くだけで、アレルギー感を持つ人は少なくありませんが、人間は<数学>なくしては存在しないのであり、数学を通して宇宙の<秩序・道理>を探し求めているのであります。  数学者は、それぞれの時代の文化とかかわりあいながら、つねに新しい<数学>を創造していくのです。この意味から<数学>は、人間が「創造しよう」として苦闘するところに生まれる、つねに新しい「秩序ある表現」であり、悲願が生み出すものであります。  「今日のように、自然科学が進歩し、また産業の異常な発達を見せた世の中にあっては、必然的に厖大な<数>を取り扱う場合が多く、『インド式記数法は』一日も欠くべからずものとなった。」(吉田 洋著『零の発見』岩波新書) と言われていますが、その「インド式記数法」とは、0という記号を用いた位取り記数法のことです。たとえば、百二十三とか、千二百四とかと書かないで、123とか1204と書く位取りの記数法でありますが、これは、0を発見したインドによって見出された記数法です。すなわち、この記数法によれば、二つ(たとえば13と234)の数の大小を一目で判定することができるのです。また、単なる位取り記号としての0ばかりでなく、数としての0も深い意味をもち、いかなる数に0を乗じても常に0であるということを、インド人は七世紀の初めごろに書き残しています。ですから、「エジプト、ギリシャ、ローマにおいては計算は多く算盤を用いておこなわれ、数字は、ただ計算の材料と、その結果とを書き記す役目しかもっていなかったのである。」(前掲書より)  しかしインド人は、その単なる数字の中に「数とはなにか」とか「数は何をあらわすのか」などという疑問をもったのではないでしょうか。そうして、「0の発見」をとげたのでありましょう。これは、仏教の空思想などの影響もあったのではないでしょうか。  二、記号――いのちの形象化  <いのち>あるものは、その内面的なものを具体的に表現する場合には、文章とか、詩とか、楽譜とか、絵画とか、によって表現するのです。  その場合、文章や詩の場合にはことば(文字)という記号、楽譜の場合には音符記号、絵画の場合には線とか、色とか、濃淡とか、広い意味での記号など、それぞれの分野における記号の組合せによって、意味ある一つのものを具体的に表現します。  また、数学の場合においても、各種の数学記号や変数(ある集合全体やその部分を表わすための名前)を用いて、一つの意味ある定理や数式、方程式を表わし、具体的に、あらゆる自然の道理、事実、状態を表現しようとするものです。  記号を通して、具体的に表現しようとする背景にはすでに、その底に流れる「いのち」を世界(空間)的、歴史(時間)的に伝承させたいという人類の悲願があるのではないでしょうか。そういう悲願がなければ、内面にとどめておくだけの非常に個人的なものとなってしまいます。  口伝的、行動的伝承法を用いる場合もありますが、その場合には時間的な広がりを持った歴史性という観点に欠けるのです。  ただ、記録的な伝承法の場合にも注意しなければならないことは、それらを引き継いでいく側にとっては、記録された記号のみからは、真に生きた<いのち>は継承され難いのであって、人と人との出会い、とくに、師との出会いを通してのみ、真に引き継がれていくものであることを痛感します。  ものを伝えたいという意志が、ひとつの記号となってあらわれる背景には、<いのち>の願いがあるということを考えたいのです。つまり、記号自身もものそのもののいのちをもって生まれ出てきたものなのでしょう。  人間は肉体的には、有限の生命しかもたない存在であり、しかしまた、おのれの生命の有限であることを自覚できる存在でもあります。したがって、意識的であれ、無意識的であれ、無限の生命への願望をもち、無限の世界へ生きんとする意志・意欲を内面にもちつづけている存在です。この人間の意欲・悲願が記号を生んだのであります。  記号というものは、そうした有限を無限に展開していく人間の内面の願いをうけて、それぞれの時代、国、風土とのかかわりの中で、につめられたエキスとして生まれ出できた内面的意志・いのちを形象化(方便化)したものでありましょう。  人類は、有限の生命の底を流れる無限の<いのち>の世界を感じとり、それを具体的に記号として表現することに(自利利他のために)いのちをかけるのであります。数学者は数学記号を用いた数式の中に、音学家は音符記号によって表される楽譜の中に、俳人は十七文字という限られた数の言葉のなかに ・・・。  時代とともに人類が展開していくと同時に、記号は常に新しい意味をもって、記号のなかに煮つめられているいのちを展開していくものでなければなりません。  数学上の「定理」の発見や、記号の創造も、ただ単に個人的な発見や創造ではなく、人類の苦闘を通した、ものそのもののいのちをうけて、大地の底から涌き出てきたものであることを知り、利他の精神(他の人々の役にたとうするこころ)に基づいて、記号による新たな表現をしていかなければなりません。  三、言葉の響きと民族性 「よく街頭や電車のなかで、親たちが子供たちに『パパ』、『ママ』と呼ばせているのを聞くと、背筋が寒くなる。おそらく私が英語で時間でも聞こうものなら、夫婦で狼狽するに違いない。それなのに、お互いに『パパ』、『ママ』と呼び合っている。  『パパ』、『ママ』という言葉には、英語では英語文化の中で長い間かかってつくりあげてきた『お父さん』、『お母さん』という厚みも重みもある。キリスト教、あるいはユダヤ教の伝統がつくった世界があるのだ。ところが、この言葉が道をたずねられても英語で答えられない日本人の口から出てくると、たんに『男親』、『女親』を意味する音声符号になってしまう。そして、この言葉には何もこもっていない。どのような言葉でも、歴史があればさまざまな連想を呼び起こすものである。連想はさまざまなことを照らし出す光である。  日本は『言霊の国』であるといわれている。そして、漢語が入ってきてから、もう千数百年がたっているのに、漢語ではほんとうに心琴を掻き鳴らすことができない。ホンネをいうときには、やまと言葉(や方言)のほうが力を持っている。そして、家庭こそはホンネの世界である。横文字の言葉を使って、どうして、心を触れ合わせすことができるだろうか?」(M・トケイヤー著『日本には教育がない』徳間書店)  民族の歴史とともに歩んできた言葉には、その民族の生命(いのち)・悲願がこもっているのであり、その民族の中で使われるときには、単なる表現・伝達の記号ではなく、響き、情感を伝えるものが含まれていることを、我々は、今あらためて振り返らなければなりません。  「国を異にする人びとの間で、意思が疎通していないことが明白になると、とかくお互いに『物わかりの悪い外人』のせいにしては、外国人と言うのは愚かで、不正直で間の抜けた連中であるといいがちである。」  このように、異文化間のコミュニケーションについて、アメリカの文化人類学者であるエドワード・T・ホール氏は著書『沈黙のことば』(南雲堂)の中で述べられています。現代はまさに<宇宙船地球号>といわれるほど世界的視野に立って、民族の歴史、文化の違いを越えて互いに通じ合っていかなければならない時代であります。そこで、どのように異文化間の、意思の通い合うコミュニケーションをしていけばよいのでしょうか。  「我々は、日常たえず自分で用いているにもかかわらず、『沈黙のことば』は全くといってよいほど気づいていない。言語的言語以外に、たえず『沈黙のことば』すなわち<行動の言語>を用いて、真の感情を伝えているのである。」 と更に述べられています。この「沈黙のことば」、いわゆるその民族の歴史、政治、思想、習慣に根ざした、言語の内に語られている民族の感情・情愛・思想に出会っていくことによって、はじめて文化の違いを越えて互いに通い合うコミュニケーションが生まれてくるのです。世界的視野に立った、文化の出会いによって、また新たな文化を生んでいくのではないでしょうか。  四、対話の場――聞く姿勢  「いわゆる言語には、音声言語(耳にうったえる言語)と文字言語(目にうったえる言語)とがあって、音声言語が直接的伝達に役立つに対し、文字言語は主として間接的伝達の役にまわる。文字が間接的伝達に役立つというその本来の使命は、おそらく最初は空間的な、いわばヨコの連絡のためのものであったろう。しかし、それはやがてタテの連絡、すなわち時間的距離をへだてての連絡にも役立つこととなった。  いかなる人類でも、言語を使用していない者はない。しかし文字を知らない種族は数多くあった。かように音声言語は、人間にとってほとんど自然といってよいくらいであるけれども、文字はある程度の文化水準に達しなければ使用されない。その社会が間接的伝達の必要を感ずるくらいに複雑にならないと文字の必要はおこらないのである。」(岩波講座『日本語第八巻「文字」』より) といわれていますが、人類の悲願によって生まれた音声言語も文字言語も、時代とともに変化して現代に至ったのでありましょう。しかし、現代は文化の高まりとともに、民族の交流がさかんになり、国際性が要求されている時代といわねばなりませんが、数学の記号や音楽の五線譜に書かれた音符記号などは、あらゆる国で共通に用いられている反面、音声言語も文字言語もそれぞれの民族で、異なったそれぞれの言語を用いています。これは、言語というものは、一時も欠くことができないためであろうと考えられます。その中にあって、特に日本語は特異なものであり、国際的に通じ難いといわれているのです。このときにあたって「言語は、何をうったえるべきものか」という根源に立ちかえり、民族感情の悲願をうけて、言語の未来を考えていかなければなりません。  我々が日常に無自覚のままにつかっている言語・音声言語も、文字言語も、人類の悲願によって生まれてきたことを報告し、その「言語は、何をうったえるべきものか」という言葉の根源の問題に、少しふれたのですが、入谷敏男氏の『ことばの生態』(NHKブックス)を読みますと  「コミュニケーション(相互の意志伝達)によって、相互理解が生ずるのは、相手の立場と、自分の立場が互いに合流し、そこに共通な場ができることを意味するのであるから、相手の場の中に、自分をとけ込ませただけでは、そこに完全な場の共有がおこるとはいえない。同様に、相手の意図を自分の場の中に、とけ込ませるという作用が必要である。」 と説かれています。人間は、その根底に他の人や、他の物と深く通じあいたいという悲願を、すでに持っているものです。しかし、現代においてはあらゆる場面で向かい合っていても、本当の意志伝達・いのちの出会いが少なくなっているように思われます。だからこそなお、現代ほど対話協調がさけばれている時代はないと考えられますが、家庭をはじめ学校、会社、地域、社会など、それぞれの対話の場において、内容の乏しい空虚さを感じるばかりであります。真に、お互いが深く通じ合うためには、まず何よりも、入谷氏のいわれていますように「相手の意図を自分の場の中に、とけ込ませる作用が必要である」ことに気づかなければなりません。仏教で、この作用を〈聞〉の一字であらわしています。それは「聞く姿勢」であります。  五、いのちある表現  文字は、人類の、そしてそれぞれの民族の間接的伝達の悲願をうけて生まれてきたものであります。「文字言語を用いて、自分自身の感動したことや、その感じ取った世界を表現する」ということは、その意志を、多くの人々に、そして後の人びとに伝達したいという願いをもつからです。音声言語で表現する場合には、聞きてがすぐ目の前にいるために聞きての反応を、直ちに受け取りながら話しますから、言語は共同制作であるともいえます。相手の心の波動をよみとって生み出すとき、言語のいのちは直接的に相手に伝わるのです。しかし、そのいのちを文字として表現しようとしますときは、目の前に相手がいないために、自己のうちに自己を問い、自己に語りかけるものとなります。つまり、表面の自己と内面の自己の共同制作によって生み出すのです。だから、方向(思想性)や対象(世界性)がはっきりしていないと書けませんし、個人的であると表現の意味がない(客観性の欠乏)ということが、おのずから感じとられて筆が進まなくなってしまいます。しかし、その苦闘が重大な意味をもっているのではないでしょうか。何かを表現する場合には、とくに文字を用いて表現する場合には、その内容の歴史性・世界性・思想性・客観性を、また表現の内面の構造を、よく考えなければなりません。  時代をこえて、私たちに感動を与える経典・俳句・小説などは、こうした苦闘をかさねられて内面の構造をつくされているものであることが感じられます。  記号を通した人類の悲願を求めて、ここでは家訓を取りあげてみたいと思います。  「江戸時代の商家において、家訓が一般化するようになったのは享保期である。正徳・享保期には元禄時代のインフレ基調からデフレの局面に転じ、放漫財政から緊縮経済へとその建前が大きな転換を余儀なくされたものである。このような時期に際し、豪商の経営も大きな打撃を受け、不況の時代に対処するために、商業経営の慣行と理念が明記された家訓が制定され、経営を維持する体制が築かれたのであった。  ゼロ成長時代といわれる現代において、経営多角の失敗による企業倒産の防止や、不況局面からの脱出をはかるためには江戸時代の家訓から与えられる歴史的教訓は少なくないように思う。」(作道清太郎『歴史読本』)  現代においても社訓とか社是や、企業憲章などという形で、その会社の理念が表現されています。そのような家訓・社訓が生まれて来た意味を顧みる必要があるのではないでしょうか。家訓が脈々と受けつがれているキッコーマンの茂木会長は『願海』誌第二巻第八号の《仏教と経営》中でつぎのように語られています。  「私は、生意気に、いろんな新しい言葉を使ったりして発表しておるんですけれども、調べてみますとね、そういうことは(私が創作したと思っていた理念は、皆、家訓などの中に)あるんですよ。これは非常にありがたい。実に、尊いことだと思っております。」  このような生命ある家訓は、血のにじむような実践の伝統と、伝統に対する謙虚な姿勢から生まれて来た悲願の言葉ではないでしょうか。  音楽を表現するためにいろいろな記譜法が生まれ発達してきました。現在、世界共通の楽譜として五線譜といわれるものが種々の音楽を生み出しています。五線譜で表わされる音の高低、そしてさらに他の音譜記号とあいまって織りなされる音楽は、音の長短、強弱や微妙なニュアンスまで記号を通して奏でられるのであります。このような五線譜、音譜記号は、ヨーロッパで生み出されてきたものであり、時代とともに音楽理論はますます複雑、ち密に発達しているのです。それに対して日本の地で育まれてきた邦楽は、音楽理論というものはまったく生まれてこなかったといってよいと存じます。小倉 朗氏は著書『日本の耳』(岩波新書)のなかで次のように述べられています。  「ヨーロッパの音楽は、記譜法を確立するとともに、理論的体系をつみ重ねながら、調的な力の把握に知的作用の授けをかりたが、日本の音楽は調性をひたすら体験的なものとして感じ、伝承してきたのである。もともと『間』とか、『節まわし』とかいうものは、到底ヨーロッパ式の記譜法で捉えられるわけのものではない。師匠と差し向いで、その指や音の動きを、弟子は目と耳とで心得ていくのが本来である。」  ヨーロッパ音楽においても、楽譜に現われない感情や作曲者の隠れた心情的背景は、良き師を通して伝承されるものと聞いています。  現在、日本古来の伝統芸能や芸術が多くの人達のものとなりつつありますが、日本民族があらゆるところで求めてきました、「自然との調和」を願いつつ、ヨーロッパ文化との出会いを通して、どのようにこれらの伝統芸能や芸術を伝承していくかが、今後の課題であるように思われます。  六、教行信証との出会い  私は、真宗の寺院に生まれながら、父がなくなり、住職になるまで『教行信証』(親鸞聖人の著作、浄土真宗の本典)を手にすることさえも全くなかったのです。父の死を縁に、初めて『教行信証』の第一頁を開いたとき、その構成と数多の文献(引文)の深さに、ただならぬ感動を覚えました。その引文たるや歴れきの経典に始まり、時代を真に生きぬいた七高僧の論釈が綿めんと綴られています。それらの引文は裕に一千年以上もの年月を経たものであったろうに ・・・と。この感動が、私を「記号にみる悲願」という課題に取り組ませる動機となったのであります。  さまざまの書物を通して「記号が生まれてきた背景」をたどり、「記号を通した表現のいのち」に出会い、「表現されてきたものを聞いていく姿勢」を私たちは、学び知ったのであります。時代を越え、空間を越えて未来の人類に「真理」を、「道理」を、「法」を伝承したいという人類の悲願によって生まれてきた、<記号>にこめられた深い意味を感得したようにおもえます。  歴史を通して語りかけ、感動を与え続けてきた言葉や、音楽、絵画に私たちはもうすでに出会い勇気づけられてきたのです。そして今、出会いの中に生きているのであります。  『教行信証』の言葉を通して、親鸞聖人と出会われた曽我量深先生(一八七五〜一九七一)の深心なる感動が先生の論文を通して、現代の私たちの身に脈みゃくと伝わってきます。曽我先生の言葉を通して、現代に至って生き続けている親鸞聖人の『教行信証』にこめられた「願い」に、現代の私たちは感動し、また聖人のお人柄に出会わさせていただくのです。  最後に正信偈(『教行信証』)のお言葉で締めさせていただきます。  本願の名号は正定の業なり  至心信楽の願を因と為す  第二部  味にみる悲願  一、失われつつある家庭の味  科学が発達し、都市集中化が進むにつれ、食べ物も工業化の波をかぶり、今日では工場で生産された食べ物が、あらゆる家庭の食卓にのぼらない日がない、といっても言い過ぎではないように思われます。著書『味と文化』(講談社現代新書)の中で、河野友美氏は次のように述べられています。  「調理ずみ食品が、いかに人気があるかは、一般によく普及している冷凍食品の売れゆきの伸びをみてもわかる。料理の素材となるようなものの増加はほとんど変化がないのに、調理ずみ食品の方は、うなぎのぼりに増えている。  ここでいう調理ずみ食品とは、すっかり味までついた料理加工品で、ただ温めるといった、かんたんな操作でたべられるものをいう。調理ずみ食品のみで献立を作ることは、けっしてむずかしいことではない。(中略)・・・ 若い世代の多いある団地で調査したら、まな板、包丁のない家庭が数世帯あった。前記のパターンの食事が日常なので、まな板、包丁は不要なのだ。」  お年を召された方々は、前記の内容を読まれて驚かれると同時に歎かれることでしょう。このように、家庭の味、季節の味にとって変わって、他人の味(画一的な味)、無季節的な味に慣らされてしまっているのです。  味は、人間の生命と深くかかわる一方、人間の感情を大きく左右するとも言われています。家庭の味そのものにも、その家庭の歴史と共に歩んで来た味の変遷があるはずです。「味にみる悲願」と題して、私達の日常生活に切っても切り離すことの出来ない<味>(食生活)というものについて考えてみたいと思っています。  米が、日本人全体の主食となったのは、ずいぶん新しく太平洋戦争後だともいわれています。それまでは米を作りながら、食べれることはまれで、麦や稗や芋を食べていた人も多く、長い間、米は庶民のあこがれでさえあったそうです。それが最近では米が余っているのに米の消費量は年々減っていると聞きます。大塚滋氏は『食の文化史』(中公新書)の中で  「あの電気炊飯器とともに家庭に導入されたのは、めしは簡単に炊けるものといういやにお手軽な考えだろう。洗うのにもしゃもじでぐるぐると洗い、二三度かきまわすだけ、予備浸漬もせず、あたふたとスイッチを入れて、もう忘れていればでき上がる。心をこめて炊け、などというのではないが、ここには米という穀物の性質を無視した大ざっぱさがあるのが気になる。素材の味を生かして、心をこめてつくりましょうなどと教える料理学校だが、めしの炊き方のこのおおらかさはどうしたことだろう。それでいて、ホットケーキでも作るときになると、粉がどうの、こね方がどうのと、うるさいのに。」 と述べられています。副食には手をかけるのですが、主食のめしを炊くのに手をかけないのが現代であると同時に、米が生まれてくる手順(御苦労)や、一粒一粒の大切さを子に教える親も少なくなっているのでありましょう。子をもつ我々親自身の炊き方・いただきかたが問われているのではないでしょうか。米のもつ、なんともいえない<旨味>を再発見しようではありませんか。  二、日本の味  日々の食生活においても、私たちは絶えず日本の民族が培ってきた「味の文化」の中に生きているのです。日本の風土の中から生み出され続けてきた<味>は、時代の流れとともにさまざまに影響を受けつつ変遷をとげ、日本の「味の文化」を成りたたしめてきたはずです。そして私たちは、その「日本の味」を日々食しているのです。河野友美氏は著書『たべものと日本人』(講談社現代新書)の中で次のように述べらています。  「日本は海に囲まれた島国であり、気候も温暖であるために、常に新鮮で数多くの恵まれた食品素材が供給可能であったため、素材の味をそのまま生かすというところからアミノ酸(しょう油)文化が生まれたのである。一方、ヨーロッパや中国などの大陸地帯では気候風土が厳しく、新鮮な素材が簡単に手に入りにくいために、油による加工によって、古い素材でもおいしく食べられるように、工夫が必要であるといわれている。  日本は海に囲まれ、四季の変化に富んだ豊かな風土に恵まれたところから、海外の食べ物をも、さほど抵抗なくとり入れてきたのである。むしろ、海外からの新しいものに飛びつきやすい性質がみられるのである。」  今日、身のまわりの食べ物をみましてもフランス料理、ロシア料理、中国料理と ・・・、その種類は驚くばかりです。常に新しい素材、料理を海外に求め続けてきたのですが、いつのまにか本来の「日本の味」を見失いつつあるのではないでしょうか。家庭のテーブルに出される食べ物をみてそう感ずるのです。  あらゆるものは悲願をもって生れてきているのです。日本の地に育まれた「日本の味」も、民族の悲願の内から生まれてきたのでありましょう。  「味には、塩・甘・酸・苦の四原味があるといわれる。この説はヘニングが提唱したもので、ほぼ、味の性格をよく表わしている。ところが日本人に独特の味がある。それが<うま味>である。このうま味という概念は、日本人にはたいへんよくわかるのであるが、外国人にはよくわかりかねるもののようである。なぜなら、うま味は日本人の味の中心となっているアミノ酸の味だからである。外国の料理の場合には、このうま味は表面にでない隠された味である。ところが日本では、味の主役となっている。」 と、河野友美氏は著書『たべものと日本人』の中で述べらています。また、<うま味>と同じように<妙味・濃(こく)>という味わいがあります。このような<味>を感ずるということは、単に食べ物を口にいれたときにのみ感ずるのではなく、それを深く「味わった」ときにはじめて感ずるものなのです。すなわち、味覚(舌)の感覚だけで感じられるものではないのでありましょう。日本人が「かみしめて味わう」ときには、その食べ物が自分の口にとどくまでの、さまざまの出会いを ・・・日本民族が求め続けてきた味の歴史を、また、食べ物そのもののいのちを、そして料理をした人との生気の出会いを深く味わっているのではないでしょうか。  最近、大都会を中心に、食べ物もうま味がなくなったり、人間も味気がなくなったといいますが、食べ物を単に食料品と考えている我われの姿勢が問われているのではないでしょうか。  三、かみしめて味わう  日本人が「かみしめて味わう」とき、さまざまの歴史を経て、自然を経て、人の手をわたって届けられてきた日本人の感情と深く出会うのであります。そして、また、その出会いは、新たな出会いを無限に生んでいくのです。  自然の流れ、移り変わりに身をおき、そのままに生きてきた日本人は、あるがままの自然をたたえ、あおいできたのです。移りゆく季節に身をたくし、移りゆくままにその感情は、さまざまに色彩られていくのであります。四季おりおりの草木が千変万化に移りゆくように ・・・、「味わう」という感情も千変万化に色彩られていくのでしょう。  自然の芳しさを味わい、その香りを味わい、そして流れゆく風流を味わい楽しむのです。自然の流れの細やかさを、身いっぱい・全身で受けとめてきた日本人の純粋感情が、日本の味の文化を成りたたしめてきたのであります。  それとともに、日本人は食べ物を食する場合だけにとどまらず、絵や音楽をも「深く味わう<賞味>」という感情をもっているのです。また、「あの人は味のある人だ」(情味)というように、人情をも味わいます。さまざまの出会いのなかに生かされてきた日本人は体ごと、とっくりと受けとり味わっていくのです。  味の四原味に、塩・甘・酸・苦という味があげられていますが、味わうということは、ただ単に舌の先で感じたものではなく、体じゅうが味わっている、感動しているのです。  年末になりますと、あちこちの家からおせち料理の臭いがただよってまいります。やはり、日本人は昔からあわただしい思いをしても、おせち料理を作り、その臭いをかぐことによって、新しい年をむかえるという実感をもつのかもしれません。  お正月のおせち料理の「三種」について辻嘉一先生は、次のように述べられています。  「おせちの三種とは、叩き午旁に数の子、ごまめです。いずれも固いもので、よく噛まなければならないものですが、噛めば噛むほど旨さが出てきます。一年の最初の日の朝にこれを食べるというのは、日本はよい国であるけれども災害が多いので、災害に備える人生を噛みしめていけという教えだということを、あるお年寄りに聞いたことがあります。餅にしても、お雑煮に使うのは、おおかた保存しておけるものです。これはやはり災害の多い国に生きる人々の生活の知恵というものでしょう。」  現代は核家族化というせいもあるかもしれませんが、このような料理のいわれ、生まれてきた願いの意味などを、お年寄りの方々からお聞きすることが、あまりにも少なくなってきていることを悲しく思います。ふだん何気なしに料理しているその素材にも、作り方のひとつにも、祖先の祈るような願いや知恵がこめられているのではないでしょうか。そのように、明日の生命を生んできた「食生活」の大切さを、一年を見おくり、新しい年をむかえようとしているこの年の瀬の一時に、「味にこめられてきた人類の悲願」を、ひとつひとつかみしめながら ・・・、そこに、後の人にこれだけは伝えなければならないという願いが、新たに生まれてくるのではないでしょうか。  ところが、昨今ではこのおせち料理も百貨店やホテルなどで予約販売をしており、年末に配達されるそうです。奥様方はなにをされているのでしょうか ・・・。  四、季節の美味  現在、私たちは、食品の加工技術や、促成栽培、抑制栽培などの技術が発達したために、本当にその食品素材が有している季節的な持ち味というものを忘れてしまっているように思えます。そこで、自然が私たちに与えてくれている<味>そのものの意味を、料理研究家の辻嘉一さんの言葉によりながら考えてみたいと思うのです。  「日本がいかに季節の味に恵まれているかは、四季折々に自然が与えてくれるものを考えてみるとよくわかります。まず、正月ごろに芽を出す蕗のとうに始まって、四月頃までには蕨、薇、独活、筍、また蒲公英、蓬、土筆などの野草が出てきます。これらはいずれも繊維質のほろ苦い味をもったものばかりで、冬の間の運動不足でこわした胃腸の働きをよくし、便通をととのえるのに格好のものであります。なんともいえないほろ苦さは、まさに自然が恵んでくれた季節の美味であり、保健薬であります。  このように見てまいりますと、自然のものをいただくことが、いかに健康によいか、おわかりだろうと思います。そして、また自然は私たちのからだが欲するもの、からだが必要なものを提供してくれているのであります。」(『食味』PHP発行)  このように、季節とかかわりをもった食べ物の持ち味を辻嘉一さんは<滋味>とおっしゃっています。  今日、私たちが忘れていた<滋味>(自然が恵んでくれた季節の美味)をもう一度、再発見すべき時期に来ているのではないでしょうか。私達の祖先はこのような味にも一つの言葉<滋味>を残してくれているのですから ・・・。  <醍醐味>という言葉は皆さんもよく御存知だと思いますが、すばらしい感動を味わうときに<醍醐味>を味わうとよく使いますが、醍醐という言葉は『涅槃経』の一節にあり、親鸞聖人は『教行信証 』の身仏土の巻にその部分を引文としてつぎのように引き出されています。  「善男子、譬へば牛従り乳を出し、乳より酪を出し、酪従り生蘇を出し、生蘇従り熟蘇を出し、熟蘇従り醍醐を出す、醍醐は最上なり、『醍醐』というは仏性に喩う、仏性すなわち是れ如来なり。」  このように釈尊は仏性、如来の世界のたとえとして「醍醐」を引き出されていますが、現在の我々には醍醐なるものの味は、はたしてどんなものであったのか、はっきりしません。推測ですが、牛乳から発酵熟成された最上のものが醍醐なのでありましょう。すばらしい<妙味>をもったものだったのでしょう。  現在ではこのように自然に発酵熟成された食べ物がほとんどなくなり、食べ物から直接「醍醐味」を味わうことは困難になっています。しかし、味噌でも、漬け物でも、酒でも本当に自然に熟成されたものは、事実おいしいものだと思います。前述しました<滋味(自然の恵みによる味)>と同様に発酵熟成する食べ物も、人間が加工するのではなく、自然の働きをまち、いのちの通いを大切にすることによって生まれてくるものではないでしょうか。そして、食生活ばかりでなく、あらゆる場面で<醍醐味>を味わうことがなくなってしまった現代だからこそ、また反面<醍醐味>を追い求めているのも確かであります。この<醍醐味>への道こそ人類の悲願ではないでしょうか。  我々は毎日、三度三度おいしいとか、うまいとか、まずいとかいいながら、あるいは無感動のまま黙々と食事をしていますが、むかしから日本では「薬食一如」、中国では「食薬同源」といわれているそうです。そしてその言葉のうちには、食べ物にはそれぞれ薬効があり、食養生と治病ができるという意味が含まれているのでありましょう。<薬味>という言葉も、そのような思想から生まれて来たのでしょう。辻嘉一氏はつぎのようにいっておられます。  「生姜は、山葵と比べると値も安く、しかも何にでも使えるという点では庶民的で、便利な薬味であります。生姜は魚の臭みをとるのに適しており、しかも薬効があるので、中国でも薬味の最たるものとしております。風邪をひいたときには、生姜のおろし汁に砂糖とお酒の熱燗を入れて飲めば直りますし、なかなか結構なものです。」  この他に、他の<薬味>や食べ物についても、それらの薬効について述べられています。ところが、現代の我々は、栄養素とカロリーだけを考え、我々の祖先が発見して来た、それぞれの食べ物の持つ働き、効用などを忘れているのではないかと思われます。  このように考えてみますと、料理というものは、食べ物の持つ<持味(うま味)>を生かし、その上にそれぞれのもつ働きを生かしていく事ではないでしょうか。  五、生活の知恵  料理というものは、食べ物の持つ<持味>を生かし、その上にそれぞれのもつ働きを生かすことではないかと述べたのですが、それらの持味・働きを生かす方法として、味付や料理法のほかにそれぞれの持味を生かし合う食べ物の組み合わせというものがあるのではないでしょうか。その点について料理家の辻嘉一氏はつぎのように述べられています。  「人と人との間に相性があるように、食べ物にも相性があります。筍とわかめ、ひじきに油揚、昆布と大豆 ・・・。みなそれぞれに相性のよいものです。一緒に入れて煮ると不思議に味が交流して、二つのものが四にも五にもなり、おいしい味になるというのは、昔の人達が何百年もかかって工夫し、考え出したものだからです。ほんとうによく考えたものであります。  片方は海のもの、もう一方は里のものですが、それを一緒にするという知恵は、なにかのきっかけでもあって考え出したのでしょうが、ほかにも一緒に煮えるものがあるのに、これが一番おいしいことを教えてくれた祖先に対して、私たちは感謝をしなければなりません。」  このような食べ物の相性を学ぶうちに、我々が祖母や母が料理していたのを見たり、聞いたりしながら育つうちに本当に素晴らしい智恵(情報)が伝達されてきているんだなと、感動をおぼえずにはいられません。  「隠の数学」(『願海』誌)のなかで  「長い歴史のうえに、根源的に、原則的に、すでに実証されたものがあるということは大切です。過去の歴史を否定して、現在も未来もひらかれることはありません。我われは未来に出会うことは過去を通してはじめてなり立つことです。」 と述べられていますが、これは味の世界でも同じことでありましょう。辻嘉一氏は、その過去にすでに実証された素晴らしい味の世界を讃嘆されていると同時に、現実の我われが、本来の味の世界を忘れて闇におおわれているのを見て悲しんでおられるのであります。だからこそ、声を大にして叫んでおられるのでありましょう。  先日、辻嘉一先生と対談させていただきましたときに、学校給食を問題にされて  「その土地でしか食べられない味(岩手県は岩手県の味)を、そしておふくろの手作りの味を、味覚の発達する子供のときに伝えないと ・・・」 と、おっしゃっていましたが、ある学校で、そういう願いのもとから弁当の日を作ったところ、お母さんがたは競って豪華な弁当を作られた、ということを聞きました。このように、ともすると私たちは、本来の願いをふみはずして形だけを ・・・弁当を作るという形だけを追い求めようとしていることがあるのではないでしょうか。それは日常のさまざまなところで気づかないうちに、そのようなすりかえをしてしまっているのではないでしょうか。もう一度、子供をもつ親として、本来の願いの心にかえることが求められている時期にきていると思います。  六、生態系の回復  朝日新聞に「二十一世紀への提言」と題して、食糧問題が取り上げられていました。その中に、「いやそう、土と海の疲れ」「呼びもどせ自然のリズム」という表題とともにつぎのような文がありました。  「生態系の受容力が損なわれると、土壌の悪化が急速に進み、回復力が失われていく、これまで、科学への過信と工業的発想、ひと口で言えば人間の論理で自然を屈服させようとしてきたが、自然の論理に激しい反発をうけ大きな転換を迫られてきているのである。食糧生産の長期安定は生態系の回復と維持が基礎にならなければならない ・・・」  ここでは、生態系の回復ということが重点的に述べられていますが、我々日本民族の祖先は日本の風土にあった生態系を長い時間をかけて発見し、それを親から子へと言い伝えて来たはずであります。戦後、我々はそれらの歴史的なものを古いものとして否定してきたのではないでしょうか。ここらでもう一度、我々は、我々の祖先が培ってきてくれた宇宙の生態に対する智恵を、耳を澄まして聞いていかなければならないと思うのです。食糧生産ばかりでなく、料理法や味についても学ばなければならないことが多々あると思われます。それぞれの地域、風土で培われてきたものを大切にしようではありませんか。そういう一歩一歩が、生態系の回復につながっていくのだと思います。  第三部  住まいにみる悲願  一、自然のいのち  昭和四十八年、私どもの庫裡(寺の家族の居間)を新築してもらったのですが、その工事の中で、大工さんや左官さん、屋根葺きの方などに、それぞれの専門のことについて色々話を伺ったのですが、お聞きしているとあらゆる建築素材にはいのちがあり、生きているんだなということを強く感じました。材木などでも、その土地で育った檜や松などが一番良いとのことです。 檜のことについて『日本人の五感』(毎日新聞社刊)のなかで法隆寺第五代宮大工・西岡さんを中心にして述べられていますが、その一部を紹介しますと  「『そうですな、千年の樹齢を持っとる木は千年保ちますな、大和の檜は大和で一番うまいこと生きとります。』  檜千年、欅・杉は六百年、松四百年という。<木のいのち>のことだ。江戸初期から中期、各地に多くの寺院が建てられた。松材が多い。そのほとんどに寿命がきている。檜は切り倒してから、年がたつほど強く固くなってくる。二百年目くらいに最も強く固くなり、そのあと少しずつ弱くなって、千年余りたってようやくきりたての檜と同じ強さに戻るそうだ」  このようなことを伺いますと切り倒され、柱になったところから、また新しい檜のいのちが動き出していく、そんなことを感じます。「いのち」って不思議だなぁと思います。このような「いのち」を昔の人達はすでに肌で感じとられ、それを大切にされたからこそ、長い間の風雪に耐えてこられたのだと思います。現存する古い建物を前にして、我々はそのいのちの息吹きを感じとり感動するのでありましょう。  杉は竹とともに、日本人と縁の深い植物であり、建物にも杉材は多く用いられているようです。その杉材も単に自然の生長を待って利用するのではなく、自然の育成にそいつつ建築用の素材として、人の手を加えながら、育てていくそうです。清水一氏は『すまいと風土』(井上書院)の中でつぎのように述べられています。  「日本の自然は、本質的に、心にやさしい響きを伝える何ものかを持つ。どうしてか、よくわからない。岩一つにしても、庭に据えて眺めたらよさそうなのが時折あるが、アメリカへいくと、沢庵石にでもするより仕様がないやくざな石ころばかりである。  素朴な自然界にそんな風なお膳立てが先天的にそなわり、その自然の中で成長した日本人が、やがて身のまわりの自然に更に注文をつけ飼育変形する、という風な相互作用が行われて、日本独特の人間と自然の合作による、人工的自然が出来上がっていくのである。北山杉もそれである。」  北山杉などは若木のときから、枝を切り落とし、成長すれば皮をはぎ、手で磨いて、床柱などに利用するそうですが、考えてみますと、日本庭園にしろ、盆栽にしろ、それは、非常に人間の手を加えた自然であり、そこには自然の美に感動した人間が、自然を受けて新しい美を創造していこうとする限りない人間の意欲、そしてやさしさが感じられるではありませんか。そこには、日本人は、自然を克服するという意識はなく、自然に育てられ、自然とともに育っていくという姿勢が根底に流れているからでしょうか。  二、作るものと使うもの  長谷川尭氏は、建築にこめられた多様な表現、ゆたかな情感を読み取るということをテーマにされ、著書『建築有情』の中で、つぎのように語っておられます。  「建築は単に物質の集大成であるだけでなく、その中に作る者の、あるいは使う者のそれぞれの立場から寄せられる感情(願い)とか内面的脈動との相関物であるということである。  ひとつの家の中には、作る者の身体(いのち)が、柱としてけずり取られ、壁として塗りこまれ、瓦として葺きそろえられているのだ。他方、やがて出来上がった家に住み、それを使う者は、そのようにして、なかにきざみ込まれた肉のぬくもりを感じ、その肌ざわりや形や骨組みのうちで、壁をなで,柱にもたれて,やがて彼の身体とするようになるのだ」  長谷川氏は生まれた家は、単に作った者のものでもなく、使う者のものでもなく、その時代や環境の影響を受けて存在するものであり、作る者と使う者の出合いの(情を感じ取り合う)場所でもあるということを主張されているように思います。  現代、我々の生活の中で、住まいがそのような出合いの場所になっているのだろうか、と考えてみるとき、建築機材に工業生産のものが多く使われ、大工も儲け主義に走っている現実を目前に見ます。しかし、そこに工場で生産されたものであっても、一つのもの(表現)を生むときには、それらにたずさわる、それぞれの生命が燃焼されている(けずり取られている)はずです。その出合いの構造を住まいを通して考えていきたいと思っています。  三、住まいと空間  仏教に「身土不二」(主体と環境、人間と自然は二つ離れてあるのではない)という言葉がありますように、あらゆるものは、まわりの環境と深い関わりをもちつつ存在し、変化しているのです。  住まいにしましても、気候風土はもちろんのこと、その他さまざまの影響を直に受けて存在しつづけてきたのです。とくに、日本のように雨や湿気の多い風土では、雨や湿気に対する対策が、常に心がけられてきたようです。しかしそこで注意すべきことは、全面的に雨や湿気を拒絶し、嫌ってきたのではないのであります。それについて清水一氏は著書『すまいと風土』(井上書院)の中で  「日本では燈篭や掛け行燈にも、そして門にも塀にもよく屋根をつける。窓にも専用の屋根をつけた。いわゆる霧よけ庇である。このお陰で蒸し暑い雨の日にも、窓を開けはなして身のまわりに風をながすことができるのである。日本の家そのものが屋根の軒を深くし、すっぽりと笠をかぶせたような姿をしているのは、きわめてあたりまえといえよう」 と述べられています。ところが最近の建物はどうでしょうか、窓に屋根がないというどころか、その窓も扉も固く閉じて室内を人工の空気で満たし、まったく自然を遮断してしまう結果となっています。  すこしの間、縁、すなわち縁側やぬれ縁について、二、三の方の御意見を拝聴したいと思います。  「座敷から、あかり障子をとうしてみる庭、それは、室内の落ちつきのなかに、四季の変化をたのしむ、日本人のすまいのもっともすぐれた生活空間のひとつの場面だ。また縁側の障子ををあけはなてば、座敷と庭は、縁をはさんでひとつづきのものとなる。夏の午後など、縁側で涼風をうけながら、うたた寝していると、庭の木かげで昼寝をしているのと、つまり、縁側は、もう庭なのである。さらに縁側にすわっていると、通りがかりの人びとの様子をよくみることができる。近所の人とも挨拶できるし、たまには、縁側に腰かけて話しこんでいってもくれる。・・・ 何百年のあいだ、日本の国土と社会のなかに、はぐくまれてきた伝統的な生活空間の数かずを、新しい機械文明のまえに、ただ古くさい(無駄だ)からといって、よくかんがえもせずに葬りさってしまっている例を、私たちの周囲に多くみかけるが、縁もまた、そのようなケースのひとつではないか。仏教では、『縁なき衆生は度し難し』というが、現代の庶民のすまいが、文字どうり<縁>なき衆生になるのでは、こまったことである。」(『日本人のすまい』上田篤著 岩波新書)  「縁は、庭先へ来る人たちや、自然界との交渉の場、屋内で一番動的な空間である。家は縁↓縁側↓座敷と外から内へ入るにしたがって動から静へと移る。というのが書院造り内での暮しの仕組みだったと思う。」(『すまいと風土』清水一著 井上書院)  四、住宅貧乏物語  朝日新聞・暮らし百科(人形作家・辻村ジュサブロー氏記)より  「この間、真田屋敷を見学に、信州の松代町に行った時、発見したことがございます。二階建より高い家がなくて、緑に囲まれた町並みは、私には安心感を与えてくれて何とも美しいのです。(中略)  この日本の風土で培われてきた『感性』は、そう急には変えられない、と思ったのです。と申しますのも、『美しい』と『きれい』とでは、大分意味が異なっていると、私には思えるのです。美しいとは、内面的な情感を刺激した結果生まれるもの、きれいとは、見た目に写ったそのものの形で判断されるようなもの、それが最近、混同されてはいないでしょうか。美しさの裏には、必ず苦しさが存在します。いまが美しい新緑の木々にしても、自然界の風雨に耐えてきた時間があるはずで、それが人の心をうつのです。」  このように日本の住まいは従来、自然のきびしさを克服すると同時に、自然と調和がとれたものであり、縁側も自然との交渉の場として重要視されていたのでありましょう。それが、現代に至ってはどうでしょうか。他の人・物・音などをオミットするという構造・機能をもった住まい(自分だけの空間)になってきています。個の確立とかいう大義名分を立てながら。この住まいの遮断構造、いや、人間の他を排除しようとする意識が疎外を生み、若年・老年者の自殺の遠因になっているのではないでしょうか。  もう一度、日本の開放的な、すまい構造を考えなおすときが来ていると思われるのですが。実はこのように述べています、わたしどもの庫裡もアルミサッシによって、外界から遮断された構造になっています。もうすこし、「住まい」について学んでから建て替えれば良かったと今になって悔やんでいます。  経済大国とも言われ、国民総生産世界第二位の日本ではありますが、先進諸国の中で最も貧しい住宅事情にあるのではないでしょうか。貧しい住宅事情でありながら、マイカーは流行し、海外へ出れば、日本人を見かけないことがないと言われるほど海外に出かけ、狭い住まいの中には、クーラー、冷蔵庫、ステレオ、カラーテレビ、家具など所狭しと物が置かれているのが現状です。したがって、一家団らんの場所がないために外に休息の場所を求めなければなりません。  早川和男氏は、この現状にいたみを感じられ、住宅環境が人間の人格形成や精神生活、あるいは肉体にどのように影響を与えるかを『住宅貧乏物語』(岩波新書)で述べられています。そのはしがきの一部をここに紹介させていただきます。  「空には超高層ビルがそびえ、地上には新幹線が走って、現代文明の枠を競っている。だが、国民の住生活はあまりに貧しい、家が狭く環境が悪いために遊びを知らない子どもたち、住む場所を探しあぐねている老人、マイホームづくりに疲れはてての一家心中の頻発 ・・・。住まいの貧しさは、現代の日本人と世相に深い影を落としているのではないか。  いうまでもなく住宅は、人間の安全と健康をまもり、生存と生活を支え、文化をつくっていく基礎である。そこで子供たちが育ち、家庭生活にかかわり、人間の全人格をつくる根本的に大事なものである。それにもかかわらず、これまで住宅は大きな社会問題として政治の争点にならなかった。」 と、我われは、今、厳しく問われています。  五、住まい、家庭とは  明治時代では、住まいそのものは、まだ江戸時代の武家屋敷の名残りもあって客間中心主義であったが、第一次大戦後、すなわち、大正の後半から民間中心の住宅が欧米の影響をうけながら発達するとともに、その頃から、個人のプライバシーを尊重するという傾向が見えだし、他の用途から独立した、夫婦の寝室がみられるようになったそうです。そして第二次大戦後は個人々々の独立した部屋の要望が強く、とくに、小住宅であっても受験戦争の影響からか、子供部屋の要求は強く、スペースの面からも、中廊下や縁は当然除かれたようであります。ここで、最近の住宅に対する傾向として、平井聖氏は『日本住宅の歴史』(NHKブックス)のなかでつぎのように批判されていますのでお聞き下さい。  「現在の子供部屋に対する親の考え方は、プライバシーを考えるあまり、子供に対して放任主義におちいっている場合が多い。子供が自室で何をしているのか知らない親が多くなっている。そのような場合には、同じ屋根の下で生活していても疎遠な家族ができよう。  家族から離脱するのは子供ばかりでない。(中略)夜寝るだけに帰ってくる父親は、家庭で無視される結果となる。転勤になっても、父親は単身赴任ということになる。(略)どうせ、食事時間もバラバラ、家にいても自分の部屋にとじこもって話しもしない家族なら、一人一人通勤通学に最も都合のいい所に個室を持ち、週一度どこかのクラブで家族が顔を合せた方が、今の状態より ・・・。」  住まい、家庭とは何なのでしょうか。  我々は、日常生活の中で何事でも、機能面のみを取り上げて問題にしています。一般の建築家が住まいについて取り上げる問題は、住宅事情とか居間の役割とか、寝室の意匠とか、台所における厨房器具の配置とか、間取り、構造上の強度などが多く、もう一歩ふみ込んだ議論は余りみかけませんが、最近になってようやく「建物」じゃなく、「住まい」を問題にされて来たように思います。今までも何人かの先生方の御意見を紹介させていただきました。さらに、西山卯三先生の『住まいの思想』(創元新書)から抜書きさせていただきます。  「だんらんは、家庭の親密な交流を通じて、世代から世代へと伝えられる人間の英知や伝統を受け継がせていく機能を持っている。 ・・・だんらんという生活は、実はわが国の住生活、家族生活の歴史を振り返ってみると、あまりあざやかな存在を持っていたとはいえないのではないか。もちろん、働く人びと、たとえば下層の農民、町場の職人・商人など、社会の下働きになっていた人びとの暮しをみると、非常に貧しい生活をしていたがために、かえって家族みんな一緒になって家の中で暮している。 ・・・ゆっくりくつろぐという暇がなかったかもしれないけれど、食事の後など、短くとも心の通いあった『くつろぎ』、『まどい』が、つまりだんらんがあったのである。ところがかえって上流階級では、だんらんというようなものはなかったといってよい。」  現代では、国民全部がかつての上流階級になっているのではないでしょうか。  六、住まいづくり  私達が小さい頃にはどの家庭にも針箱があり、その引出しには古いボタンや新しいゴム紐など色々なものが入っており、ときには飴玉などもあり、祖母などがつくろいものをしているとき、その飴玉をもらって、昔話などをよく聞いたものであります。最近のお母さん方が、針仕事をしている姿などほとんど見かけないのが普通であり、子供が学校で使う雑巾までも買ってくるそうです。ですから、粗大ゴミの収集日など、朝早く回ってみると値打のある品物も沢山あって先日、時価40万円もする古い壷を拾った人があったという話も聞きました。物の値打もわからなくなっているのでしょう。  「モノを幾度でも形をかえて使い、最後に煙か土になるまでていねいに使うことをしなくなったのは、単に自然の物質を浪費し、自然のなかに厖大な廃棄物を押し出し、環境を汚染するのを強めているだけではない。モノをその性質にしたがってさまざまに利用し、自然のモノとともに生きていく生活の知恵を、大量生産・大量消費によって失わさせられたことも、忘れてはならない。『もったいない』とモノを大切にした思考様式は決して貧しさのあらわれではない。むしろ自然を大切にする知恵であり、その心の豊かさをあらわしていたといえるのである。」 と、西山先生(『すまいと思想』)は言われているのです。我々の住まいやその中の調度品は一見、豪華に見えるけれども、「心の貧しい住まい」になっているのではないでしょうか。  いろいろな角度から<住まい>を考えてまいりましたが「住まいづくり」の問題は「経営参加とは何か」(『願海』誌昭和五十三年七月〜五十四年五月号)における千秋薬品さんの「場づくり」の問題と同じであろうかと思います。場づくりの最小単位が「住まいづくり」でありましょう。その住まいづくりから「町づくり」、「国づくり」へと発展し、展開していくものと確信しています。  以前に、仏教の「身土不二」という言葉を紹介させていただきましたが、それと同じような意味で、次のような言葉もございます。  「荘厳成就は願よりあらわれ、信を生ずる本、願と不二なり  国土の成就、即ち往生成就と不二なり」(「真宗相伝義書」十五巻『論註入科会解』)  これらの言葉から感じますことは、主体(住んでいる人)と環境(住まい・町)とは、切り離すことのできない関係にあること、環境自身がすでに願われて生まれてきたものであり、そこに住む主体も願わずにはおれない存在であるということです。暖かい、血のかよったご家庭やお店を訪問しますと、こちらがつつまれますと同時に、自分の家庭もこのような家庭にと願わずにはおれません。  受験勉強をしている子供の勉強机に、心のこもった生花をそっと置いておくお母さん。ご主人が会社から帰宅されたときに「お帰りなさい。お疲れさま。」といえる奥さん。「何事もおかげさまやで」とお孫さんに伝えられるおばあさん。そんな人たちでいきいきとしている<住まい・家庭>を、すべての人々が願っていることを思うのであります。  第四部  科学・技術にみる悲願  一、科学・技術とは  新たに「科学・技術にみる悲願」と題しまして、自然科学・技術の分野における悲願の声を聞いてゆきたいと思います。  読者の皆さん、「科学」という言葉を聞かれて、一体何がまず頭に浮かぶでしょうか。新幹線?人工衛星?自動車?電化製品?原子爆弾?それとも自然破壊でしょうか。  科学という言葉はサイエンスという言葉の翻訳でありますが、もともとサイエンスという語には「個別的に独立した学科としての学問」という意味はまったくなく、ラテン語をたどれば<知識>という意味を持っているのだそうです。ドイツ語でサイエンスに当たる語でビッセンシャフト、つまり「知ること」だそうです。しかし、現在、科学と呼ばれる分野を大きく分ければ、人文科学、社会科学、自然科学の三つに分類されています。人文科学には、文学、心理学、哲学、宗教学、歴史学などがあり、社会科学には経済学、法学、社会学など、自然科学には物理学、化学、生物学、工学などがありますが、現代では細分化の傾向が著しいのであります。  ところが、先ほどのように、科学や科学の発達という言葉から皆さんが思い起こされるのはせいぜい、医学分野あるいは工学技術分野における事柄ですが、我々の日常生活と直接の関わりを持っている分野ですので当然のことです。現代、反科学論が叫ばれましても、それは自然科学に対するものでしょう。私自身も一介の電気技術者でありますので、皆様とともに、各分野の先生方の御意見によりながら、とくに自然科学・技術における悲願を尋ね歩きたいと思っております。  各分野の先生方のご意見によりながら、とくに自然科学・技術における悲願を尋ね歩きたいと述べましたが、さて、どのようなことから述べればよいか困ってしまいました。そこで、まず、今日の科学、技術を生んできた背景を尋ね歩くつもりでおります。山崎俊雄氏は『電気の技術史』(オーム社)の序文に  「二十世紀は『電気の世紀』とも呼ばれ、あらゆる産業と人間の生活に電気が応用され、現代技術のうちで最もめざましい発達をとげている。にもかかわらず電気の知識は難解とされ、国民の多くはその学習を敬遠する。その親しみにくい電磁気学や電気工学といえども、永い人類の日常的な活動の中から生まれてきたものである。けっして大学の研究室や大研究所から忽然と降ってわいたものではない。生産と生活との切実な要求が理論を必要とし、ひとたび確立された理論はまた身近な実践にもどされる。そのような人間の歴史のなかで、電気技術がいかなる役割を果たしてきたかについての知識をいま国民は求めている。」 と述べられています。山崎氏は、自然科学と社会科学の統一をめざす国民の課題に応えたいという念願をもって書物にまとめられたのですが、「科学とは何か?」が真剣に問われている現代、人間はどのようにして自然を認識し、現代科学の基礎を作り上げてきたかを、数多くの科学・技術者は、科学・技術史を通して学ぼうとしているのであります。  二、科学史の楽屋裏  現代科学に対する痛み、現代科学の歩むべき方向を問題としつつ、科学・技術史を学んでいるのですが、現代人である我々は、恵み、授かりもの、賜りもの、このような言葉を失いつつあるのではないでしょうか。それは、近代科学が成立してから、一九六〇年代までは「科学万能」「科学の進歩は人間の幸福につながる」ということが信じられてきたことに一因があると思われます。しかし、ちょうど「人類の進歩と調和」というテーマで大阪で万国博覧会が開催されているころに、多くの公害騒ぎが各地でおこり、日本列島沿岸の驚くべき汚濁がつぎつぎに報道されました。  これらの公害問題を契機として、いまや、近代文明への信仰が大きく揺らいできたのであります。それとともに、一九七〇年代では超能力やオカルトブームが世界中に広がり、現代科学に背を向ける神秘的なもの非合理的なものへの憧れが深まったのであります。しかし、神秘的なものへの憧れで問題が解決するわけでもありませんし、これからの科学・技術の発展を否定することもできません。現代人類の智恵をもってしても、宇宙は神秘的であります。仏教には「無智の智」という言葉があります。人類は人間のおごり、傲慢さ、何事もわかっているという態度をおさえ、問いをもち、何事からも学んでいくという態度、すなわち「無智」にたってこつこつと真面目に歩まねばなりません。  また、人類には真面目に歩まれてきた歴史があります。恵み、授かりもの、賜りもの、これらの言葉は、人類の「無智」の姿勢から生まれてきた言葉ではないでしょうか。この「無智」に立って人類が歩んできた一側面が、科学・技術の歴史であります。神秘的なものに直結しますと、科学にならないと思います。  人間の自然認識の歴史が現代における科学の体系をどのように展開し、成立するにいたったか、その道程を明らかにするために、「科学史」を学んでいくのですが、その前にもう一人の方のご意見を拝聴したいと思います。  「現代科学はその体系化された形態をみると、論理的であり、抽象的であり、数学的である。現代科学の先駆者の一人プランクが自然科学は『人間性を超えるもの』といったのは、それが高度に客観的であり、抽象化される性格のものであることを指摘したのである。しかし、そのことは自然科学が非人間的なものであるという意味ではなかったと思う。実際に自然科学が形成されてきた歴史的過程をみると、そこに偶然もあり、錯誤もあり、逆行もあり、その道筋は決して直線的でなく、論理的でもない。研究者たちはそれぞれのおかれた時代や環境のなかでそれぞれの個性(業)を通じて可能な道をさがし求めてきたのである。天才といわれた人物も師に導かれ、友人や同僚の刺激がなかったならば十分に成長し、成功しなかったであろう。また同じ時代に同じ問題をもったいく人かの研究者のあいだには協力もあったが、競争もあり、論争もあり、歴史的に名をとどめることもなく消え去った人も少なくない。科学史の事例はそのようないわば楽屋裏の出来事をみせるものでなければならない。」 と、玉虫文一氏は『科学史入門』(培風館)の序文に述べられていますが、氏自身、現代の科学・技術に対する痛みを持ちつつ、次代の科学・技術に願いかけられておられるのでしょう。私達は歴史上名をとどめた人たちによって、科学・技術が発達してきたと受取りがちですが、けっしてそうではないことを認識しなければなりません。  三、古代人の自然観  便利な道具が身の回りに満ち溢れている現代を我々は文明化社会と呼んでいます。『願海』同人とともに私もアメリカを訪問しましたが、あの遠い国まで十時間程度で我々を運んでくれる便利な時代であります。この文明化の時代を離れまして、数十万年も前の世界に話を移します。  人類の起源は明らかではないようですが、最も古い化石として、約三百万年前の猿人の化石が発見されています。直立二足歩行が人間化への始まりであるようです。この直立二足歩行から人類はいろいろな自然物を手でつかみ、それに人為的な働きをあたえて道具を生むようになったと言われています。最初の道具は石と木を材料としたものであり、数十万年前のものが見つかっています。  「道具を使っておこなう人間の労働は、手に鋭い感覚を与え、また、視覚と密接な連繋動作を可能にした。そして、それは同時に人間の脳を発達させ、労働の知的水準を高め、共同労働の必要のなかから言語を生み出した。  人間の脳は長期間における目的意識的な労働と道具の進化とともに一歩一歩前進してきたのである。また、道具が発達したのは、道具が捨て去られずに保存されたからにほかならない。『想いえがく』という知的活動に裏付けられた道具の保存は、人類史における偉大な発展の不可欠の一契機だったのである」 と、鈴木善次氏は『科学・技術史概論』(建帛社)に述べられています。言語・文字の発生や道具の保存そのものに、他の人々や、未来の人間のためにという利他の精神が本質的に宿っているように思います。  現代の我々日本人は、自然を人間と対立したものとして受けとめています。しかし、日本の民話や和歌・俳句などには、自然とかよい合う世界が表現されてきました。では、狩猟や採集生活を営んでいた原始時代の人類や、農耕生活を営むようになった古代の人々は、自然に対してどのような感情を抱いていたかを考えてみたいと思います。  原始時代の発掘物やフランス・スペインにみられる洞穴絵画などから、人類が最初にもった自然観は、自然を何か霊的なものとしてとらえる立場であったと考えられます。  伊藤俊太郎氏(前掲書引用文)によれば、  「原始人の自然観の根底をなしているものは、生命をもち、意志をもち、感情をもつところの彼ら自身の人間の属性を、自然と同一視しているところにある」 と言われています。氏は原始人の自然観をさして、神話的・呪術的自然観と呼ばれています。このような素朴な自然観は農耕生活を営むようになった古代の人々にも継承されているようです。  有種子農業(穀物栽培)が最初に始まったのはメソポタミア近辺の山麓と言われ、約一万年前のことだそうです。ただ、農耕生活が始まりますと、定住社会が形成されますので、以前の狩猟生活と違って、生産・保存に計画が必要となってまいります。収穫した穀物を保存し、翌年の収穫時までの一年間、計画的に食糧を消費しなければなりません。また、蓄えた穀物の一部分を適当なタイミングをみて、種子にわりあてなければなりません。  したがって、必然的に、人間の思考が論理的、合目的となり、算術が必要とされるようになってまいります。  農耕生活をいとなむようになった古代人の自然観も、原始人と同じく神話的・呪術的自然観であったとのべましたが、農耕生活がはじまると集落が形づくられ、しだいに大集落となり、都市国家へと発展していきます。  大集落から都市国家へと発展していく過程での科学・技術の発展と、社会とのかかわりについて述べてみたいとおもいます。  農耕がはじまりますと、種まき期や収穫期などの正確なタイミングを知るために、天体の星や月に注意がはらわれ、月のみちかけから一年を、やく十二ヶ月であると考え、星の位置で季節を知るようになったといわれています。これが天文学への芽ばえですが、同時に自然観が呪術的であったために、占星術なども盛んであったようです。  また、祭祠堂や神殿などの大きな建物が建てられるようになってまいりますと、測量などが要求され、度量衡もさだめられるようになります。  一方、農耕の発達は道具の発展を不可欠のものとしています。鈴木善次氏は『科学技術史概論』で  「鋤から犁(牛がひくすき)への転化と同時に、人間は自己の筋力以外の自然力を動力源に利用するという、技術史上の画期をも実現したのである。よく馴らされた牛や馬からは、人間のおよそ十倍程度までの出力をひきだすことができるから、生産性を大はばにたかめることに成功した。」 といわれています。農耕や牧畜の経験が蓄積され生産性が増大するにともなって余剰生産物がうまれ、社会的分業が成立して各種の専門家があらわれるにつれて、しだいに都市国家へとすすんでゆくのであります。  四、ユーラシア文化革命期  世界各地で都市国家が発達するとともに、科学と呼ばれるにふさわしい、一貫した物の考え方・見方が発達してくるのです。従来、古代の科学史といえばギリシャ科学に重点がおかれていましたが、古代ギリシャと同時代、いやそれ以前に、他の地域(中国、インドや現在のイスラム地方)でも、科学が非常に発達しており、これらの地域の人類への貢献はみのがせないのであります。古代ギリシャの発展もこれらの地域の影響なくしてはなりたたないのです。  紀元前六世紀から四世紀を中心とする時期は、人類史上でもわずかなひやくの時期であり、ユーラシア大陸の多くの地域で、学術・思想・文化が格段と発展したのであります。この時期をヤスパースは「枢軸の時代」と呼び、謝 世輝氏は「ユーラシア文化革命期」となづけられています。(『新しい科学史の見方』・講談社ブルーバックス)  この時期の中国は、ちょうど春秋時代から戦国時代であり、孔子・老子の二大思想家を生み、そののち、諸子百科の学として数多くの思想家が発展してゆきます。インドではバラモン文化が盛んとなりウパニシャッド哲学が生まれ、そののちに仏教・ジャイナ教が成立します。一方、ペルシャ地方では、壮大なペルシャ帝国が樹立され、その後まもなく、ペルシャの雄大・華麗な宮殿文化が開花しています。ギリシャではミレトス出身のタレスに始まり、ヘラクレイトス、エンペドクレス、デモクリトス、ソクラテス、プラトン、アリストテレスなどの偉人を生んでいます。したがって、今後、この時期の思想を学びながら、それらの思想と科学・技術の発展がどのように関連しているかを少しでも明らかになればと考えています。  現代に生き、現代に生活している我われは、存在そのものや表現されたものには、必ず背景(因・種)や隠れた意味があり、それぞれの存在が相互に関連しあって(縁)存在しているものだということをよく知りながら、表現されたもの、できあがったもの(結果)、存在しているものの表面(顕)のみをとらえて判断したり、批評したりしています。そして文化的ことがらや文明的ことがらを別個にとりあつかい、たがいに関係のないものと見なしてしまいがちであります。  古代ギリシャの文化や科学も他国の文明文化の影響にどれだけ多く負うているかをB・ファリントン氏は『ギリシャ人の科学』(岩波新書)のなかで述べられています。  「エジプトやバビロニアが東部地中海域におこった多くの派生的諸文化を介してギリシャに影響をおよぼしたことをも記憶しておかねばならない。ヒッタイト人の鉄を溶解する技術もそうである。ギリシャ文明が、本来的には一個の鉄器時代の文明であって、ギリシャ型の民主主義は、この鉄を溶解する技術があって初めて可能的となったのである。われわれはフェニキア人の文化もあげねばならない。かれらは音標文字の発明者である。この音標文字がギリシャ語に採用されたのは紀元前八〇〇年ごろにミレトスにおいてであった」  以上のほかにヘブライ文学の影響やエジプトの暦法・医術・度量衡法などくわしくのべられています。我われ日本人も単に石油だけの関係でイスラム諸国と交流するのではなく、これらの背景を深く考えなければなりません。  五、コスモスとカオス  一九八〇年、土星探測衛星ボイジャー一号が土星に接近、数かずの写真とデータを地球に送ってまいりました。天文学者や物理学者はもちろんのこと、一般のひとびとも大変な興味をもって、テレビに見入ったり、新聞を読んだりしたものです。また、農学や生化学の分野で、人工的突然変異とでもいったらいいのでしょうか、遺伝子の組みかえに成功したという報道もされていました。  科学の発展はいいにつけ、悪いにつけ、人類が未知の世界に対する関心をもつかぎり、宇宙への探求や生命現象への挑戦はとどまることはないのでありましょう。  ところが、一方、浪人中の青年がバットで両親をなぐり殺すという事件や、借金の返済のためにわが娘に保険をかけ、人にたのんで殺そうとした母親の事件も報道されています。  これらの報道は現代に生きる我われにとって、どのような関わりをもち、どのような意味をもつのでしょうか。  宇宙を意味する「コスモス」という言葉はギリシャ語で、宇宙の秩序を意味し、それは、混沌を意味する「カオス」の反対の言葉だそうです。  「コスモス」という言葉には、宇宙の、複雑で微妙な一体性に対する畏敬の念がこめらているともいわれています。人間の日常生活は混沌そのものであります。しかし、科学者もその混沌のうちから、調和と秩序を求めて、宇宙に向って旅立っている求道者であります。  多彩な問題をかかえつつ、一九八一年も、はや一ヶ月が過ぎました。昨年、土星探測衛星ボイジャー一号が土星に接近する一週間前から、テレビ朝日系で放送されました「コスモス」の案内役であり、原著者であるカール・セーガン博士がその書物『コスモス』の中(地球のためにという章・朝日新聞社刊)で次のようにのべられています。  「私たちは、宇宙の片すみで形をなし、意識を持つまでになった。私たちは、自分たちの起源について考え始めた。星くず(人類)が星について考えている。百億の十億倍の、そのまた十億倍もの原子の集合体(人間のこと)が、原子の進化について考え、ついに意識を持つにいたった長い旅のあとをたどっている。  私たちの忠誠心は、全人類と地球に対するものでなければならない。私たちは、その義務を宇宙に対しても負っている。時間的には永遠、空間的には無限の、その宇宙から私たちは生まれてきたのだから ・・・」  私はこのことばを発見したとき、ふと、『正信偈』の二行が頭に浮かんでまいりました。  帰命無量寿如来 ・・・時間  南無不可思議光 ・・・空間  親鸞聖人御自身の帰敬と人類への願いかけのお言葉でありましょう。二十世紀後半の天文学者もまた、人類への願いかけをもって研究に打ち込んでおられるのです。『願海』誌と同様、私自身も技術者として、ひとりの人間として、宇宙に対する義務をはたすために、学びつづけていきたいと念じています。  六、文明・文化はめぐる  科学史の大きな流れをみてみたいと思います。  紀元前四世紀のアリストテレスにいたり、ギリシャ科学は、壮大な一つの自然科学の体系にまとめあげられ、ここに、古代、中世を貫いて支配するにいたる自然学・宇宙論のすべての基本的骨組がすえられたのであります。その後、紀元前三世紀から紀元後二世紀にいたる間に、ギリシャ科学を引きついだユークリッド、アルキメデス、プトレマイオスなどの人たちによって、アレクサンドリア(現エジプト)を中心とするヘレニズム科学が非常に発達します。しかし、それ以後、地中海沿岸の科学はローマの支配下にあって、理論的独創性を失い、理論科学は実践的なローマ人の気質に合わずそこではもっぱら、科学の実用的側面だけがとりあげられたようです。  ヨーロッパの科学が連続的な意味において、多くの貢献をはじめるのは、一六〇〇年頃、ガリレオが活躍していた時期から後のことであります。  また、二十世紀後半には、科学研究の中心はアメリカへ移行するのであります。その間、紀元後五〇〇年頃から一四〇〇年頃の間は、かえって、インドや中国(唐・宋の時代)やイスラム科学が非常に興隆していたのであります。これらのことから考えてみますと、現代、先進国とか開発途上国とか言っておりますが、科学文明の発達はその時代の政治体制の影響も非常に受けていますが、他民族同志がぶつかり、交流した地点で大きく発展していますし、おもしろいことに、北半球をぐるっとまわって来たようにも思えます。  七、ルネサンス時代  数学的解析(理)と実験的検証(事)という科学的方法は芸術家などを通してルネサンスの時代に開くのでありますが、このルネサンス時代の意味について考えてみたい と思います。  十二世紀になりますと、アラビアに入ったギリシャ科学が今度はラテン西欧世界に移入されて新しいスタートを切ることになります。十二世紀はアラビア文化圏から西欧ラテン文化圏へと文化的な主導力の転換がなされた時代であり、中世西欧世界における最大の知的回復運動が行われましたのがルネサンスの時代であります。  ルネサンス運動の背景として、農業革命やフィレンツェ、ヴェネツィアなどの自由都市の勃興と同時にアラビア世界との直接的接触が考えられます。その一つに、十字軍の遠征をあげることもできます。ルネサンス運動が盛んであったのは十四世紀から十六世紀後半であり、十七世紀の近代科学の確立に大きな意味をもつ時代であります。  この時代の特徴は、まず世界観・宇宙観の変革をあげることができます。有限な宇宙から無限の宇宙へ、天動説から地動説へと世界観が変化します。また、もう一つの特徴は、この時代の芸術家・技術家の活動を媒介とすることにより、従来切断されていた学者的伝統と職人的伝統とが融合され、合理的思考と技術的実践、数学的解析と実験的検証とが結びついた新しい科学的方法が現実に鍛えあげられて行ったことです。このように、ルネサンス時代は単に文芸面ばかりでなく、科学の面においても重要な時代であります。  現代におきましては、小学校の高学年ともなりますと、地球は自転しながら太陽のまわりを公転しているということぐらいは、少なからず知っております。しかし、前にものべましたように、有限の宇宙から無限の宇宙へ、天動説から地動説へと自然観・宇宙観が変革しますまでには、約一千年という長いときを必要としています。  十七世紀が近代科学革命の時代と呼ばれていますが、H・バターフィールド氏は『近代科学の誕生』(講談社学術文庫)の中でつぎのようにのべられておられます。  「およそ天体の物理学であれ地上の物理学であれ、その改革をもたらしたものは、新しい観測とか、新事実の発見とかではなく、科学者の精神の内部に起こった意識の変化なのであった。従来と同じ一連のデータを用いながら、しかも、それらに別の枠組を当てはめて相互の関係を新しい体系に組みかえることであるといえよう。  それはつまり、いわば新しい思考の帽子をかぶって、今までとはまるっきり違った見方をしてみることである。  科学革命における最大のパラドックス(矛盾のようで実は正しい説)は、現代のわれわれにとっては自明の事がらが、何世紀にもわたって偉大な知性のつまづきとなっていたという事実である。」  このことから考えてみますと、我々人間の自然観や思想の転換、固定観念の打破、広い意味での体験執の克服が、いかに困難なことであるかが伺えます。近代科学が誕生します背景をたずねながら、現代的意味を考えてゆきたいと思います。  八、思想の転換  近代科学革命をもたらしたものは、思想の転換、すなわち科学者の内部に起こった意識の変化であるということをH・バターフィールド氏の言葉によりながらお話しました。  世界中のあらゆる人々が、地球は宇宙の不動の中心だと信じていたときに、地球は太陽のまわりを回る一天体にすぎないと主張し、説得するのはどんなに大変なことだったろうと同書の裏表紙にも書かれています。  現代の我々でさえ、地球が太陽のまわりをまわっているということを自明のこととして、頭の中では理解していますが、ややもすれば太陽が地球のまわりをまわっていると実感しているのではないでしょうか。このように我々は自己中心的な立場から、自己の断片的な経験を通し、それがあたかも連続的な、真実の経験として受取ってしまいがちであります。  しばらくの間、近代科学の誕生に貢献した先駆者たちについてのべてみたいと思いますが、ここに、リンゴの話で有名なニュートンの言葉をご紹介します。  「世間で私をどう見ているか知らないが、自分自信としては、波打際で戯れる一人の子供のようなものと思っている――それは、真理の大洋がその子の眼前に探求されぬまま無限に拡がっているのに、ときたま普通のよりは、色の鮮やかな小石や美しい貝殻などを見つけては喜ぶ子どものように――」  このようにのべるニュートンは、地上の物体の運動と天体の運動とを一つの力学的な理論体系のなかに収めたのであります。  皆様方からされますと「一体何を言いたいのか」と疑問視されていることと思います。私自信も当初からの原稿を読み直してみまして、一貫性もなく、勉強不足のみが感じられる次第です。ただ、現代に生きております我々の宇宙観がどのような経過をたどり生まれて来たのか、また、未来に向かってどのような宇宙観(思想)のもとに歩むべきか、科学・技術の問題を通して学んでゆきたいと考えているのです。これからも統一の取れない文章になってしまうかもわかりませんが読者の皆様方もともにこれらの問題について思索しつづけていただきたいと願っております。さて  「我々人間の思想の根本問題はひとくちに言えば、第一に世界がいかにあるか という問いと、第二に世界の中でわれわれはいかにあるべきかという問いであります。」 と野田又夫氏は『デカルト』(岩波新書)の中でこのようにのべられてから、デカルトの思想について語られています。ここで、第一の問いは世界観・歴史観(二つをまとめて宇宙観という言葉をこれから使いたいと思います)の問題でありましょう。『願海』誌でもしばしば取り上げます「存在の道理・法」の問いであります。第二の問いは未来に向かって我々はどう生くべきかという問いですが、これら二つの問いは宗教の問題そのものであります。とくに『大無量寿経』の釈尊やわが親鸞聖人もこれらの問いを問題としつつ、先人から学ばれていかれたのでありましょう。近代科学思想の原点ともいうべきデカルトをこれから学びたいと思います。  九、デカルト  デカルトはいまから三百数十年前のフランス、つまり、近世ヨーロッパの秩序ができつつある時期に現われた思想家であり、日本の歴史にあてていえば、桃山時代から徳川時代にかけて生きた人であります。野田又夫氏は『デカルト』のなかで  「デカルトの思想には、二つの重要な点がある。 第一は、デカルトがはじめて、世界を全体として科学的に見ることをあえてした人である。 第二は、そのような世界を客観的に見るところの主体である『われ』というものをはっきりつかみ、世界において『われ』が、いかなる生き方を選ぶかについて単純かつ徹底した方針を立てたということである。」 と述べられていますが、デカルトが何故このような問題をもったかと申しますと、いろいろな感情や想像に曇らされることのない自由な精神の獲得であります。願往生心であります。また同書のなかにもつぎのように書かれています。  「暗闇をいく者は不安や恐れや妄想にとりつかれる。光を点じていく手を照らすことによって前進が可能となる。自己は光によって自由になる。こういう闇をいく旅人の状況を人間一般の状況と見、世界に光を投じてその中で自己の道を選ぶ、ということが科学の用(はたらき)なのであって、ものを客観的に知ることは自己が妄想を離れて自由を得ることなのであります。」  このように、デカルトは一方、無限な宇宙を客観的科学的に見るとともに、他方、その中でみずからの自由意志によって善を選ぼうとする態度を、最初にはっきり示した人であります。  デカルトといえば読者の皆さまも  「我考う(思う)ゆえに我あり」 という有名な言葉を思いだされると思います。  デカルトは、一方では、無限な宇宙を客観的科学的に見るとともに、他方では、そのなかで自らの自由意志によって善を選ぼうとする態度を最初にしめした人であります。また、デカルトは、精神を身体からひきはなすことにつとめ、身体から独立した「考えるわれ」の存在を確かめ、心身の実在的区別を明示したといわれています。  この点について、愛弟子のエリザベド王女は、「考えるわれ」であるところの精神、すなわち身体を客観として意識するところの精神が、どうして身体に働きかけるのか、身体に働きかけうるとすれば、その精神は物質的存在でなければならぬのでないかと質問しています。心身の実在的区別と心身の相互作用がどうして矛盾でないのかという問いであります。このことについて、野田又夫氏は著書『デカルト』の中で 「デカルトの考えは単に、精神と物質とが全く相異なる二種の実在であることを主張するという意味の二元論ではなく、もっと人間的状況に即してみとめられた二元論であります。すなわち、一方自己が世界を客観的に見すえる科学的知性を行使するとともに、他方その自己はそういう世界の中で自由に意欲的に決断する、という、知性的客観性と意志的主体性との二元論であり、同一の主体における知性的認識(知性)と道徳的実践(意志)との緊張関係をあざやかにしめしているのであります。」 と言われています。  一〇、聖俗革命  近代科学の誕生といわれる十七世紀の科学者たちのなかから、デカルトを中心にその思想を学んでまいりましたが、十七世紀の代表的科学者であるコペルニクス、ケプラー、ガリレオ、デカルト、ニュートン、パスカルなどはキリスト教会に属していたり、敬虔なキリスト教信者であったのです。したがって、それぞれの科学者にとって、ニュアンスの違いはあれ、キリスト教思想が彼らの土台となっていたはずです。  村上陽一郎氏は『新しい科学論』(講談社ブルーバックス)の中で  「十七世紀の人びとにとって、科学とは、この自然界の創造主たる神が、この自然のなかに自らどのような計画を描きこんだのか、という点を、自然を研究することによって人間が知り、それを通じて神の御業を讃える、という営みとして考えられていました。十八世紀の人びとにとっては、科学は、自然のなかに現われている秩序の追究という営みを指すことになって、造物主であり、創造主であり、かつ計画の立案者である神のことは棚上げにされ、故意に忘れ去られました。わたくしはこの過程を『聖俗革命』と呼んでいます。  十七世紀の人びとにとっての『科学』のもつ意味あいと、十八世紀の、とりわけ啓蒙主義者たちにとっての『科学』の意味合いとの間には非常に重要な差があります。そしていうまでもなく、今日のわたしどもは、十八世紀啓蒙主義者たちと同じように『科学』を考えているのです。」 と言われています。この「聖俗革命」と呼ばれる変化がどのようにして起こってきたのかを考えてみたいと思っております。  昭和五十六年の年末に日経新聞社より『生命産業時代』という書物が出版されました。内容はバイオテクノロジー(生命工学)の現状についての報告であり、その企業化・産業化に関する世界的な動向についてであります。一つの例をお話しますと、バイオテクノロジーの一つの基本である「細胞融合」によって、トマトとポテトの細胞を融合させ、全く新しいポマトという新種の植物を作りあげたようです。根はポテト、茎はトマトというものです。このように恐るべきスピードで生命工学は発達しています。読者の皆様方も遅かれ早かれ、生命工学や遺伝子工学に関する情報を耳にされると思います。衝撃を受けられるかも知れません。しかし、どんな文明化社会になろうとも我われに必要なのは、宿業(ひきうけなければならない)と宿願(願わずにはおれない)という原点・立ち場に立ちもどることではないでしょうか。村上陽一郎氏も『新しい科学論』の中で  「現代の科学は、その長所も欠点も、わたくしども自信のもっている価値観やものの考え方の関数として存在していることを自覚することから、わたくしどもは出発すべきではないでしょうか。今日の自然科学は今日の私ども人間の様態を映し出す鏡なのです。結核や肺炎を駆逐し、原爆を作り出した科学について、その全ての責任を今私どもが引き受けることを通じて、人間の道具としての科学ではなく、科学を自らの身の内に引き受けるという認識を通じてのみ、私どもは、自己を変革すると同時に科学を新しい方向に変革することができましょう。」 とおっしゃっています。  一一、静的と動的創造論  十七世紀から十八世紀への思想的転換期についてお話ししましたが、村上陽一郎氏の言葉によりながら、啓蒙主義時代に突入するまでの思想的背景について、もう少し考えてみたいと思います。  「『静的創造論』(デカルト)の立場に立てば、『動的創造論』(ニュートンやパスカルなど)は神が最初に行なった創造の手直しをしなければならないことを主張しているように読み取れますし、神の全智全能に対する重大な冒涜のように見えるわけです。神はすべてのことを知りすべてのことを見とおすことができる存在なのだから、最初の創造のときに、あらゆる事態に対する配慮もなされており、それ以降、いっさいの手直し的な介入など必要がないということになります。他方、『動的創造論』の立場に立てば、『静的創造論』は、神の働きを、最初の創造のただ一点だけに限局してしまい、神の遍在ということに対する著しい冒涜になりかねません。実際、ニュートンやパスカルらは、『デカルトはできることなら神なしですませたかったに違いない』として激しくデカルトを攻撃するのです。そのニュートンは、ライプニッツから、おまえの言い分を聞いていると、まるで神は最初の創造のときに計画違いをし、そのためくり返し創造をやり直さなければならないと言っているようだと非難されるわけです。」  このように、十七世紀の科学者においてキリスト教的宇宙観が、静的と動的創造論に大別され、その静的創造論が十八世紀の啓蒙主義者へ受けつがれ、理神論、無神論へと向かうのです。  十八世紀における「科学的知性の確立」と「進歩の観念」について、伊藤勝彦氏(『思想史』(新曜社))によりながら学んでゆきたいと思います。  「十八世紀における科学的知性の勝利の確信は、まったく新しい型のヒューマニズムを出現させた。この新しいヒューマニズムは、科学的合理性を、自然のみならず、政治、経済、宗教、芸術、その他、文化のあらゆる領域にわたって徹底させ、それによって人間完成の理想を実現しようとしている。  この科学とヒューマニズムの統一の理念の追求は、単なる理想の問題としてでなく、現実の社会生活の面にも徹底的に追求された、ということにほかならない。そして、この統一の課題意識が十八世紀啓蒙の申し子ともいうべき『進歩の観念』を生み出すにいたったのである。それは、たんに人間精神の無限な完成の可能性を主張するだけでなく、人類は新しい科学や技術の力によって自然の富を開発し、社会の経済的繁栄をもたらし、やがては人類全体の幸福を実現してゆくにちがいないという信念をも含んだものであったのである。とりわけ、十九世紀における科学・技術の驚異的進歩は、ありとあらゆるものが科学的知性の前に奴隷のように服従し、人類は新しい技術の力で無限に完全な幸福を実現してゆくだろうという、とほうもない幻想をいだかせるにいたった。」  このように、十八・十九世紀は科学至上主義、科学がキリスト教にかわる広義の宗教として、突進してゆくことになったのであります。  十八世紀における「進歩の観念」の確立を通して、科学至上主義の思想へと展開してゆく過程を伊藤勝彦氏のお言葉によりながら、お話しましたが、続けて、伊藤氏に聞いてゆきたいと思います。  「科学・技術のすさまじい発達は、人間と自然のあいだのコスミック(宇宙的)な統一を根本的に破壊せずにはおかない。世界の技術化、機械化が進行してゆくにつれて、人間生活は自然との生命的共感を失って、単調な機械的反復運動へと追いやられる。自然もまた神秘的性質を失い、冷く非人間化された現実のみが拡がってゆく。かつては共同体的人間関係において生命的交流を実現していた人間が個性をはぎとられ、機械的組織の一歯車へと成りさがってしまう。いまや人間は、この機械的世界に主人公として君臨するどころか、人格性をはく奪され、たんなる物材として取り扱われる。まさに近代的ヒューマニズムは危機に直面しているといわねばならない。だが、今日の我々にとっても、科学とヒューマニズムの統一という課題は消失したわけではなく、原子力時代、宇宙時代、あるいは情報化時代などといろいろな名称で呼ばれる、今日の科学的世紀においてすら、多くの思想家がこの問題をめぐって格闘している。この意味では、現代のわれわれは依然として近代思想の投げかけた問題圏の中に生きているのである。」  このように、人間と自然との宇宙的統一、生命的世界が科学の分野を始め、あらゆるところで願われ、現代に答えうる思想が求められています。  一二、現代なき宗教・宗教なき現代  昭和五十七年の春、御堂会館小ホールで、第三回『願海』大阪読者集会が開かれました。テーマは「我われは何を考えるべきか」であり、南山大学の国分敬治先生とブラフト神父さまに講演していただきました。国分先生には「現代なき宗教・宗教なき現代」という講題、ブラフト神父さまには「宗教と科学」という講題でお願いいたしました。  両先生のお話から、技術者として感じさせていただいたことを、ここでお話ししたいと思います。  現代の科学者のなかでも、多くは十八・十九世紀の科学者と同様、「科学はどこまでも真理の探求であって、利害にかかわらない。だからそれ自体は尊いことなのであって、応用される場面では兵器になったりすることもあるが、平和的にも役立てることができる。つまり、科学それ自体は両刃の剣なのであって、善くも悪くも使える。科学者としては人類に役立つように使うことを提唱し、悪用されることに反対すべきである。それが科学者の社会的責任のとり方である。」と考えられている。  一方、科学に興味を持たれていない人びとは「科学は理知的なものであり、取るにたらないものであるとし、科学を否定し、科学に対して無関心になったり、反対する態度」をとりがちであります。  これらの態度からは何も生まれません。科学に対する無関心さの増大は科学を無力にさせるのではなくて、科学のあり方に対するコントロールを無力にさせるのです。しかし、何としても我われ科学者自身が科学研究の現状を認識し、自覚する―いたみをもつ―ことが今後の科学を実りあるものにする最低限の必要条件であると、両講師のお話から、改めて感じました。  われわれが自然科学にたいして、危惧の念を抱く場合、それは科学が進歩するにつれ、驚異的に発達してゆく技術の分野に対してでありましょう。科学は人間が本能的に有している探求心といいますか、根本的な問いが原動力となり、宇宙の神秘に挑戦していくものでしょう。一方、技術は科学によって明らかになったことを、人間の生活に関わる事柄に応用してゆく、すなわち、生活に役立つものを創り出してゆくものです。  確かに、科学・技術の発達により、今まで、治らなかった病気が治るようになったり、身の回りが便利になってきました。  これらはすべて、苦を逃れ楽を求めようとする動きだったはずです。にもかかわらず、人間の思いをこえて驚異的に発達してきた科学・技術は自然にも人間にも新たな苦を生じているのではないでしょうか。  親鸞聖人の『教行信証』(「真仏土巻」)に  「楽を断ぜざる者は、すなわち苦となす。もし苦あれば大楽と名づけず。楽を断ずるをもっての故に、すなわち苦あることなし。」  と説かれています。楽を求める心を断じない限り苦を脱することはできないと説かれているのでしょう。  この親鸞聖人の言葉に照らすとき、私たち技術者は、苦を抜き楽を求める<外道の道>を邁進していることになります。しかも、とどまることがありません。これでよいのでしょうか。(村上氏の言葉を再読して下さい)  人間と自然との統一による生命的世界の実現が、科学・技術の分野を始め、あらゆるところで願われています。  しかし、たとえ科学・技術に対してまじめに取りくんでいる技術者であっても、人間の欲求に答える、すなわち表面的・物質的な、よりよい生活にのみ答えようとするならば、それは苦を抜き楽を求める<外道の道>を邁進していることになります。  一方、一市民として、一日本人として考えてみるとき、私達が日常の生活をしていますときに贅沢はしなくとも、どれだけの物資・エネルギーを消費し、自然を破壊し、公害をまきちらしていることでしょう。一粒のいちごにさえ、限りある資源の石油を消費しています。きたない話をして申しわけありませんが、トイレットペーパーを使用するたびに、他のアジアの国ぐにの森林を伐採しています。現代こそ、私達、日本人一人ひとりが、自然を破壊し公害を生んでいるのだという「いたみ」を持つべきではないでしょうか。  『教行信証』(「真仏土巻」)に  「一切衆生は、常に無量の煩悩のためにおおわれて、慧眼なきがゆえに、(道と菩提および涅槃とを)見ることを得ることあたわず。」 と説かれています。生命的世界を願っているんですけれども、足下を見れば煩悩が盛んであるがゆえに生命的世界を見ることができません。  でも、非生命的世界であればあるほど、願わずにはおれないということだけは確かです。  釈尊は人生は苦なりと申されました。我われは毎日の生活に四苦八苦しておりますから、常に、この苦から何とかのがれようとします。これは人間の本能的な祈りかも知れませんが、仏教ではこの作用を「煩悩の所為」と申します。  現代人はいろいろな苦からのがれんがために、神に、仏に祈り、これを宗教的信仰として受けとめています。しかし、この祈りこそ煩悩のなせるところであると仏教ではいわれているのです。私も技術者であり、小寺院の住職でありますが、しばしば、これらの祈りをささげます。  さきに述べましたように科学・技術も、人間の欲求に答える、すなわち表面的・物質的な、よりよい生活のみに答えようとするならば、それは苦を抜き楽を求める<外道の道>を歩むことになるのです。  しかし、一方、『大無量寿経』にとかれています四十八願は一つ一つすべて抜苦与楽の願であり、衆生のための大悲の願であるといわれています。  同じく抜苦与楽の願いであるにもかかわらず、どうして違うのでしょうか。  我われが祈る抜苦与楽の立場は表面的・物質的・個人的・差別的・刹那的・衝動的なところからの発想を土台にしているのではないでしょうか。そしてまた、我われは、真に願うところの目標が定かでないのではないでしょうか。  曽我先生のお言葉で結びたいと思います。  「我われ衆生の真実の要求は、この本願荘厳の清浄の世界に生まるることにある。」  一三、人類の危機  人間の誕生以来、人類は宗教を求め、哲学、芸術や科学など、いろいろなものを生んでまいりましたが、もともと、これらの起源は、人間の根元的な問い、「人間とは何ぞや」、「人間は何を目標として生存しているのか」、「どう生くべきか」から出発したものであります。しかしながら、十八世紀以後、進歩の観念が台頭することにより、宗教と科学は完全に分化し、それぞれの道を歩むこととなり、現代まで参りました。  現代にいたって科学・技術の分野では、生命科学や遺伝子工学の発達により遺伝子操作の研究がなされており、また、マイクロエレクトロニクスの進歩とともに、人工知能・ロボットの研究などがおこなわれています。このように、人間の生命や知能に直接かかわる問題にまで科学・技術の研究対象が発展して参りますと、あらゆるところで問題意識、危機意識が生まれ、科学の領域でも、ふたたび根源的な問いを持つことになります。外道の道を邁進してきたところからいたみを持ち、根源的な問いに帰りつつあるのでしょう。  しかし、残念ながら、真に問題意識をもたれている科学者・技術者はまだ少数であり、私自身も含め、大多数の者は、十八世紀の進歩の観念から目覚めていないのではないでしょうか。とくに、日本の科学者・技術者にみられる顕著な傾向ではないかと思います。このことが大きな問題です。  今日、マイコン時代といわれるほど、マイクロコンピュータが発達し、また、その周辺素子や周辺装置の進歩も、目覚ましいものがあります。家庭電器製品の中にもマイコンは導入され、色々な機能アップがはかられています。新聞などの広告でも、それらの特徴が宣伝文句になっています。  また、マイコンを利用したパーソナルコンピュータ(個人用)およびオフィスコンピュータ(事務処理用)、ワードプロセッサ(日本語文章作成用)などが市場にあふれ、テレビなどでも広告されていますので、小学生なども興味を持つようになっています。  読者の皆様方の中でも、マイコンを実際に使われている方もあるかも知れませんが、多くの方々は、コンピュータという言葉を聞かれるだけで、拒否反応を示されるかも知れません。しかし、各家庭に一台はパソコンがあるという時代が、もう目前にせまっています。  このように、マイクロコンピュータを含めた、マイクロエレクトロニクスの急速な発展により、人間の知的活動分野にも、いろいろな装置が進出してまいります。そこで問題になってまいりますのが、表面的に急速には現われない、精神的・内面的公害でありましょう。とくに、肉体的にも精神的にも大いに発達する時期である小学生や中学生が、マイコンとの対話だけに没頭するということは非常に危険であるように思います。しかも、マイコンゲームなどに夢中になる可能性が十分あります。マイコンは文句も言いませんし、忠実な家来となるからです。このマイコン時代に真の主体性をどこで得るか、それが問題です。  人類にとって、常に問題となるのは科学や宗教そのものではなく、それに関わる人間や組織の姿勢が問われるのです。たとえば、宗教であっても、組織が形成されるようになりますと、個人の自由や意志を無視するような教権主義や強権主義的側面が、台頭してまいります。  これらの問題を克服するためには、あらゆる存在を否定せずに、あらゆるものから聞き学んでゆく姿勢、報謝の心を忘れないことかと思います。十八・十九世紀、科学と宗教の闘争以来、科学は根源的な心、宗教心を失ってしまったのです。  科学・技術をつつみ、科学・技術分野の人々に答える教学を、現代という時代は要求しています。『願海』誌は、あらゆるものから学びつつ多くの問題に答えうる教学を、という願いに立たれて発刊されたとお聞きしています。素晴らしいことだと思います。この願いも、読者の皆様方のご支援がなければ、成り立たないことだと思います。悲願の構造の欄を担当させていただいてから、もうすでに六年目に入っています。まずはじめに、<記号にみる悲願>、それから<味にみる悲願>、<住いにみる悲願>、そして最後に、<科学・技術にみる悲願>と題しまして、仏教から学んだことを通して述べさせていただきました。  この六年間にも、科学・技術は日進月歩いたしております。電気工学を専門にする小生さえ、うかっとしていますと、技術の発達に取り残されそうになるほどです  第五部  宗教と科学の出会い  一、科学する心  「科学と宗教」ということが、世の中で問題になってまいりましたのも、ここ十数年のことであり、丁度『願海』が発刊されだした頃であります。したがって、『願海』が他文化との出会いを問題にしましたのも、時代の要求があったからだと思います。しかし、この出会いは容易なものではありません。出会いを疎外するものは「宗教と科学」そのものではなく、それに関わる科学者および宗教者であります。  斎藤進六先生は『科学する心』という論文のなかで  「『何々主義』は常に争う。善人は争うという言葉があるが、それは善人は偏狭なエゴであることを言外に述べたに過ぎない。『何々主義』もモデルに過ぎず、条件が変わればまた、モデルを変えるべき柔軟性を持ってもらいたいと思う。異なった政治体制のスリ合わせは、人類の生存のみならず、願生此娑婆国土し来らん悲願に応えて行かねばならない」 と仰っていますが、大切なのは聞く姿勢であります。主義主張をいいはってはなにも生まれません。人は自分自身が学んできたこと、経験したことに固執するために、他の分野の人びとと対話することが出来ないのであります。学習する、経験するということが即、執着につながりますから、余程注意しなければなりません。親鸞聖人が二十願(執着心・『大無量壽経』四十八願中の二十番目の願)を大きく取り上げられたこともうなづけます。  ノーベル賞物理学者のファインマン先生は『ご冗談でしょう、ファインマンさん』(岩波書店)のなかに、卒業生に送られた言葉として次のようなことがかかれています。  「実は私が『カーゴ・カルト・サイエンス(積み荷信仰式科学)』と呼びたいと思っているえせ科学で必ずぬけているものが一つあります。それは諸君が学校で科学を学んでいるうちに、きっと体得してくれただろうとわれわれが皆望んでいる『あるもの』なのです。その『もの』とはいったいなにかと言えば、それは一種の科学的良心(または潔癖さ)、すなわち徹底的な正直さともいうべき科学的な考え方の根本原理、いうなればなにものをもいとわず『誠意を尽くす』姿勢です。たとえばもし諸君が実験をする場合、その実験の結果を無効にしてしまうかもしれないことまでも、一つのこらず報告すべきなのです。  また、科学者として行動しているときは、あくまでも誠実に、なにものをもいとわず誠意を尽くして、諸君の説に誤りがあるかもしれないことを示すべきだということです。これこそ科学者同士の間ではもちろんのこと、普通の人たちに対するわれわれ科学者の責任であると私は考えます。ですから、私が今日卒業生諸君へのはなむけとしたいことはただ一つ、いま述べたような科学的良心を維持することができるようにということです。」  ファイマン先生のこれらのお言葉の中の科学という文字を宗教に変えれば、宗教者にも十分通ずる内容のものです。科学と宗教が出会えるためにもお互いに誠実でなければなりません。  科学と宗教が出会うための科学者および宗教者の態度について、斎藤先生とファインマン先生のお言葉によりながら述べてみました。その場合、「科学的良心」や「予見や自己を入り込ませず観る(聞く)心」が大切であるということを学びました。  ここでは、その「予見や自己を入り込ませずにみる(聞く)心」とか「科学的良心」とかが、どこから生じてくるかを、斎藤先生によりながら尋ねてみたいと思います。  なぜ、先生のお言葉を引用させていただくかと申しますと、先生と同じ分野の工学(科学・技術)を学ぶものにとって、斎藤先生という地上の先覚者(仏)の言葉は、非常に大きな感動と支え(力)をあたえて下さるからであります。  さて、先生のお書きになった『科学する心』の中に  「『科学する心』は、この『願』(修証義の願生此娑婆国土)に支えられていると信じたからである。この『願』は、科学を決して、それ以上にも以下にも捉えない心、それを『科学する心』と規定する。」 と「科学する心」は「願」であると規定されて、まず我われが人間として、この地上に肉身をまとうて生まれてきたのは、その根底に「願」があるというのが先生のお考えの基礎になっています。  それは、禅宗の『修証義』の「我われが、此の娑婆国土に生まれ、お釈迦さまにお会いできたのは、願生してきたからである(願生此娑婆国土、見釈迦牟尼仏)」という言葉から、先生の「科学する心は、この、『願』に支えられている」というお考えの基礎が生まれました。そして、この「願」から生まれたままの心を「平常心」であると述べられています。さらに、その「願(純粋意志)」について『技術の源泉を問う』という先生の論文(本書に掲載させていただきました)の中で  「この阿頼耶識は、実は生物が生物の形をとる前にあった意識かもしれない。この意識は、実は根本的に生物の前から存在し、物理学的自然の成長に立ち会った意識かもしれない。」 と述べられています。曽我量深先生は、この阿頼耶識を人間の最も深いところの深層意識とし、それを『大無量寿経』の法蔵菩薩とされました。そして、この法蔵菩薩は無始の過去から無終の未来までを荷負い、また、この法蔵を我が心とするとき、無辺の山河大地をはじめ一切の万物とも感応道交することが出来ると説かれています。  このように、曽我量深先生の教えをとおして斎藤先生の阿頼耶識のお考えをみるとき、「阿頼耶識は自然の成立に立ち会った意識かも知れない」とおっしゃっていることも「なるほど」とうなずくことができるように思います。  そして、この意識の性質は能動性であり、我われの内にあって、能動的に働きかけてくるものと、斎藤先生は受け取っておられます。この阿頼耶識こそ、先生が今、世界的視野に立ってお考えになっている、熱力学のエントロピーの法則に対するネゲントロピーの法則、すなわち、熱量が拡散していく働きのうちにあって、反対に生成していく働き(ネゲントロピー)の法則の意識・願こそ「科学する心」であり、それはファイマン先生の「良心」であり、曽我量深先生の「法蔵精神」であることを知らされ、おどろきを感じます。  二、人間の執着心  「科学する心」は「願」であり、この「願」から生まれたままの平常心――予見や自己を入り込ませずにみる心――が「科学する心」であり、この「願」こそ阿頼耶識、物理科学的自然の成立に立ち会った意識であり、それはファイマン先生の「良心」であり、曽我量深先生の「法蔵精神」であることを学びました。しかし、我々にとっては「予見や自己を入り込ませずに観る心」でありたいと心がけても、予見や自己が入り込んでしまうことを考えてみたいと思います。  たとえば、私が実験をする場合でも、ほぼ理論的背景がありますから、その実験の結果をあらかじめ仮定して行っています。というのは、この仮定(方向性)を持っていませんと試行錯誤になってしまうからです。  ですから、物理学の分野などにおいても、それまでの理論を通して、仮説を設け、その仮説によって新たな理論的展開を行い、実験的検証を通して、その仮説を証明していく方法がとられています。しかし、仮定と実験結果が一致しない場合に、その仮定に固執してしまうのです。  その一つの例として、ある会議で光ファイバーやSIT(高速スイッチング用のトランジスタ)を発明された東北大学の西沢潤一先生が話されていたんですが、ある学生が実験結果を本多先生(先生のお名前は確かではありません)にみせに行ったときに理論的に合わない結果でしたので、ほかの先生方はその学生の実験がおかしいと無視されたそうです。しかし、本多先生はもう一度学生に実験するように指示され、学生は再度実験をやり直しました。その結果も前と同じでしたので、先生が検討された結果、仮定しておった理論に誤りがあったということを発見されたそうです。余談ですが、この講演のとき、西沢先生は東北大学の伝統が今日の私を生んだともおっしゃていましたことをつけ加えておきます。  このように、その理論が有名であればあるほど、それを打ち破ることは大変なようです。 ですから、斎藤先生がおっしゃる「予見や自己を入り込ませずにみる心」の予見とは、このような理論や仮定に執着することだと思います。  我われ技術屋としましても、ある製品を開発した場合に、コストや製品の機能、安全性について十分考慮し、信念をもって世に出すのですが、その信念に執着するために問題を残すことになります。  誠実にものごとに取りくんでいても、やはり、我われは不完全であり、色めがねで対象物を観察しているという反省が、常に必要だと感じます。では、どうしたら透明な目で、心で観察することができるのかを考えてみたいと思います。  まだ、科学の分野において物理学的自然(エントロピー的自然)を対象としている場合は、何度も実験をくり返すうちに、自然の側から、お前の考えは間違っているぞと、観測を通して訴えてくることがありますので解決できることもよくあります。  しかし、人間の社会生活においては再実験等は不可能ですので、よほど注意しなければなりません。もう少し、自己が入り込んでしまう例について述べてみましょう。例えば、昭和六十一年十二月の痛ましい余部鉄橋の事故でも、何年もの間に、何度も危険信号のランプが点灯し、その都度停止信号を出さなかったり、出しても間に合わなかったことがあっても事故がなかったことになれ、そのことを反省しなかったと考えられます。  このように、慣れるとは、過去の体験に執着して、その環境を純粋に「観る心」がないことになります。  斎藤先生は、『技術の源泉を問う』の中で、生物的自然(ネゲントロピー的自然)とは、物理学的自然に対して  「自分自身を常に自己同定し、常に拡大し、常に環境条件を超えて永遠に生き抜いてゆこうとする存在の方向性にある。」 と、述べられていますが、とくに人間の場合には、物を創造し、自己を高めてゆき、環境に適応してゆく能力を有しているのですが、その能力と表裏一体のものとして、我執や、法執(理とか体験に執着する)がついてまわりますので、この自覚を常にもっていませんと「予見や自己を入り込ませずに観る心」すなわち「科学する心」を保つことは容易なことではありません。  「科学する心」は「予見や自己を入り込ませずに観る心」であると斎藤先生から学びました。しかし、生物が有している素晴らしい能力、すなわち学習しながら外界に適応してゆく能力、その能力の裏面として、経験したことに執着したり、予見したりする心が働いてしまうものだということを先に述べました。それではどうしたら、その予見する心や執着心を克服することができるかを考えてみたいと思います。この執着心は本能としての適応能力の裏面ですから、自己の力で克服することは非常に困難であります。ここで、ファインマン先生の体験談を『ご冗談でしょうファインマンさん』の中から紹介しましょう。 「ロンチェスタ会議ではリーが、パリティ保存則の破れについての論文を発表することになっていた。リーとヤンは、パリティ保存則は破れたものと結論を下し、これに関する論説を発表したわけだ。会議の間、僕はシラキューズにいる妹のところに泊まっていたので、その夜リーらの論文を持って帰り、『この中でリーとヤンの言っていることはどうもよくわからん』とぼやいた。ところが妹は『兄さんが言っているのは、それが理解できないっていう意味じゃなくて、何かヒントを得てそれを兄さんがはじめから自分のやり方で考えぬいたわけじゃないからわかりにくいだけのことよ。もう一度学生になったと思って、二階の部屋でこの論文を一行残さずじっくり読んだうえで、方程式もみんな自分でやってみたらどうかしら。そうすればきっとあっさりわかっちゃうわよ。』  僕は、妹に言われた通りに論文を全部よくよくチェックしながら読んでみたところ、ほんとうに内容も簡単明瞭なことがわかってきた。僕は頭からこの論文は難しすぎると思い込み、読むのがおそろしかっただけのことだった。」  妹さんの、この忠告をきっかけとして、先生は、物理学における理論を展開し、ノーベル賞をいただかれることになったのです。この章では、その理論が結実してゆくまでの過程と、そのときの問題点を述べられていますが、最後に  「僕は、もう決して二度と『専門家』の報告をうのみにするような間違いはしたくない。 もちろん人間の一生は一回きりしかなく、その間さまざまな間違いもしでかすが、お陰でしてはいけないということも学ぶものだ。だがやっと、それを学んだころには、もう人生は終わりなのかもしれない。」 と結んでおられます。先生のような自由度の高い(柔軟性に富んだ)方であっても、「予見や自己を入り込ませずに観る心」に帰るためには、妹さんや研究仲間の意見が必要なのでしょう。柔軟性に欠けた私どもにとってはなおさらのことです。  宇宙の働きを願として受けとられた「科学する心」(内因)と他による批判(外縁)を通して、もともとの「科学する心」に立ちかえる(復帰)ことができるのでしょう。  宗教も科学・技術も、他文化の批判なくしては、自己満足と執着に落ち入りやすいのではないでしょうか。科学・技術自身も他文化の批判を通して、現代ようやく、「進歩の観念」にとどまっていた状態から、新しい一歩を踏み出そうとしているのでしょう。  宗教も時代とともに歩んでいくためには、他文化からの批判を素直に聞いていくことが大切だと思います。そういうときに、『願海』自身も、真の批判者としての斎藤先生に出会うことが出来たことは素晴らしいことだと感慨にたえません。斎藤先生が『科学する心』という論文を書かれたのですが、この「科学する心」という言葉は橋田邦彦先生のお言葉だそうです。斎藤先生もつねに橋田先生を通してこの言葉(名号)を憶念され「予見や自己を入り込ませずに観る心」を回復されてこられたのではないでしょうか。真宗でも常に「お念仏(仏の本願力を憶念すること)をわすれてはいけません」といいます。すなわち、名号(良き師の仰せ、本願からでた言葉)に出会わなければ回復できないのではないでしょうか。親鸞聖人のお言葉を引いておきたいと思います。  「真実信の業識、斯れ則ち内因と為す。光明名の父母、斯れ則ち外縁と為す。内外の因縁和合して、報土の真身を得証す。」  三、本能としての技術  斎藤先生の『技術の源泉を問う』という論文を中心に、もう一度科学と技術について考えてみたいと思います。  「人間の社会で進歩したと称せられる科学的法則の本質はなんであろうか、実はその法則性そのものは、そこに人間がいようといまいと無関係に成立する法則である。だから科学が進歩したというのは、その存在に対して人間が何物かを付け加え、何物かを減らすことができるというのではなく、そのような法則性を矛盾なく説明しうる認識の方法が進んだというわけである。  ニュートン力学から量子力学、相対性理論へと物理学は進歩しましたがこれとてわれわれの力によって作ったものでなく、人間の存在と無関係に存在するそのような法則を、今日までの人間の観測と推理と論理性の限りをつくして、その解釈を克ち得たものである。」 と述べられています。しかし、前述しましたように、その科学を「科学する心」は、願によって支えられた「予見や自己を入り込ませずに観る心」と先生は定義されております。  また、一方技術については  「生物はやっと人間のところまでたどりついたときに、生物の内部の環境適応性あるいは自己アイデンティファイというものをもう少し明らかに、今まで内側に積み重ねてきたもの――細胞分裂のみの初期の段階から、現在の存在に至るまで蓄積したいろいろな学習情報を遺伝子の中に全部蓄積してある――を外側に向けていくことが出来るようになってくる。勿論、内側に築いてきたその技術的なメカニズムを生物が外側にあらわしたものとして、クモが巣を張ったり、昆虫が土をまるめて巣を作ったり、あるいは鳥が木の枝や葉をもって巣を作ったりするようなことも、本能という名でよばれる技術としてわれわれは見ることができる。  私が改めて科学と技術を考えているのは、実は人間にあらわれた技術も、そのような本能性とまったく相違のない直線上にのっているということを強調したいわけである。」 と述べられており、その技術の根源の働きとして、生物の特色である  「自分自身を常に自己同定し、常に拡大し、常に環境条件を越えて永遠に生き抜いてゆこうとする存在の方向性にあるといってもよい。生物の特色はネゲントロピー的な志向、これは法則でなくて、そのような志向にあるといってよい。」 と言われているのですが、私は敢えてここで、この志向を「科学する心」に対して「技術する心」と呼んでみたいと存じます。  そしてこじつけだと批判されるかも知れませんが、「光明無量の願」と「寿命無量の願」に対応させたいと思います。  光明は世界を示していると同時に智恵をあらわします。ですから「光明無量の願」は「科学する心」に対応します。  寿命は歴史を意味すると同時に慈悲をあらわします。「寿命無量の願」は「技術する心」に対応します。  「科学する心」も広義にとれば生物の本能として世界を観察し、その内部遺伝子への情報として組み入れてきたのだと解釈することはできないでしょうか。斎藤先生は  「科学と技術の歴史が始まるに先立って『はじめに完全性があった』、科学する願の本籍地は『完全性』にあるという。その『完全性』から科学・技術は始まったのである」 と言われいますが、わが聖人の『教行信証』「真仏土の巻」に  「すでに願います、即ち『光明・寿命の願』これなり。」 と述べられています。いのちの根源を言いあてられているのでしょう。  四、根元的不安と願  斎藤先生の論文を断片的にしか、ご紹介しておりませんので、読者の皆様には、先生のこ意向が十分伝わりにくいかと存じますが、ご了承下さい。  さて、『科学する心』の中で斎藤先生は  「我われが対象とする現象界には、二つの壁がそそり立っている。ひとつは観測という方法論が、光の速度(有限)の限界に達した時、現在の我われには観測という方法自身が拒否される。たとえば宇宙の大きさを、心の内で想念することは出来るが、すなわち『想念は光より速い』が、その周縁―光速で膨張しつつあるとされる拡がりについては、そこから我々の眼に戻ってくる光を観測の手段としては使えない。  それにも拘らず、もし宇宙が有限であるとすれば、その有限の容れ物としての無限がある筈であるという単純な思惟は、それが単純であるが故に、一層、人間の志向に結びつく。すなわち、願生此娑婆国土し来たった以上、肉の存在以上でも以下でもない我々が、存在を認識する以前に、『無限への憧れ』という『願』を根源に植え込まれているという事実――内観としての悲願――は遂に再び、論証と観測の両脚を運ばせてきた科学を観測なき内観へと追い込まざるを得ない。もはや、知の世界ではない。(中略)  科学はただ存在だけを見る。しかし、存在の極限における時空の拡りの中の不確かさを更に見る。存在が物質化されるかエネルギー化されるかの二重性を見出した現代科学にとって、存在はそれほど確かなものではないが、非存在(可観測的、可述的存在と区別)への証として、多く南閻浮の人身は此の発菩提心を発心するもののようである」と。  また、先生は『ネゲントロピー序説―別世界―』の中で、此世界と別世界とを問題にされ、此世界は自然科学的世界(エントロピー的世界)と生命科学的世界(ネゲントロピー的世界)とに別けて考えられると定義づけされたのち  「生命のネゲントロピー状態が単なる外乱によって不安が引き起こされるような、それ自身安定なものでなく、生命の此世界のあり方そのものに、根本的につきまとう不安―根本的不安―があることを示すものである。この不安は当然、より安定なものへの願望として無意識下に蓄えられる。  生命が此世界で表現している生体は、上述のように存在自身の根元と外乱による不安を、存在の内外に持っているとしたら、此世界に対する批判者としての根元的存在が生命操作の根底にあるはずである。それが生体それぞれの多様なあり方に伴い、多様な意識構造にそれぞれ投影するとき、それぞれ異なった表現を持つにせよ、意識界に想念として別世界を浮かび上がらせる。」 と述べられると同時に、別世界は不安の投影として如実に完全ネゲントロピーではなくてはならないと言われ  「此世界のネゲントロピー的存在の根元的不安に、仮に、別世界のネゲントロピーの無不安が、時空間的に重ね合わされるとするとそれをつなぐものは、もはや五感や意識ではあるまい。」 と述べられています。  我われの五感や意識を超えた世界、非存在としての世界、すなわち別世界と此世界とをつなぐものは何でしょうか。また、先生が別世界を問題にされているのは何故でしょうか、読者の皆様とともに考えてゆきたいと思います。『教行信証』・「証の巻」のお言葉を引いておきます。  「無為法身は実相なり、実相は即ち是れ法性なり、法性は即ち是れ真如なり、真如は即ち是れ一如なり。弥陀如来は如従り来生して、報応化種々の身を示現したまふ。」  五、別世界と此世界  さて、『ネゲントロピー序説―別世界―』の論文中から引用させていただき、此世界と別世界を問題にしております。その論文のまえがきに  「別世界に対する希求は深く人間の心に根をおろしている。それは憧れであったり、恐れであったり、時に異常心理の画き出す幻覚であったりする。およそ客観的立場をとる科学とは縁の遠い世界である。しかし、果してまったく相互に無縁のものであろうか。  宗教の歴史の中には、古代のシャーマニズムをはじめとし、多くの次元の多様な別世界が埋没している。近代化された宗教では、シャーマニズム的素朴な別世界信仰は認められていないが、依然として宗教の骨格の中には、希求(欣求)と逃避(厭離)とをないまぜて別世界がある。別世界に対比させて、われわれが現在生活している人間世界を此世界と呼ぶとしたら、近代化された宗教においても、さらに自力門のように別世界を否定するものにおいても、此世界との距離の取り方の尺度を論じ、その差異を明らかにしなくてはならない。」 と述べられております。  本文の中でこの、此世界と別世界の時間的・空間的尺度を問題にされております。時空無限大の時には、此世界というイベントの前後に無不安の世界がある、と述べられ、時間のない永遠がシュミュレート(模擬)されるという点で、宗教の原型が描き出されるだけだと批判されています。  また、別世界と此世界との時空的尺度を任意に縮めれば、個の生命の誕生と死の前後の時空間が描き出され、これはきわめて通俗的宗教の原型となると言われています。よって、両者とも、此世界との関わりにおいて、断絶していることに対する先生の批判があると思います。  一方、さらに縮めて別世界と此世界の一部を重ね合わせたモデルについて述べられ、その代表的なものとして、最近のオカルトブームを例に挙げられて批判されています。すなわち  「最近のオカルトブームは唯物論的に人間の根元的不安を解きあかそうとして、不安がより増幅されているのではないかと思われる。」 これらのことに対して先生はさらに  「さて、此世界と別世界の距離の時空間の尺度を零にしたとしたら何事が起るか。すなわち、此世界と別世界が、互いに認識できないが、時空的に二重構造になっている場合である。この場合、此世界と重なり合う別世界に多様な性質を賦与できる。」 と述べられています。前掲の引用文とともにお読み下さい。真宗における此岸と彼岸、浄土と娑婆の二重構造と深くかかわっている内容だと思います。先生は、その別世界を完全ネゲントロピー世界、絶対ネゲントロピー的無限世界、あるいは完全なるいのちの世界、無不安のネゲントロピー世界と、仏教語を用いずに、真如法性の世界、大悲の願海世界を言い当てられておられるのではないでしょうか。  聖人のご和讃(『浄土和讃』弥陀和讃)をひいてみたいと思います。  「無明の大夜をあわれみて   法身の光輪きわもなく   無碍光仏としめしてぞ   安養界に影現する」  六、いたみを持つ  『ネゲントロピー序説―別世界―』の論文の中で斎藤先生は、別世界と此世界とは時間的にも、空間的にも重なりあっている、二重構造になっているといわれています。そして、その別世界は完全ネゲントロピー世界、無不安のネゲントロピー世界であると述べられています。いままで拝見させていただいた先生の論文から拝察しますと、先生がおっしゃいます別世界は、真如法性の世界、無始無終の法性法身の世界であり、その内容は、志向性、宇宙意志、願、一心法蔵であると受け取ることができます。  では、なぜ先生はこのような別世界やビックバンに立ちあったいのち・意識を問題にされるのでしょうか。現在まで、科学・技術は表面的な此世界すなわちエントロピー的世界のみを対象とし(具体的にはそれしかありませんが)その効用面のみを追い求めてきたことから、人類が真のいのちを失いつつあるといういたみをもって、地上の事実である科学史、技術史を通して、科学・技術の、生命の底にはたらいているいのちの志向性を問題とし、これからの科学・技術の方向を探っておられるのではないでしょうか。また、国分先生がいわれました「現代なき宗教」に対する批判も含められていると思います。  きゅうに話の内容が変わってしまいますがご了承下さい。皆様の身のまわりにある電気製品や事務器などを見渡して下さい。十数年前、三十万円ほどしていた卓上の計算機が同じ機能を有するもので、千円以下となり、大きさも内ポケットに入るカード状になっています。一昨年あたりから出まわり始めた十数万円のワープロも皆様のご家庭に進出していると思いますが、その機能の増大、価格の低下の目まぐるしさは大変なものと思います。ですから、少し古くなって参りますとお蔵入りか焼却場行きです。  エントロピー増大の世界におりながら、その増大の速度はますます高まりつつあります。だからといって後もどりすることもできません。これらの製品を開発している技術者やそれを生産するための生産技術者達は日夜知恵をふりしぼり、仕事に追いまくられながら働いております。その上、この頃の円高と韓国を始めとするアジア諸国の追い上げに悲鳴をあげています。どうしたらよいのでしょうか。人類の内面は別世界を希求しています。  「真宗相伝義書」第五巻・『略本私考』(東本願寺)の文を引いてみたいと思います。  「誠に知んぬ、大乗の菩薩すらたやすく、この一心法を開顕したまうこと難し、況んや凡夫をや。ここを以て如来大悲におもむきたまい、弘誓を超発せんがために、方便法身を示し、五劫に超世の本願をたて、永劫に無窮の行業を励みて、『為衆開法蔵』と凡小を哀愍して、この一心法蔵を開き、『広施功徳法』と功徳の宝(名号)をめぐみ施したまう。是れを廻向というなり。『不可称不可説不可思議の功徳は行者のみにみてり』とあるはこれなり、此の功徳、外より来らず。本願信ずる処に、今更初めて顕わるに(も)非ず。本よりの法蔵を人々円成してありながら、玉かけながら迷う風情となるによりて、弥陀如来の本願を以て一心の法蔵を開きくだされしを、施したまうというなり。  畢竟、法性法身は万法(あらゆる存在)に偏満したまうをいう。然れば、この法性法身処は、仏と衆生と無差別一相なるなり。それより顕われたまう方便法身なれば、一切衆生の色心に偏満して、無明有碍の闇を照らしたまうなり。然れば法性法身にては、衆生信ずることあたわざる故に、これを信知せしめんために、無上の願をおこし、その業因に報酬する方便法身なり」  七、情報化社会  いままでは、斎藤先生のお言葉を中心に述べさせていただきましたが、ここからは、私自身が日頃から感じています事柄についてお話させていただく予定です。  現代は情報化の時代、情報氾濫の時代と言われていますが、情報が氾濫するということはないのであります。以前にも『願海』は、情報ということを問題にしたことがありますが、真の情報は自己自身にとって生きた、自己を変革し、あるいはそれによって何かを生んでゆく働きがあるものでなければなりません。  世の中に氾濫している多くのデータ(情報となる材料・資料)――これらは書物や雑誌であったり、新聞、ラジオ、テレビなどの種々のメディア(媒体)を介したものであったり、直接他の人から聞く話であったり――が私にとっての情報となるためにはそれらの中からおのずと選択することが必要になります。当然、皆様も日常生活では、無意識であっても多くのデータから自分に必要な情報を選択されているはずです。ですから問題は数多いデータの中から自分にとって重要であり、大切な情報をいかにうまく選ぶかであります。  通信の分野などではデータを伝達する場合に、その途中で色々な雑音が入ります。ですから、受信するときにそれらの雑音を除去し、送信された真の信号だけを受け取るようにしていますが、その雑音を除去することをフィルタリング、あるいはフィルタ(濾過器)にかけると申します。コーヒーを入れるときに紙や布のフィルターをかけますが、あれも同じ意味のものです。すなわち、必要なものだけを濾過するのです。ですから、世の中に氾濫しているデータを適当な濾過器(アダプティブフィルタ)を通して、受け取ることが必要です。  これらの情報を取り出すための作業を、コンピュータを利用して行っているものがあります。「データベース」と呼ばれるものです。種々のデータがデータバンクと呼ばれる大きな記憶容量をもったものに格納されています。必要なときに、適当なキーワード(鍵になる言葉)を入力しますと、それに関連したデータ情報がディスプレイ(テレビ)画面やプリンタに印字出力されるのです。  我々の分野では、文献検索などにも応用されています。皆様方の生活上ではよくダイレクトメールに使われていると思います。知らない会社などから、入学前のお子様がおられるときなど、新入生用の学用品の案内などが送られてきて驚かれることがおありだと思います。これらは住所、電話番号、家族構成、家族の年齢などが、データバンクに入っていて、必要な情報をそこから取り出しているのです。  最近ではこれらの作業に人工知能(AI)を利用したものが出現しています。例えば、お医者さんの知識をデータベースとして蓄えておき、患者さんの症状から、どの病気にかかっているかを推論するエキスパート(専門家の知識を利用する)システムと呼ばれるものです。現在ではあらゆる病気を診断するまでに至っていませんが、特定の病気に対するものは出来ています。これらのシステムでは、多くのデータから、医者あるいは人間がどのようにデータを選択し、それらを用いて推論するか、その機構をコンピュータによって達成していこうとするものです。  したがって、我々もそうですし、これらのエキスパートシステムであっても、フィルタリング作用が重要な働きをもっております。  親鸞聖人はどのようにして情報を選択・濾過されたのでしょうか。よき人の眼力・智恵に素直に従われたのではないでしょうか。自己の色メガネで観察すると誤って受け取ってしまうからではないでしょうか。もう一つは、曽我先生がおっしゃいます純粋感情が働いて自然に濾過してくれるのではないでしょうか。  八、情報のろ過  情報が氾濫することはないと述べ、データと情報を区別しましたが、一般的にはその区別は明白ではありません。情報という言葉は英語で information (インフォメーション)です。英和辞典で調べますと「通知、報告、情報、知識、見聞、案内所」などと出ています。一方、データ( data )は「資料論処、知識、情報」などとあります。  ですから、私は非常に狭義の意味で情報という言葉を使っているかも知れませんが、そのニュアンスをお汲み取り下さい。  ただ、世の中にでまわっているデータ(情報)に振りまわされ、惑うのではなく、すでに述べましたように、数多くのデータの中から、自分にとって何が重要であり、大切なのか、その選択が問題です。  そのためには、自分自身にしっかりとした「フィルタ(濾過器)」を持っていることが必要です。いかに、情報を選択し受けとるか、あるいは研究の進め方などに関するノーハウ(知識、技術)的な情報は、科学の分野におきましても、文書に明文化されたものはありません。  先日、ノーベル賞が利根川先生に決定した時、そのことがテレビや新聞で大きく報道されましたので皆様も御存知だと思います。今まで、自然科学の分野での受賞は、湯川、朝永、福井、利根川の各先生です。その先生方は京都大学の出身でありましたので、ある新聞で、東大と京大の土壌の違いが論じられていたことを思い出します。教育や研究の分野においても、なにか歴史や伝統が生きているということがその報道を通して感じられます。  戦前ですと、大学を目指される方々は、あの大学にはあの先生がおられるから、ということで大学を選ばれたということを耳にします。現在ではそのようなことはほとんどありませんが。  真宗には「資師相承」という言葉があります。私見を交えず、必ず師の伝承を通して受け取っていくことが肝要であるというのです。その師を選ぶ(ご縁)という問題も残りますが、高原先生は「善導を学ぶものは善導ばらになれ」あるいは「何か問題が発生したら聖人に相談せよ」と常日頃からおっしゃっています。この「善導ばら」、「親鸞聖人に相談する」ことがしっかりとしたフィルタを持つということではないでしょうか。  まだ「相伝義書」として公開刊行されていませんが、善導大師の観経疏の講義(釈真玄)『玄義分第一偈頌』の始めに、つぎのように出ています。  「黒谷の元祖(法然上人)は善導流の念仏を本朝に弘通したもう故に、もっぱらこの御疏を本としたもう。故に『選択集』等にも多く大師の釈によりたもう。もっとも道綽・善導と次第の相承なるゆえに、綽・善師によりて、まず教相の一章を開きましまし、次で二行の章己下はこの大師によりて釈したもうなり。『論註』に初に『十住論』の文を引き、難易二道の教相を分別して、ついで『浄土論』を註解し、龍樹、天親と相承を示したもう例のごとし。」 と述べられて資師相承の伝統を明らかにされたのち  「独明仏正意のご製作をいかでか容易に伺うべきに非ず。いわんや未熟不省の身として、披講におよぶべきようなし。しかれども章に、先師(釈一玄)の講述干念有之、そのうえ己前講筵につらなり聴聞せし大都、九牛が一毛書きとどむるの聞記あり。旁々もって、今はその相承口授のままを申しのべ、伝聞の旨をもって宗意の見込みを弁出するのみなり、いささか一言一句、私解を加えず、文相義解の章疏に顕れしほどは、みな章疏へ譲り弁出におよばず」 と言われています。驚くべき確かなフィルタをお持ちであることが、文のはしばしから感じられるではありませんか。ここで、このような文を取り上げましたのは、先人の言われたことをうのみにするということではなく、「予見や自己を入り込ませずに観る心」すなわち「聞く姿勢」、「受取側の姿勢」を問題にしていることを受け取ってください。  九、顕彰穏密の義  「情報」という問題を取り上げ、どうしたら私たちは本当のもの、真の情報を受け取ることが出来るかを学んでいます。親鸞聖人は法然上人よりの伝統である三経一論を所依の経典とされ、その中でも『大無量寿経』を真実教と位置づけられて、その流れの中に七高僧の伝承を見られています。その場合に、聖人は厳密に「真・化」を分判されていますが、その分判に際して、顕彰隠密の四字の義を大切にしておられます。  『玄義分』の講義(釈真玄師)の中に  「聖人のこの御指南(四字の義)によりて、大師(善導)元祖(法然)の宗意、祖師(親鸞)の御己証にかなうように伺いならうを当流拝見の習いとするなり。」 とのべられていますので、ここではこの四字の義を伺い学びたいと存じます。  「今、伝聞の旨にまかせて四字の義をつぶさに示さば、凡そ顕彰隠密というは、顕というは謂く顕露なり、明白に義を開く、彰とは微彰なり、幽玄に意を著す(聖人ご草稿の本に彰字に『うちにあらわす』と左訓したまえり、彰字、うちにあらわすとあれば顕は外にあらわすなるべし、内外に彰すの心、しるべきなり)隠とは謂く隠覆し伏蔵して見えざるなり、密は謂く秘密なり、堅守して開かざる故に、顕は即ち密に対し、彰はまた隠に対す。顕は謂く顕すべきを即ち顕す。密は謂く密すべきを即ち密す。隠は謂く顕すべきを然も隠す。彰は謂く隠すべきを然も彰す。」 と述べられています。また、  「この四字の義、畢竟をいわば、先ず四字におのおの義ありと心得て、さて一義を設くるとき、隠彰は相い合して一義となるなり。しかれば、義は三義としるべし。又密といえども堅守不開の義なれば、顕に対すればしばらく見えざるところを呼んで、秘密と名づくれども、まんざらないというには非ず、ここを隠という。隠はいわく隠覆伏蔵の義なればかくす、ほのかにあらわすというところには、いわず(隠なり)かくさずして(彰なり)、そこにもののある、これを密といい、本願の隠彰という。(真実とはこれをいうべし)」 と申されています。  我々にとっては何が顕の意で、何が隠の意であるか区別がつかないものですから、とかく外にあらわれたもの、表現されたもののみで判断し、一喜一憂するのです。ですから、情報に振り回されることになってしまいます。この隠顕のこころえ、習いを通して身につけてゆく以外にないのではないでしょうか。  「顕彰隠密の義は『化土巻』に『釈家の意によって ・・・』とはじめに顕しまして、終わり『三経の大網、顕彰隠密の義有りといえども、信心を彰して能入と為す、故に ・・・』と示しましまし、十九丁の間に四カ所において顕彰隠密の義を重々釈したまい、三経におしわたりてこの義あることを示したもう。信心ひとつを能入とすとのたまえり。『能入』というのは、衆生の心想中に満入したもうの仏心これなり、心想中に満入したもう仏心は、誰かそなえぬもなく、たもたぬもなし、ただ一念と発起するのみなり」 と申されています。  このように伺って参りますと、我々が情報を選択する判断力・濾過作用は、顕彰隠密のこころえ、習いを通すとともに、信心一つに限るとおっしゃいますところの信心、衆生の心想中に満入したもうの仏心・まことの心(あらゆる人々に遍満している)が良き人との出会いによって開発されることが是非必要なのではないでしょうか。  我々の日常生活においても他のひとの表面に現われた態度のみでその人のよしあしを判断してしまい、その人がそうゆう態度にならざるをえない背景・理由があるということを無視していることがよくあります。それは顕のみによる判断で、「自己を入れて観る心」ではないでしょうか。また、あの人は不信心だとよく言います。出会うことが出来そうもなかった自分自身が仏の教えに出会った背景を忘れてしまって ・・・。  一〇、観測・推理・論理性  顕彰隠密の四字の義について述べましたが、引用文が多いため読みずらいかもしれませんが、相伝義書のお言葉は一言一句意味深いものですから、そのまま掲載する方が良いのではと思いました。何度も読み直してください。  情報を受け取る場合のフィルタ(濾過)作用について考えておりますけれど、それでは科学の分野でどうなのか感じたことを述べてみたいと思います。  読者の皆様方も物理や化学などを学ばれたときに、いろいろな法則を教え込まれた経験がおありだと思います。それらの法則も実感として、あるいはうなづいて受け取られたことは少なく、ああ、そんなものかと、ただ覚えることのみに一生懸命だったことでしょう。  斎藤進六先生は  「技術的な推進力を阻むものとして、科学の法則性を知ることによってもっと巧みに法則性を使いこなすという方法論が生まれた。だから、その(法則性)の存在に対して人間が何物かを付け加え何物かを減らすことができるというのではなくて、そのような法則性を矛盾なく説明しうる認識の方法が進んだというわけである。」 と言われています。このことを科学が進歩したと一般に言っているのです。  物理科学的自然に存在する法則性を矛盾なく説明することによって、法則性が顕わになるのです。その法則性を矛盾なく説明するためには、実験と観測を通して行われます。しかし、その観測結果には必ず、誤差、雑音等を含みます。したがって、簡単にその観測結果から法則性を見い出すことはできません。また先生は  「圧倒的に人間の存在と無関係に存在するような法則性を、今日までの人間の観測と推理と論理性の限りをつくして、その解決を克ち得たものである。」 と述べられておられますが、「人間の観測と推理と論理性の限りをつくしてその解決を克ち得たもの」というお言葉の中にその困難さがにじみでているように思えます。表面的な自然現象のうちに秘められた法則性を人類は時間をかけ、「予見や自己を入り込ませずに観る心」を持った人々を通して、みがかれて来たのです。と同時に、一方その法則性を応用した観測技術の発展と理論体系を構成している数学の発達がなければ、現代科学としての成果は得られないと存じます。  観測 ・・・・・観測技術の発達・分析力  推理 ・・・・・純粋な観察力・洞察力  論理性 ・・・数学的背景・表現力 右に示しますように、斎藤先生のお言葉を分離して考えてみますと、観測は仏教でいいますところの分別智、推理は直感的要素を含んでいますので無分別智、論理性は表現と客観性を含むものとして後得分別智に相当すると言えるでしょう。この論理性が、次代の人々への表現となりますから還相廻向として作用するのです。いまここで述べましたことは、原稿を書きながら急に思ったことですから無茶な解釈かもしれません。ただ、これらの三要素がないと科学の発達、法則性の認識の方法の進歩はなかったのです。  急に話が変わりますが、『願海』誌上でもご指導をいただいている、佐藤純一先生と先日、『願海』同人との座談会を持ちました。その席上、日本はヨーロッパに比べ、まだまだ、創造的な仕事が少ない。それに反して、応用技術の進歩は目をみはるものがある。それはどうしてそうなるのか。幼児教育から大学教育まで、その教育に問題があるのでは、というご意見をいただきました。それらのことも念頭に置きながら、考えていきたいと存じます。  一一、法則の適用範囲  自然科学の法則は、斎藤先生が言われますように、圧倒的に人間の存在と無関係に存在する法則性を、今日までの人間の観測と推理と論理性の限りをつくして克ち得たものであります。しかし、その克ち得た法則を通し、その適用限界を知ることによって、また新たな法則が生まれてくるのです。  渡辺慧先生(ハワイ大学名誉教授)は著書『時間の歴史』(東京図書)の中で次のようにのべられています。  「ニュートンの力学が、アインシュタインの力学によって、取って代わられたということをよく申します。取って代わられるといいますと、同格のものが二つあって、その一つが誤っていたために他がこれを廃して登場したように聞こえますが、事実はそうではないのです。ニュートンの力学も正しいし、アインシュタインの力学も正しいのです。ただ前者より後者の方が適用範囲が広いのです。ですから一つの真理が他のより広い真理に包括されたのです。アインシュタインの力学とても最後的なものではありません。  右は科学的な真理性の『相対性』を示す一例です。相対的というのはその適用範囲に関して相対的なのです。範囲を限れば正しいし、限らなければ誤りであるという意味であります。  このように、自然科学の法則にはそこに適用範囲、適用限界が存在するのです。圧倒的に存在する法則性そのものが適用限界を持っているのではなく、数式や言葉で表現した法則・理論に限界があるのです。  実際の科学の歴史は、種々の社会的、個人的環境の影響のために、一つの真理へ到達するのにとんでもない回り道をしてみたり、また逆に思いもかけない抜け道をしたりしています。ですから具体的に理論の進化の跡をたどると、ずいぶん複雑な事情に出会います。しかし、そういう理論の内容にとっては、多かれ少なかれ偶然的な事情を取り去ってみれば、進化の形式にはある類型が見い出されます。  『自然科学の法則Lにはその通用する経験の範囲Aが付随します。このLをAより広い経験の範囲に適用するとそこに経験と理論とのくい違いXが見い出だされます。このくい違いをなくせるような新しい法則Aが発見されます。この法則Aにもやはりその通用経験範囲@が付随します。@はAを含んでいますこのようなLからAへの遷移をつぎつぎに繰り返すのが理論の進化であります。』 これが私の言う進化の形式であります。」 ともいわれています。前記の通用経験範囲@は前の経験範囲Aよりもその範囲が広まったのであります。このことはさきにも述べましたように観測技術の発達などによって経験範囲が広がったり、深まったりするのです。このことはつぎのように述べられています。  「ある定まった期間の間は少なくとも、法則に矛盾が現われないでいるということは、換言すれば、人は限界Aを自覚しないけれども、その限界Aのなかから、しばらくは足を踏み出さないでいるということを意味します。そのことは自明なことではありません。その理由は科学の内容よりさらに広い見地から理解されるでしょう。それはたとえば望遠鏡の倍率とか、顕微鏡の解像力とかいうものが技術の発達に依存し、それがわれわれの経験の範囲を自動的に制限しているというようなことに関連してくるのです。多くの場合、何らかの理由があって経験の範囲というものがしばらく固定されるところに、法則があたかも絶対的に正確なものであるような外貌をもって君臨しうる基礎がありました。」  これらのことは宗教の領域においてもよく考えてみなければなりません。留まっていれば死んだものと同じであります。  渡辺慧先生のお言葉によりながら、自然科学のある法則Lに対して、その法則が通用する経験の範囲A(有効適用範囲)が付随する。その通用する経験範囲Aをより広い範囲@に拡張すると、そこに経験と理論のくい違いXが見いだされます。このくい違いをなくするような新しい法則(理論)Aが発見されます。という科学の進化について学びました。  また、先生は、ある定まった期間の間は少なくとも、法則に矛盾が現われないでいるということは、換言すれば人は限界Aを自覚しないけれども、その限界Aの中からしばらくは足を踏み出さないでいるとも述べられています。この限界Aに踏みとどまる要因として、観測技術がまだその限界領域を越えていないなどとも考えられますが、人の意識が法則(理論)に執着することが要因であることもしばしばです。  ここに踏みとどまっていた良い例がありますのでご紹介します。このことは佐藤先生からもお聞きしたことです。  昭和六十二年は超電(伝)導フィーバーの年とも呼ばれるくらい、高温超伝導物質の発見で科学者間はもちろんのことマスコミも大きく取り上げたものです(科学・技術にも流行があります)。超伝導物質といいますのは種々の特徴を持っていますが、簡単に主な性質を述べますと、字句の通り電気抵抗が非常に小さく、零に近いものをさします。通常、よく電気を通すものとして銅線が電力配線に用いられています。銅は、電気抵抗が小さい物質といいましてもやはり抵抗がありますので、大容量の電力を送電する場合に、その抵抗によって損失が発生し、熱に変わります。この熱の発生が種々の障害を起こすことになります。この発熱を抑えようとしますと非常に太い銅線を使用しなければなりません。ですから、大電流を流す用途にはこの超電導物質が要求されるのです。  ところが、前の年までは、BCS理論(バーディーン、クーパー、シュリーファーの三名の頭文字)というのがありまして、金属系などでは、この超電導現象が起こる限界は絶対温度で三十度K〜四十度K(ケルビン)以下であると、日本国内でも信じられていたのです。  絶対温度の零度は摂氏でいいますとマイナス二七三度です。この絶対温度で三十度K以下の状態を保持する安定な物質に液体ヘリウムがあります。ですから、旧国鉄が宮崎で実験を行なっています、超電導による磁気浮上列車では、液体ヘリウムを使用しています。極低温であり、しかもこの液体ヘリウムは、ほとんどアメリカで生産されています。これより上の温度では液体窒素がありますが、七十度Kとなります。窒素は空気中などに多量に含まれていますので、どこの国でも多量に生産することが可能となります。しかしBCS理論によって、とても窒素温度では超電導現象は不可能であると考えられていたのです。  ところが、IBMチューリッヒ研究所のベドノルツ、ミューラー氏らの共同研究で、セラミックス材料を用いた実験で、三十度Kぐらいで超電現象とみられる結果が報告されました。その後、ヒューストン大学のチュー先生からイットリウムを用いたセラミックスで、七十度K〜九十度Kで超電導現象が起こったという報告が発表されるやいなや、全世界の研究室で高温超電導物質の開発競争が始まったのです。その後のフィーバーぶりは皆様もよく御存知の通りです。  現在、落ち着いてまいりましたのは、七十度K以上で超電導現象が何故起こるのか、また、セラミックスで何故起こるのか、その法則性を見つけ出すために、材料とその内部の分子レベル、それ以下での構造解析などが行われているのでしょう。  特に今回の事件は、偶然と根気の勝負だとよく言われたものです。  このように、超電導物質の開発競争の発端がまた、外国からであったことに、日本の科学者の創造性が問題となっているのです。このことは宗教の立場からも考えてみなければなりません。  一二、視座の転換  法則には適用限界があること、その適用限界を忘れたために、新しい超電導物質の発見が、日本でなされなかった一例をお話いたしました。法則に適用限界があるということは、その法則が成立するには何らかの条件が付随するということでしょう。また、その適用範囲が広くなるということは、その付帯条件がゆるめられるということだと思います。  渡辺先生は「ある定まった期間の間は少なくとも、法則に矛盾が現われないでいるということは、換言すれば、人はその限界を自覚しないけれども、その限界のなかからしばら く固定されるところに、法則があたかも絶対的に正確なものであるような外貌を持って君臨しうる基礎がありました」と述べられています。このように、適用範囲があることを忘れ、その法則を絶対的に真だと思い込んでしまうところに問題があるようです。  ここで、座標変換について述べさせていただきます。わが真宗では廻入とか転入という言葉によって、信心をいただいたときを表現しています。よき人に出会い、お念仏(六字)のいわれを聞くことによって、その人の視点、視座が転ぜられることを「転入」と表現されているのだと思います。また、その転ぜられる働き、作用を廻向という言葉で言いあてられています。  科学技術の分野では、変数変換や座標変換という手法を用いることによって、その視座、視点を転換しているのです。  例えば、円の面積などを求める場合、直角座標で表現されているものを極座標表現に変換しますと、簡単に面積を求めることができます。  直角座標と申しますのは、直角に交わるX軸とY軸とがあり、その交点Oを原点とします。その二次元平面上の任意の点Pの座標(位置)をY軸からの距離xとX軸からの距離yとによって、すなわちP(X,Y)で表わします。一方、極座標表現の場合には、この点Pと原点Oからの距離rと正側のX軸とのなす角θで表現します。すなわちP(rcosθ,rsinθ)となります。少し専門的になりますのでこれ以上数式は使用しませんが、高校時代に習われた記憶がおありだと思います。もちろん、直角座標で表現した点Pと極座標で表現した点Pは、二次元平面上の同じ点を意味しています。  このように、同じもの(点Pなど)を異なった座標で表現することが可能ですので、与えられた問題によっては、どちらの座標で表現するかによって、問題が複雑になるか、簡単になるかかわって参ります。円の面積ではなく、X軸に平行に置かれた長方形の面積を求める場合などは、逆に直角座標のまま求める方が簡単です。  仏教においても、成就に立てばとか、法から言えば、機から見ればとか申します。あるいは浄土から、娑婆から見るとも申します。これは、視座の転換を意味しているのでしょう。この場合に、娑婆からの視座とはどういうことなでしょうか。すべてのものを自己を中心とした視座、座標でしか見ないことを言うのでしょう。我々は教えられた問題に対しては、適当な座標変換を行うことができますが、あらゆる問題に対して最適な視座から見るということは不可能です。では、浄土に立つということはどういうことなのでしょうか。  人の視点、視座が転ぜられることと、工学の分野などで用いられる座標変換との関連について簡単にお話しましたが、もう少し、続けたいと思います。工学上で用います座標変換は、数学的な取り扱いはいたしますが、それはどのように、あるいはどのようなところから対象物を座視するか、その視座・視点を変更するためのものであり、また異なった物理現象を統一的に取り扱うためにも座標変換が用いられるのです。  我われの生活においても、相手の立場に立って考えなさい、行動しなさいとよく言いますが、これとて同じ意味のものです。  ここでは、宇宙から地球を見るという体験によって、意識の転換がなされた人の話をご紹介しましょう。  立花隆さんの『宇宙からの帰還』(中央公論社)で「宇宙人への進化」という章からの引用です。途中ところどころはしょりしますので、興味を持たれた方はご一読下さい。  「窓からはるかなる地球を見た。無数の星が暗黒の中で輝き、その中に我われの地球が浮かんでいた。それは美しすぎるほど美しい斑点だった。それを見ながら、いつも私の頭にあったいくつかの疑問が浮かんできた。私という人間がここに存在しているのはなぜか。私の存在には意味があるのか。(中略)いつも、そういった疑問が頭に浮かぶたびに、ああでもないこうでもないと考え続けるのだが、そのときはちがった。疑問と同時にその答えが瞬間的に浮かんできた。とにかく、瞬間的に真理を把握したという思いだった。  世界は有意味である。私も宇宙も偶然の産物ではありえない。すべての存在がそれぞれにその役割を担っているある神的なプランがある。そのプランは生命の進化である。生命は目的をもって進化しつつある。個別的生命は全体の部分である。すべては一体である。一体である全体は、完璧であり、秩序づけられており、調和しており、愛に満ちている。この全体の中で、人間は神と一体だ。自分は神の目論見に参与している。宇宙は創造的進化の過程にある。(中略)  神とは宇宙霊魂あるいは宇宙精神(コスミック・スピリット)であるといってもよい。それは一つの大いなる思惟である。その思惟に従って進行しているプロセスがこの世界である。(中略)  瞬間的だった。真理を瞬間的に獲得するとともに歓喜が打ち寄せてきた。その感動で自分の存在の基底が揺すぶられるような思いだった。真理がわかったという喜びに包まれていた。それからしばらくして、今度はたとえようもないほど深く暗い絶望感に襲われた。感動がおさまって、思いが現実の人間の姿に及んだとき、神とスピリチュアル(精神的)には一体であるべき人間が、現実にあまりにあさましい存在のあり方をしていることを思い起こさずにはいられなかった。現実の人間はエゴのかたまりであり、さまざまのあさましい欲望、憎しみ、恐怖などにとらわれて生きている。自分のスピリチュアルな本質などはすっかり忘れて生きている。そして、総体としての人類は、まるで狂った豚の群れが暴走して崖の上から海に飛び込んでいくところであるかのように行動している。こうして無上の喜びと、底知れぬ絶望感と、極端から極端へ心が揺れ動き続けた。(中略)  自分がこれまで真理だと思っていたことが、より大きな真理の一部でしかないことがわかってくる。この意識の変革、視点の転換がすべてのカギであることを、あらゆる宗教が語っている。」  何んと素晴らしい体験をされたことでしょう。しかし、広開浄土門の法は、このような個人的な体験による座標変換を願われているのでしょうか。  一三、特殊体験  地球上の混沌とした場(座標)から宇宙を見るのではなく、無限の広がりを直接肌で感じられる宇宙空間から美しい地球を眺めるという、空間的に異なった場(座標)に立った特殊体験によって開かれた宇宙感・悟りであります。  しかし、同じ特殊体験(視座の転換)をされた宇宙飛行士がすべて、同じ宇宙観を持ったかと言えば、そうではありません。後にご紹介させていただきますが、地球におられるときに、キリスト教やいろいろな思想家の影響をすでに受けておられます。  ここで、この宇宙飛行士(ミッシェル)の略歴を述べさせていただきます。  「アル・シェパードとともにアポロ14号の月着陸船に乗り組み、月にその足跡をしるす六人目の男となったエド・ミッシェルは、シェパードとは対照的な男だった。ミッシェルは一九三○年、テキサスに生まれ、子供のときから飛行機乗りにあこがれ、近くの飛行場でアルバイトをしながら、十三歳のころから飛行機の操縦を学んだ。カーネギー工科大学を卒業後、海軍に入り、テストパイロットになる。ソ連の人工衛星打ち上げの成功を知るや、自分も宇宙飛行士になろうと決心する。そのためには、学問がもっと必要だと思い、海軍大学で航空工学を学ぶ。さらに、MIT(マサチューセッツ工科大学)に進学して、航空宇宙工学の博士号を取得。一九六六年、第五期生の一員として宇宙飛行士に採用される。」  このようにれっきとした科学・技術者であります。また、ミッシェルさんは、テレパシーなど人間の超能力にも関心を持たれています。立花さんは本のなかで、彼の世界観は、アリストテレスのそれにきわめて近いと述べられています。ですから、アリストテレスの影響も受けておられたのだと思います。もう少し、彼の言葉をお聞き下さい。  「人間は物質レベルでは個別的存在だが、精神レベルでは互いに結合されている。さらに進めば、世界のすべてが精神的には一体(スピリチュアル・ワンネス)であることがわかるであろう。スピリチュアル・ワンネスがあるから、スピリチュアルになりきった人間は、物理的手段(話すなど)によらず外界とコミュニケート(通信)できる。古代インドのウパニシャドに、『神は鉱物の中では眠り、植物の中では目ざめ、動物の中では歩き、人間の中では思惟する』とある。万物の中に神がいる。だから万物はスピリチュアルには一体なのだ。」  また、彼は、イエスにしても、ブッダにしても、モーゼ、モハメッドにしても、あるいはゾロアスターや老子にしても、みな人間の自意識の束縛から脱して、この世界のスピリチュアル・ワンネスにふれた人々なのだと受け取っておられます。  「ティヤール・ド・シャルダンから私は大きな影響を受けている。ティヤールはキリスト教の枠組の中にいた。私も進化の方向は、神との同一性に無限に近づいていく方向にあると思っているが、私の考える神は、キリスト教の神ではない。ちなみに、ユングからも私は影響を受けている。人間が集団的無意識を共有しいるという彼の考えは正しいと思う。しかし、その集団的無意識の根拠は人間が原始時代から蓄積した経験の集積に求められるべきではなく、エゴから離れた意識の面においては、すべての人間がそれぞれに神につらなっているのだということに求められるべきだろうと思う。」  彼は科学・技術者ですから、各種の宗教の根源に流れている精神、それを統一的に受け取っているところが非常におもしろいと思います。仏教ではすでに「悉有仏性」と彼の言わんとすることを言い当てています。  宇宙飛行士(エド・ミッシェル)の宇宙体験を通して、意識の転換(座標変換)について学んでいます。もう少し、彼の話をお聞き下さい。  「神秘的宗教体験に特徴なのは、そこにいつも宇宙感覚(コスミックセンス)があると言うことだ。だから、宇宙はその体験を持つためには最良の場所なのだ。歴史上の偉大な精神的先覚者たちは、この地上にいてコスミックセンスを持つことができた。これは凡人にはなかなかできることではない。しかし、宇宙では凡人でもコスミックセンスを持つことができる。何しろそこが宇宙だからだ。歴史上の賢者たちが精神的知的修練を経てやっと獲得できた感覚を、我々は宇宙空間に出るという行為を通して容易に獲得できたのだ。  進化の方向ははっきりしている。人間の意識がスピリチュアルに、より拡大する方向にだ、つまり、イエスとか、ブッダとか、モハメッドとかは、早くこの進化の方向を人類に指し示していた先導者なのだ。どんな進化でも、種全体が大きく変わる前から、進化の方向を先取りする個体があるのと同じことだ。」  このように三カ月にわたって彼の話を聞いて参りましたが、素晴らしい内容なのですが、聞いてるものにとって、その満足感が伝わってまいりません。何が問題なのでしょうか。  法性体験、神秘的宗教体験だけだからでしょうか。  曽我先生(『曽我量深選集』第三巻 彌生書房)は「体験の教証」という論文の中でつぎのように言われています。  「されば如来の本願の性たる慈悲は一如の自然に本有内在するであろうが、しかもその(慈悲の)発起は巳に法性に属せずして方便法身に属する。単純なる招喚でなくして、発遣を通しての招喚である。単なる真実でなくして方便の荘厳を通しての真実である。往相に廻向せんがたために如来はまず還相に廻向し給いた。往還二廻向は廻向表現の相としては還相は往相の利益であって、往相の究極の大涅槃の彼岸から現実界に反影するものであるけれども、もし如来表現の次第から云わば、還相は往相の方便であって、還相廻向に先だち、大行の背景である。如来の願心は広く万行の菩薩の法蔵を開いて、漸次に一如の仏国を荘厳し、以って東岸上から我を発遣し給う。(中略)多くの人々は唯『招喚する如来』と『発遣する釈尊』とを知りて、『招喚せられたる我』と『発遣せられたる我』とを想わない。又何人も招喚と云うを偏重して発遣と云うことを忽諸(なおざりにする)して居るではないか。現実の招喚は『発遣の自覚』の外はないのである。若し現実の発遣を離れて理想の招喚に偏するとき、その信は全く個人的なる定散自心となり、その証は空虚なる自性唯心となる。」  うまくは言えませんが、ミッシェルさんをはじめ、あちこちでいろいろな方々がいのちの根源の問題や宇宙精神・意志(願)の問題を取り上げられるようになってまいりました。しかし、そこからの出発がないように思います。地上の混沌に染まるとすぐに消えてしまうのではないでしょうか。ミッシェルさんが宇宙でスピリチュアル・ワンネスの体験が可能となったのも、キリスト教をはじめ、シャルダン、ユングはもちろんのこと、地上の混沌そのものから発遣されていた我、しかもその発遣が如来廻向、神の目論見からの働きなのだという再度の座標転換が必要であるように思えてなりません。  曽我先生が述べられていますように、往相と還相廻向、法性法身と方便法身、招喚と発遣における道理といいますか、論理が現代に要求されている問題だと思います。  一四、科学技術と人間の欲求  ここはコーヒーブレイクの時間だと思ってお読み下さい。  石井威望先生の『科学技術は人間をどう変えるか』で人間こそ主役と題した章の中から、抜き書きでご紹介します。  「科学技術の進歩がその裏面で人間的なものへの飢餓感の増大をともなっていることは、しばしば指摘されるとおりである。たとえば医療をとってみても、レントゲンに始まって、最近はCTとか、超音波とか、機械や装置が高度になるにつれて、患者と医者の関係はしだいに疎遠になってしまった。病院にいっても担当医とはほとんど話ができない。自分の前にあるのは機械ばかりで、その機械を動かしている人に尋ねても病気についてはなにも教えてくれない。いったいだれが、どこで自分の体をみているのか不安になってくる。  いっぽう医者は医者で、毎日レントゲン写真をみたり、プリントされた検査データばかりみて、患者そのものはまったくみていない。まるで工場で製品の善し悪しをしらべているようなものでないか、スーパーマーケットとどこが違うかという感じを抱いている。これは教育についてもいえる。  テクノロジー(技術)が発達すればするほど、人間的な欠乏感が強まる。その欠乏感を癒すために人々はいろいろなことを試みるが、ジョギングなどはその格好の例ではなかろうか。現代のスポーツは多かれ少なかれ機械文明の発達とともに普及してきたが、ジョギングはその代表で、その人気は自動車の普及と表裏をなしている。人々は車に乗るようになってから、走りたいというターザンのような人間本来の欲望にとらえられたのである。もちろん健康によいという理屈はあるが、走れば気持ちがよいという、自然と共に生きていた古来の人間感覚の回復感がなければ、これほどのブームにはならなかったであろう。  人間の遺伝子は石器時代にいちばん適応するようにできているという説があるが、案外あたっているかも知れない。走りたいという人間の欲望は、原始時代の人類にとって、走ることと労働とが密接につながっていたことによる。走って食料となる獲物をつかまえていたのだから、走ることが即生きることでもあった。そういう原始の記憶を体の奥深く宿している人間が、車の普及によって、もはや走らなくなったとすれば、どこかでその欲望を満たしたくなってもとうぜんかもしれない。  このように科学技術が人間生活の中に入り込んでくればくるほど、逆に人間本来の情動的なものが全面に出てくる。それはジョギングのような欲望であったり、芸術的な情熱であったりする。  科学技術の進歩が人間的欲求を強めていることはいま述べたとおりだが、もうひとつ興味深いものとして、テクノロジーそのものが芸術化していく現象もみられる。たとえば最近人気のあるシンセサイザーなどは、これまでになかった音響をつくりだして、宇宙的叙情とでもいうべき感覚を音楽として表現している。NHKの紀行番組『シルクロード』のバックミュージックは有名だが、あのような美しい音楽を聴けば、電子音楽といわれても、何ら違和感は感じないであろう。」  一五、科学・技術の輸入と翻訳  文明開花期にあたっては、科学・技術は互いに手をたずさえて日本の人々の前にあらわれたと斎藤先生から学びました。その文明開化期からどのように科学・技術が受け入れられ、発展して来たかを、辻哲夫先生の『日本の科学思想―その自立への模索―』(中公新書)によりながら考えてゆきたいと思います。  「われわれは現在、科学や技術という言葉が、日常語として十分通用する世界に住んでいる。しかし、これらの言葉の、日本語としての歴史は意外に短いものである。五十年、百年と歴史をさかのぼってゆけば、まず技術という言葉が、いずれ科学という言葉も、どこかにまぎれこみ、ついには姿を消してしまう。明治維新のころまでゆくと、もはや科学・技術という言葉の存在しない世界へふみまようことになる。  言葉の歴史にかぎっていえば、科学・技術はものの百年たらずのうちに、無から有への大変動を遂げたわけである。日本語の文脈の中で、どう表現してよいかわからなかったものが、百年たったいまならば、だれでも気軽につかえる言葉となって定着している。」  このことと同じで、仏教語においても、我々の日常に同化している言葉は少なくありません。現在の我々の方が、まだ古い時代の仏教語を狭い一宗派の中で多用していることが問題なのかもしれません。佐藤先生も常に、現代語への翻訳が必要ですねとおっしゃっています。  「よく誤解されるように、機械の運転を覚えたり、ものまねをするだけで、日本に科学・技術を受容できたとは、とうてい考えられない。受容の具体的ななりゆきの中では、これらの方便も欠かせない手がかりではあったろう。しかし科学・技術が、たんなる模倣文化として定着・自立することはありえない。日本人みずからが理解しえたのでなければ、科学や技術が、日本文化の自主的な推進力となることも不可能だし、その創造的な成果など望むべくもない。重要なのは、その日本人なりの理解の仕方がどのようにすすめられてきたのか、それをたどりなおしてみることである。  ここでは言葉の変遷と、その意味内容の変化と、それらが相互に交錯してくりひろげる、科学・技術の文化史、思想史が問題になる。むろんそれも、日本語だけの閉じられた範囲の話ではなく、たえず流入してくる外国語で表現された科学・技術との照応の仕方が、つねに注目されねばならない。科学・技術の受容とはつまり、外国語によって考えられていた思惟内容を、日本語によっても語り伝えるようにするため、さんざん苦労した上でようやくこれを再構成してみせることであった。」 と述べられた上で、つぎに、科学・技術は翻訳文化として日本に成立したことをはっきりと指摘され、概念の翻訳と題してつぎのように言われています。  「翻訳とは、要するに言葉の翻訳なのだという見解が優先しやすい。むろん言葉の正確なおきかえこそが、翻訳の出発点となるにはちがいない。しかし、翻訳の核心をなす部分、したがってその作業の真の困難さとなるものは、実はその先にまっている。言葉の背後にある意味、つまり概念の翻訳がそれである。ここにいう概念とはしかし、一つ一つの単語をさすだけでなく、それをささえている理論の枠組みまでを含めて考えねばならない。日本語だけをつかって、体系的な理論の説明までできるようにすることである。」  文明開化から現在まで、たかだか百二十余年しかたっていません。その日本が科学・技術の分野で世界のトップレベルにまで現在発展してまいりました。確かに、その創造性の問題は残っておりますけれども。  日本の科学・技術がどのような背景で、あるいはどのような思想展開のもとで、今日のように日本に根づき、発展して来たかをたずねてみたいと思い、辻哲夫先生の『日本の科学思想』を中心に学んでいます。  「翻訳」ということについて、先生のお言葉をお借りして述べましたが、もう少しお聞き下さい。  「未知の科学的な抽象概念を日本語で表わしていくには、日本の学術用語の転用、転釈がぜひとも必要になる。その用法がまずく誤解におちいることもあるだろうし、そうでなくとも、なにほどかの意味の変更は結局避けられないであろう。翻訳とはあくまでも、原文を別の言葉で再構成することである。だから科学の翻訳も、日本語をつかい、日本語の思考法にしたがった、学問的知識の再構成にほかならない。  伝統的な日本の学問と、科学の相関関係は、けっして単純なものでなくなってくる。伝統的な学術の方はもともと非科学で、科学をうけいれるのに邪魔にしかならぬなどと、一方的にきめてかかることはもはやできない。伝統的な学術が、(西洋)科学を受容して再構成する上で、まったく役立たないのであれば、科学の翻訳はいっさい不可能である。日本語によって科学を理解可能なものに再構成しうるのであれば、日本の伝統文化が潜在的にその可能性を秘めていたのにほかならない。この可能性を手がかりに、概念の翻訳がすすみ、科学の受容を実現できたのである。  それにしても、こうして日本語の文脈にとりこまれ、転釈されてきた科学は、はたしてもとの科学とまったくおなじものでありうるだろうか、科学の生みの親である西欧文化と、後から科学を受容したにとどまる日本文化と、その本来の異質性こそがここで思い起こされる。これら異質文化の間で、科学は少なくとも伝達可能ではあったが、しかし伝達することによって、その内容が変質することはないだろうか。さきに科学・技術は翻訳文化として日本に受容されたといったのも、その裏ではすでに、翻訳という概念の手続きを通すなら、科学も変容されうることを暗示したいからであった。」  西洋科学を受容し、日本語によって理解可能なものに再構成しうる潜在的な能力を、日本の伝統文化の中に秘めていたからこそ、概念の翻訳がすすみ、科学の受容の実現ができたのだとおっしゃっています。  先日、韓国の朴○祥先生(東亜大学教授 経済学博士)はじめ「念仏信行会」(在家仏教青年会)の方々がこられ、その研修会の中で朴先生が通訳をされていたそうです。『願海』同人の八神兄、小林兄などが何げなく日本人として日常使っています言葉で説明されますと、そんな言い方は韓国にないので翻訳できないとおっしゃっておられたと聞いております。  小生はその研修会には参加していませんでしたので、詳細は知りませんが、聞きかじりの部分をお話します。  一つは、韓国には受身の言葉がないということです。  例えば、「至心に廻向したまえり」という意味をそのまま、韓国語には翻訳できないのだそうです。日本人は日常でもよく受身の言葉を使用します。  また、自然に対する感じ方、思いも違うらしく「自然からそのいのちの声を聞く」などと言いましても、理解できないのだそうです。ですから韓国では、一般家庭にも庭がないそうです。家庭といえば家と庭ですのに。伝統文化が異なりますと難しいものですね。  一六、共通の言葉と普遍性  西欧の科学そのものが、思想背景の異なる他民族にも、伝播可能な形態にまで発展していたことが、日本人にも理解しえたのだということを学びたいと思います。  「すでに述べてきたような、日本内部での翻訳の努力だけでなく、すでに西欧科学じたいが、外へ伝えるのに好都合な文化形態に変容されることが必要である。つまり、科学は伝播可能な形をとってはじめて、異質文化圏にも伝えうることになったのにほかならない。  この点、西欧科学そのものが歴史的変貌を遂げ、文化的形態を変えてきたという、その経歴こそが注目されねばならない。近代科学が日本に伝えられたと、一言でよく片付けられる。しかし、これはけっして、近代科学が西欧で生まれたときのそのままの姿で日本に伝えられたことをいうのではない。ガリレイ、デカルト、ニュートンが生きていた時代の科学は、いまだに日本人にとっては理解困難なものである。むろん、その背景にある西欧文化の異質性が、われわれの理解をさまたげるからである。  日本は、ようやく十九世紀になって、西欧科学を本格的に受容しはじめるのだが逆にいえば、十九世紀の西欧科学であればこそ、日本人にもようやく理解しやすいものとなっていたのである。  日本人に伝播可能であった西欧の科学・技術とは、要するに日本人の思考法でも理解しうるところまで、歴史的変貌を遂げた後での科学・技術にほかならなかった。西欧の科学・技術がそこまで受容を遂げてきたのは、いうまでもなく、十八世紀以来の啓蒙時代、産業革命期を経た上で、伝統文化に根ざす思弁的な性格をぬぐい去り、合理的な実用知としての形式的整備を整えていたということなのである。たとえば、ニュートンの書きのこした著作を理解するのに、ぜひ要請されるような、古代・中世の伝統的な西欧文化――キリスト教の理念とか、ギリシャ的思弁とか――への理解は、直接にはもはや必要ではなくなっている。日本が受容しえた科学・技術は、それを発生させた文化基盤の異質性にはかかわりなく、実際に運用してゆけばしだいに習熟しうるような知識や方法にまで、すでに整備されていたものである。  さらに重要なのは、それぞれがある制約された形態をとりながらも、どのように普遍化をめざしてすすんでいるかを、克明に確認することであろう。西欧は西欧なりに、また日本の科学・技術は日本なりに、それぞれの伝統文化に照応しながら、いかなる普遍化への道をたどっているか、その点を究明することこそ必要である」。 と辻先生は述べられています。では、その文明開化期(一八六八年)頃のヨーロッパで、思想・科学・技術の分野で、どのようなものが発表されているかをここでご紹介します。  マルクス『資本論』(独・一八六七)、ダーウィン『種の起源』(英・一八五九)、マクスウェル『電磁気学概論』(英・一八六一)、ノーベル『ダイナマイト発明』(スウェーデン・一八六四)、シーメンス『自励発電機の発明』(独・一八六七)などがあります。一八六九年にはスエズ運河も完成しています。  先生が言われますように、この頃になりますと、すでにキリストの理念などは廃除されていることがよくわかります。  文明開化期に苦労して翻訳されたことも忘れ、最近では、外来語をその発音をカタカナで安易に表現しています。このことは日本人が英語に慣れてきた一面を物語っているのかもしれませんが。一般の人々には科学・技術用語が非常に理解し難いものとなっているのではないでしょうか。  一七、仏教の歴史  文明開化期から先人達のご苦労を通して、どのように科学・技術が伝えられ発展してきたかを、辻先生のご書物によりながら考えてまいりました。ところが原稿を書いておりましたとき、ふと、じゃ仏教はどうだったのだろうかという思いが湧き上って来たのです。  そこで、科学技術のことはしばらくの間お休みをいただいて、仏教の歴史について書かせていただきます。  読者の皆さま方の中にはご専門の方も大ぜいおられて、いまさら何をと思われるかも知れませんが、小生の頭の整理のため、お付き合い下さい。  今月はざっと中国の善導大師のあたまりでを年表として載せさせていただきます。  BC五世紀頃 お釈迦様がお生まれになっています。  BC三世紀頃 アショカ王即位。このころ第三結集が行われる。  BC二世紀頃 原始仏教聖典が成立しています。  BC一世紀頃 それまでの小乗仏教に対して大乗仏教運動が起こる。  AD一世紀頃 初期大乗経典の成立  AD二世紀頃 龍樹『十住毘婆沙論』を著す。同じ頃、支婁迦讖『般舟三昧経』を訳す。        驚くべきことで大乗経典成立から一〇〇年ぐらいで漢訳されていること        になります。 AD三世紀頃 中期大乗経典が成立、康僧鎧『大無量寿経』を訳す。今日、真宗でいた        だいている訳本です。  AD四世紀頃 天親菩薩『浄土論』を著す。龍樹菩薩から約二〇〇年経たことになりま        す。  AD四〇一年 鳩摩羅什『阿弥陀経』『十住毘婆沙論』を訳す。『小経』の方が『大経』        より訳が新しいのです。  AD四二四年 彊良耶舎『観無量寿経』を訳す。この『観無量寿経』は未だ原典が見つ        かっていないそうです。  AD五世紀末 曇鸞大師『浄土論註』を著す。六世紀に入ってからかも知れません。      天親菩薩から一世紀半ぐらい後です。  AD六世紀頃 中国では慧遠、天台智○が活躍、この頃日本に仏教伝来。  AD六〇九年 道綽禅師『安楽集』を著す。  AD七世紀中 善導大師『観経疏』を著す。同じ頃、玄奘、長安にインド求法の旅行か        ら帰る。  東本願寺出版部発行『大乗の仏道』より、抜粋いたしました。善導大師から親鸞聖人までおよそ五百年、親鸞聖人から現在まで約八百年経たことになります。  一八、大乗仏教の勃興  仏教の歴史を素人は素人なりに、多くの先生方のご意見によりながら尋ね歩きたいと、自己の能力もわきまえず思い立った次第です。つぎに大乗仏教の芽生え、起源についてお話ししたいと存じます。  「阿毘達麿(法の研究)仏教が隆盛をきわめていくなかで、仏教は極度に学問化し、あたかも仏教スコラ哲学ともいうべき様相を呈するにいたったが、もとより仏教がそのような状況に停滞してしまうことはなかった。やがて、マウリア王朝によるインド統一が実現し、紀元前二五九年のことと推定されるアショカ王の仏教帰依と、王による仏教中心の政治が機縁となって、仏教は民衆の生活に浸透し、その結果、在家仏教が急速に発展していった。すなわち、釈尊ゆかりの巡礼地や仏舎利の伝播した土地などに、仏塔を中心とする聖なる場所が設けられるようになり、アショカ王を頂点とする在家信者たちの宗教心が、単なる帰依者、供養者にとどまらず、伝道に参加することを求めるようになったと考えられる。加えて、出家者の間にも、阿毘達磨に終始するあり方にあきたらず、在家信者とともに伝道生活に従事することによって、そこに新しい仏教の可能性を見出そうとするものが出てきたということも容易に想像されるのである。  アショカ王ののち、紀元前二世紀に入るとマウリア王朝は急速に衰退していった。そのころから、西北インドには、かつてのアレキサンダー大王のインド遠征の足跡もあって、異民族、とくにギリシャ人が侵入し、その後、長らくその地方を支配するようになった。そこでは必然的にギリシャ文化とインド文化との交流が盛んとなり、仏教もギリシャ文化の影響を受ける一方、仏教徒となるギリシャ人も多くなっていった。  また、クシャーナ王朝のカニシカ王のころになって盛んになったと推定される。ガンダーラ地方に出現したギリシャ風仏教美術などもある。なお、仏陀がはじめて仏像として彫刻されるようになったのは、このギリシャ文化の影響によるといわれており、ギリシャのアポロン神彫刻の表現技法をもって仏像がきざまれたことから、このガンダーラの仏像はアポロン仏ともよばれている。  このように仏教は、ギリシャ文化との活発な交流と、阿毘達磨仏教に甘んじることのなかった仏教内部の新しい動きとあいまって世界宗教として飛躍すべく胎動していた。このようにして、インドが世界の諸文化交流の中心となったクシャーナ王朝の時代にいたって、仏教もまた、世界宗教としての性格をそなえてきたのである。そして、サンスクリットが聖典語となることによって、巨大な構造の神話と無限の思索力とによって著わされた初期の大乗経典が、経典文学として文化史上にあらわれてくることとなるのである。」(『大乗の仏道』より抜粋)  大乗仏教の興隆の大きな要因として、他民族、他文化との出会いがあげられると思います。その理由を言いあてることはできませんが、歴史が物語っているように思います。単一の民族では、閉鎖的になりがちなのではないでしょうか。科学技術の分野でも今日、創造性が要求されていますが、日本の大学や各種の研究機関に外国の方々を受け入れているでしょうか。確かに、大学院の学生などには、外国人も多くなってきていますが、主なる研究員はほとんど日本人のみで固めています。真に他文化との交流がないことが、創造性に欠ける一因となっているのではないでしょうか。  一九、仏像の意味  いままでは、大乗仏教の芽生えについて『大乗の仏道』より抜粋させていただき、他文化との出会いの大切さについて述べました。その抜粋文から、在家仏教が盛んになってまいりますと、仏舎利をおさめた仏塔の信仰や、アポロン仏のような仏像を崇拝する傾向が伺えます。仏像も当初は釈迦像のみであったようですが、大乗仏教が発展してまいりますと釈迦以前の仏教、すなわち釈迦をして釈迦たらしめている真実性が重要な問題となります。したがって、仏像も、阿弥陀仏や大日如来など大乗経典に出てまいります仏の像が、多く見られるようになったそうです。このように大乗仏教の萌芽とともに、形あるものを通した仏教への帰依が盛んになります。釈尊という地上の仏が、涅槃に入られた後、何百年も経過しますと、当然そのような現象が生まれてくるのでしょう。凡夫が仏教の対象となりますと、このように形に現わすことが必要になります。仏典では、これらのことを荘厳として語られています。上記の文献によりますと、大乗仏教では  「釈尊をして仏陀たらしめているその教法の真実・法性が法身であり、その法身が一切の人びとの上に慈悲として具現したものが色身であるとされており、曇鸞はこれを法性法身と方便法身とよんでいる。」 と述べられています。  この方便の意味ですが「相伝義書」の第六巻『愚禿鈔私考』によりますと  「方便の外に真実もなく、真実の外に方便はなきなり。故に『正直を方と曰う』といえり。『正直』というは、少しもゆがみまがらず、すなおなるを正直という。衆生万差の機に随して、少しもゆがめずまげず、何れの機にも相応するをいうなり。少しにても仏の方に、わたくしがたたば、正直とはいわぬ。衆生万差の機の通りにあらわしたもうを『正直』といい、『方』という。  『外己を便と曰う』とは、己を外にするというは、少しにても仏の自己あらば己を外にすると云うものにあらず、我本意とすべき処を隠して、衆機にかなう処が『外己』なり。これを『便』という。しかればいずれかこの方便を離れたることはなきなり。故に真実の真実たるは、方便にあらずばいたられぬなり。  この方便より伝うて真実に入る、真実に入り畢ぬればその方便を全して即真実なり。」  また、真実については、 「阿弥陀の御心より外に真実と名づくるものなし。仏願心の真実なり。」 といわれています。すなわち、方便とは如来からのお言葉であり、衆生を真実に引入させんがための如来の慈悲表現、働きであると受け取ることができます。したがって、仏像が誕生してまいりますのも、如来方便の働きといえるのではないでしょうか。  科学技術は今日まで、形あるものの法則といいますか自然の法則を探求し(真理の探求)その法則を技術的に活用することにより、発展してまいりました。  斎藤先生は、はたして形あるもののみを追求していってよいものか、と云う疑問を提出するために仏教を問題にされているのではないでしょうか。最先端の物理学である素粒子の話を我々にされるのも、そのような観点からだと推察できます。  このことは短に、科学・技術だけの問題でなく、宗教においても大乗仏教が語る、真実と方便の関わりを現代において再吟味せねばなりません。  二〇、大乗と小乗  大乗仏教の勃興に際し、形あるものを通して仏教へ帰依する傾向が生まれて来た様子を紹介するとともに、方便と真実について「相伝義書」から学びました。それでは小乗と大乗と呼ばれるところの根本的な差異はなんでしょうか。その精神の違いについて学びたいと思います。  「その大乗仏教をして大乗仏教たらしめている最も根源的な精神はなにであったろうか。のちに、従来の仏教を『小乗』とよび、みずからを『大乗』と称するようになる大乗教徒は、どうゆう意味で『大乗』と称したのであろうか。もとより、大乗仏教と部派仏教との教理的相違は少なくないが、それまでの仏教を批判的に小乗とよぶ根本的な理由は、菩薩精神における自利と利他の問題にあったというべきであろう。大乗は、『他を救うことがみずからの救いとなる』という、自利利他円満の精神を基本としており、それが最も根源的な小乗との相違であるとともに『大乗』と称した理由でもある。」 と述べられています。また、  「仏伝によると、釈尊は六年間の苦行をすてて、ブッダガヤーにおいて正覚を成就したのであるが、その四週間におよぶ禅定三昧ののち、説法不可能の絶望に陥った。しかし、娑婆世界の主である梵天の再三再四の勧請によって、説法を開始することを決意されたといわれている。この四週間の三昧と梵天の勧請という仏伝の事跡が、重大な意味をもっている。それは梵天の説法勧請という神話的表現をとおして、一切の人々に対して釈尊みずからの正覚の意味を説き明かさねばならないとする意志と、その説法勧請が、一切の人々の願いであるということを、表明しようとしたものであるからである。娑婆世界の主である梵天とは、まさしく一切の人々の代表、すなわち全人類の代表であり、その代表者によって説法勧請がなされたということは、一切の人々が説法を求め願っているということの表明であり、いいかえれば『全人類が救済されなければならない』という要請であった。そして釈尊の胸のなかに起こった説法不可能という絶望には、正覚の真実を説き明かすことへの本質的な困難さが表現されているとともに、正覚の真実を求めつつ、それに背をむける人間の現実が表明されているといえる。  そのことはまた、『無量寿経』に説かれるごとく、『為衆開法蔵 廣施功徳寶』という開かれた世界宗教としての意志を表示したものといえよう。」(『大乗の仏道』) と述べられています。  このように大乗が求めたのは、自覚の仏道にとどまらない覚他の仏道の実現であったといえます。この自覚覚他の仏道が、浄土教に至っては往相廻向、還相廻向へと展開されるのであります。  松本梶丸兄のお寺(本誓寺)にお伺いしたとき、蓮如上人以前に用いられていたご本尊(光明本尊と呼ばれているもの)を見せていただきました。以前に、五箇寺の慧光寺様でも同じようなご本尊を見せてもらったことを記憶していますが。  それは中央に九字名号、右に十字名号、左に六字名号があり、その名号の間に釈迦、弥陀二尊の絵像が描かれております。その上、両わきの名号の上には後光とともに印度、中夏、和朝の祖師の絵像が配置されているものです。  これは大乗仏教の菩薩道精神の働き、行として、地上の事実としてご本尊に表現されたものと受け取ることは出来ないでしょうか。現在では、聖徳太子とともに七高僧の絵像は、余間に安置されていますが。  二一、仏教伝来の道  さて、大乗仏教と呼ばれるところの大乗の根本精神について述べました。ここからは、その大乗仏教がどのように中国、韓国を通して日本まで伝わってきたか、田村圓澄先生の『仏教伝来と古代日本』(講談社学術文庫)によりながら学んでゆきたいと思っております。まず、先生は仏教伝来の道は、つぎのような方向をもって伝来してきたと仰っています。  「『仏教伝来の道』という場合の仏教とは何か、それは仏像と経典と、修行者つまり僧侶の三つが具体的な内容ではないかと思います。私は仏教伝来の道は、ある方向をとっているように思うのです。 第一は、仏教が伝わる方向というのは、ひとの住んでいるところに伝わっていったということです。  第二は、その仏教は国境を越え、それから民族を超越して、山を、川を、あるいは海を渡って伝わっていった、つまり超民族的、超国家的なひろがりをもっていた事実です。  第三に、仏教の伝わった道は、仏教伝来以前に道があって、仏教は既存の道を利用して伝わったということです。その道は商業・交易の道であり、あるいは軍事・政治・外交の道であり、人が往来している道であります。  第四として大事なことは、古代の仏教はつねにその国、都を目指して、伝わっていったということです。当時の国の都、つまり政治の中枢、すなわち王権を目指して仏教が伝えられていったという事実を指すのです。』 このように仏教は、当時の国の都を目指して伝来したことになります。当時の政治の中心である都、すなわち王権を目指して何故仏教が伝わってきたのかと、いう疑問が涌いてきますが、先生も疑問に思うと仰っています。先生は  「仏教は直接、一般の民衆の布教を目指してきたというわけにはいかないということです。一般民衆に呼びかけるかたちで、仏教が伝わったというのではなくて、その当時の皇帝、あるいは国王なりの王権を目指しているのですから、そこに、おのずから当時の仏教の性格、もっといえば、民衆というものが除外されたかたちの仏教の性格を考えなければならないように思います。  元来、仏教といえば出家、つまり世間をでることが前提になっています。出家というのは出世間、すなわち世間を捨てることです。世間を捨てるのですから、当然そういう政治権力というものからは、なるべく遠ざかるというのが仏教のたてまえであるように思いがちですが、そういう出世間の仏教が政治権力のほうを目指して伝わっていったという皮肉な事実が、ここで知られると思います。」 と述べられ、また  「仏教伝来の道というのは仏・法・僧だけではありません。仏・法・僧もその一部であるところの文化製作者集団がパミールを越え、砂漠を渡って中国大陸に来たのであり、さらに朝鮮半島、それから日本に来たというように考えるべきだと思います。仏教は宗教ではありますが、実際にこの地上に根をおろした仏教は、宗教というよりも高度の総合文化でした。仏教の伝来と受容には、文化製作者集団というグループの存在を考えねばならないと思うのです。だから仏教の伝来というのは、たんに僧侶だけがきたのではなくて、いま申したようなさまざまな文化製作者集団がきたことを意味します。」 と言われています。足利先生がご存命中、仏教は多くの文化も同時にもたらしたとよく言われていたことを思いだしています。  日本の企業はオイルショックや円高の苦境を乗り越え、徐々に高景気となってきたことが学生の求人活動の活発化となっています。日本が生き抜いていくためには、技術者集団が是非とも必要だと言う認識は、どの企業も一致しているようです。ところで、私自身、以前に比べて二倍の円高を克服した企業、およびその社員たちに敬意を表するとともに、驚きでいっぱいです。この克服の理由として考えられますことは、企業の合理化努力はもちろんのことですが、未だ終身雇用制度と社員の強い愛社精神とが残っていることが、一つの大きな理由だと思っています。仏教の念仏精神と言えるかもしれません。  さて、仏教の伝来について考えておりますが、仏教は都会、王権を目指して伝来した歴史がある。また、単に仏教の教えばかりでなく、仏教美術や建築などとともに、それらに携わった芸術家集団など、総合仏教文化として伝わったことを学びました。そして、その伝来の道は商業・交易の道であり、政治・外交の道であったことです。このことは単に、当然、仏教ばかりでなく、一般の文化および科学・技術においても同様であります。それは、すべての文化、文明は人類の生活と深く関わっているからです。そうでないと生きた文化とはいえません。ただ、そのとき伝来した文化は、受け入れ側の国に既に存在している文化の影響を必ず受けます。また、たとえ当初、王権が強制的に導入したものであっても、ときが経ちますと自国の文化として民衆のなかで消化されていくようです。  「中国には、諸子百家といわれるように、多様な思想、高い芸術が古くから栄えていた。そのような固有の文化のなかに仏教が新たに伝来したのであるから、当然、さまざまな面で融合や反発を繰り返さざるをえなかった。そして、儒教や道教と共存して、互いに影響しあうなかで、仏教の本質をより明確に表現する必要から、多くの点で独特の展開をすることとなったのである。仏教が伝来し定着するのには、多くの外来僧による直接の教化があったことはいうまでもないが、それにもまして、仏典の漢訳に負うところが大きかった。長い歳月をかけて、実に膨大な量にのぼる仏典が翻訳されており、人々はそれらの漢訳の仏典にもとづいて思索や実践を重ねてきたのであった。インドでは、教義や思想の発展段階に応じて、それぞれの必然性のもとに仏典が成立したと考えられる。しかし、中国への仏典の流入は、必ずしも系統的ではなく、訳経僧たちの一方的な活躍に依存しなければならなかったので、教説の受容に混乱が生じることは避けられなかった。したがって、そうした混乱のなかで仏典の研究が進められ、解釈が深められていった。中国の仏教は、このような諸条件のもとにありながら、求道心の篤い多くの漢人僧の手によって育てられてきた。」(『大乗の仏道より』)  二二、仏典の漢訳  仏典が翻訳される重要性と中国の仏教導入の特徴について述べましたが、もう少し詳しく翻訳されていった時代経過を説明したいと思います。  「後漢(二五〜二二〇年)の末ごろから、西域僧が相次いで来朝して仏典を伝訳したが、その最初が安世高であり、ついで支婁迦讖であった。安世高は、安息国の太子として生まれたが、出家して修道を志し、仏教の教義理論である阿毘達麿と、三昧実践を説く教典に精通したと言われている。後漢の建和二年(一四八)ごろ洛陽にきて 『安般守意経』など三十余部の経典を漢訳した。これらはいずれも、その出身地に栄えた小乗系の阿毘達麿や禅定に関する経典であり、阿含系統の経典であった。  ややおくれて、大月氏国出身の支婁迦讖が洛陽に来て『道行般若経』、『首楞厳経』、『般舟三昧経』などの大乗経典を漢訳した。『道行般若経』は『空の思想』を伝えた最初の経典であって、老荘の『無の思想』と関連しながら発展する中国の般若学の基礎となった。また、『般舟三昧経』は阿弥陀仏を観想することを説いた経典で、はじめて浄土思想が伝えられたことになり、中国におけるその展開に大きな影響をもつこととなった。  このように、中国の仏教は、最も原始的な教説を伝える初期の経典と、これを大きく発展させた大乗経典とを、ともに等しく仏説として同時に受け入れることとなったので、その混乱を解決する必要がはじめから課せられていたのである。  安世高と支婁迦讖に続いて、インド・西域から、僧たちがつぎつぎと来朝して訳経に携わり、また漢人のなかにも仏典の漢訳に参加する者が出るようになって、仏教は次第に中国の思想界とのかかわりを深めていった。三世紀になると、長い安定を誇った後漢の政治力も弱まり、群雄がならび起こって、いわゆる三国時代がはじまった。これを契機として、文化・思想・宗教などにも大きな変革が起こり、それに応じて、仏教もますます活況を示すようになった。  華北において、洛陽を都として建国した魏の国では、康居から来た康僧鎧が訳経に活躍した。浄土教の正依の経典として重んじられている『無量寿経』も、このとき康僧鎧が漢訳したと伝えられているが、その史実については古来議論が重ねられている。  同じ頃、外来僧ばかりでなく、漢人僧の活躍が始まり、朱子行が漢人としてはじめて授戒の作法によって出家し、最初の講経者となって、もっぱら『道行般若経』を講じたと伝えられている。しかし、しばしば意味の明らかでない箇所に出会ったので甘露五年(二六〇)、経の原典を求めて西域への旅に出た。干○にいたった朱子行は、ようやく『般若経』の原典を得て、これを使者に託して洛陽に送らせた。この経はのちに干○から来た無羅叉によって西晋の元康元年(二九一)に『放光般若経』として漢訳されている。朱子行は故国に帰ることなく没したが、これが西域への求法の先駆けとなり、それ以後、中国から西域・インドへ法を求めて旅立つ者が相次いだ。なかでも、東の法顕、唐の玄奘などが有名である。」(『大乗の仏道』より)  西域といいますと詳しいことは存じませんが、天山山脈の麓から東方、有名なタクラマカン砂漠のあたりをさすのでしょうか。あるいは現在のアフガニスタン北方、カスピ海近辺までを含めるのでしょうか。それにしましても、安息国や大月氏国などはカスピ海よりです。娘の世界地図を見ますと直線距離にしまして中国よりおよそ五千キロメートル以上あります。想像以上に、当時の文化交流の盛んであったことや、これらの漢訳僧たちの熱意、意欲の深さが伝わってまいります。  二三、中国仏教の興隆  後漢の頃の中国における仏教経典の翻訳事情とその後の簡単な流れについて述べさせていただきましたが、つぎに後秦の時代に活躍された鳩摩羅什についてお話したいと思います。  「外来僧の活躍と、仏典の翻訳によって、仏教が中国の社会に受け入れられ、定着のきざしを見せ始めたころ、中国にいたり、中国仏教の発展に大きく寄与したのが、鳩摩羅什(三五〇―四〇九)であった。  大乗の論師としての鳩摩羅什の名声は、やがて長安にも達した。当時、長安を支配していた前秦王の苻堅は、国師と仰ぐ道安が鳩摩羅什の招聘を熱心に願っていたことと、国策上の必要から、鳩摩羅什を迎えるために、将軍の呂光に大軍を与えて亀茲国に遠征させた。亀茲国を攻略した呂光は、鳩摩羅什をともなって帰国の途についたが、長安では革命が起こって前秦が滅亡したので、途中の姑臧にとどまって後涼国を建てた。そのため鳩摩羅什はここに抑留されることになった。しかし、長安ではやがて姚萇が後秦国を建て、その子の姚興が後涼国を討伐したため、鳩摩羅什は長安に迎えられることとなった。このとき鳩摩羅什は五十二歳で、故国を離れてから十数年を経ていた。鳩摩羅什は『般若経』、『維摩経』、『法華経』、『阿弥陀経』など、主要な大乗経典を翻訳したほか、『中論』、『十二門論』『百論』、『大智度論』、『十住毘婆沙論』など、龍樹の中観系の論書をはじめて中国に紹介し、中国における仏教研究に明確な指針を与えた。なかでも『般若経』については、小品系と大品系の両経をそれぞれに翻訳しており、後漢の支婁迦讖、西晋の無羅叉、同じく西晋の竺法護などによる翻訳では探りえなかった般若思想の深さと大きさを伝えた。また、『維摩経』も、般若の空の思想を劇的な構想によって表現する経典として呉の支謙の漢訳以来親しまれていたが、鳩摩羅什の重訳によって、その空の思想が一層鮮明となり、中国における大乗般若学の形成に重大な影響を与えた。  とくに『大智度論』を翻訳したことは、これがインドにおける代表的な大乗思想家である龍樹による本格的な『般若経』の注釈であったために、中国における『般若経』の解釈に決定的な影響をおよぼした。これによって、『般若経』と『維摩経』、『法華経』などとの思想的な関連が明らかになり、もはや老荘の無の思想をもって仏教の空の思想を論議することが許されなくなった。また、『法華経』も、すでに竺法護によって漢訳されていたが、鳩摩羅什の重訳によって改めて一乗の教えが明確となり、この経の研究がにわかに進展した。このことによって、『法華経』が、その後の仏教研究の主流を占めるにいたったといっても過言ではない」(『大乗の仏道』より)  このように鳩摩羅什は、中国仏教ひいては日本仏教におおきな影響をおよぼした人です。私もお布施をいただくためによく『阿弥陀経』を読誦します。しかし、今まで翻訳者のことなど考えたこともありませんでしたが、歴史を振り返ってみますと、翻訳者のご苦労がひしひしと感じられます。と同時に、翻訳者の仏教における位置も再考しなければなりません。  田村先生によって、仏教は王権を目指して伝来したことを学びました。しかし、同時に仏教は権力によって多くの迫害も受け、経典、論釈も何度か焼かれたことでしょう。現在、印刷物やコピーが世に溢れた生活をしている我々は、このようなご苦労をなんとも思わなくなっています。  二四、東西文化の出会い  最近のテレビ報道や新聞紙上は、幼女誘拐殺人事件やボイジャー2号の海王星探索の記事など、身近な事件から遠い宇宙の話まで、情報化社会を裏付ける内容でにぎわっています。二十一世紀まであと十年です。宇宙船地球号、いや日本丸はこの間どのような船旅をしようとしているのでしょうか。目的地もはっきりせず舵もなく、船長も決まらないで、乗船客は事件がおこるたびに一喜一憂しながら船旅を続けるのでしょうか。  文明開花期からどのように科学・技術が受け入れられ発展してきたかを辻哲夫先生の『日本の科学思想――その自立への模索――』によりながら、導入期の翻訳事業の意味と文化的背景を中心に述べ、一方仏教においては、大乗仏教への発展と中国への伝播・翻訳過程について、『大乗の仏道』を拠り所に学んでまいりました。日本への仏教の伝来については省略させていただきますが、仏教が百済から日本に伝来しますのは、紀元後六世紀になってからであり、それ以後、朝鮮半島および中国との仏教ならびに経済、政治の関わりは切り放すことの出来ないものとなります。大阪に百済という地名があることからも、その交流の深さが偲ばれます。  仏教および科学・技術が日本に伝来し、消化されてきた過程を翻訳という一側面から考えてまいりました。一つの文化、文明が伝わる背景には、翻訳者のご苦労はもちろんのこと、ある程度、その国でそれらが育つためには、異国の良き指導者にも恵まれないと育ちませんし、また受け入れ側の思想的、文化的素地もないと消化することが出来ません。  ただ、静かに考えてみますと日本は科学・技術も仏教も、両者とも受け入れ側であります。そして、それなりに両者とも消化し、発展してきております。東西の恩恵を一番被っている日本が二十一世紀に向かって、世界に対してどれだけの役割を果たすことができるかが今後の問題と思います。  『願海』誌の平成元年七月号において佐藤先生は訪中記のなかで、象形文字と表音文字(アルファベット)文化圏について比較されていますが、その中で  「自然を人間が一まずは切り離して、理論的に解析することが客観的な理解には必要であろう。これは表音文字、アルファベットによる思考である。しかし、一歩進んで、世界あるいは自然の中に生きている人間としては、ある一面の切り口として理解された自然ではなく、自らの存在をも含めた、トータルな存在しか実存していないのである。これはいわば象形文字的な世界をもつことに対応する。(中略)さて、日本をこういった面で把えると、漢字と仮名を混ぜている点では、今後面白い位置にあるといえる。即ち、象形文字の中国とアルファベットの欧米の間にあるのである。ここにも欧米の科学・技術をベースにここまできた日本が、中国の現代化のために協力することのできる重要な可能性が秘められていると思われるのである。」 と述べられています。  また、玉城康四朗先生(東京大学名誉教授)は『仏教の根底にあるもの』(講談社学術文庫)のなかでつぎのように述べられています。  「人類社会の未来図はどのように描かれるであろうか。これはもとより一朝一夕にできることではない。そのためには、東西思想・南北問題の辛抱強い交流がおこなわれねばならない。そして先に論じたごとき、東の主体性と西の対象性について、それは人類の根幹的な二つの態度であることを、相互によく納得し合わなければならない。そして第三の立場への創造に向かって、できるだけ多くの東西の人々が協力し合わなければならない。そこでは、つねに前進していく創造力と、つねに身を省みていく寛容の心が生まれてくるであろう。」  二五、個人と社会  先日、テレビニュースの特集番組で、アジア諸国の森林が沢山消えていく状態と、その影響に関する問題を取り扱っていました。その切り出した木材のほとんどは日本に輸出され、木材および紙の原料として使われているそうです。日本に輸出される一年間の量は三重県の広さの森林を伐採していることになるそうです。バングラディッシュの水害が年々大きくなっているのも、ヒマラヤ地方の森林が減っているためだそうです。また、東南アジア諸国では、森林を伐採したために、いままでの豊かな水田に塩が上がってきて、今では塩田に変化しているところまででてきています。また一方、炭酸ガスやフロンガスによる地球の温室効果(温暖化)の問題点が叫ばれ、異常気象の原因とも考えられています。  ところが、われわれ真宗門徒は、結構な世の中になったものだ、お陰様だ、とよく口にします。その裏には物質的にも豊になり、日常生活が便利になったことがあります。それも結構ですが、前記の現状を考えますとき、非常に個人的なような感がいたします。このように述べています私も、贅沢が身に染み込んでいまして、質素な生活に帰ることも出来ません。とくに大学ではコンピュータ、ワープロやコピー機をよく使用しますが、その紙の使用量たるや、いやになってしまうほどです。皆様方の身の回りでも同じことだと思います。ほとんど見ない新聞広告からダイレクトメールなど、メモ用紙にもならず直ちにゴミ箱行きです。  地球規模の自然の生態系を考えねばなりません。しかし、これら輸出国にしましても、輸入国にしましても、それぞれの経済事情や社会事情がからんでいるのでしょう。したがって、一朝一夕には行かない問題だとはわかっているのですが、我々の孫や子どもたちに、汚れた地球を手渡さなければならないのかと思いますと残念です。  物質文明の豊かさだけを追求していますと、これら森林の問題ばかりでなく、他の資源についても同じ問題を含んでいます。また、大都会の道路事情を考えてみても、必ず破綻を来すことは明らかです。  これらの問題を考えていますときにふと善導大師の「二河譬」のみ言葉を思いだしましたので記してみます。  「又一切の往生人等に白さく、今更に行者の為に、一つの譬喩を説きて信心を守護し、もって外邪異見之難を防がん。(中略)  即ち自ら念言すらく、『此の河は南北に邊畔を見ず、中間に一つの白道を見る、極めて是れ狭少なり。二つの岸相去ること近しと雖も、何に由りてか行く可き。今日定んで死せんこと疑わず。正しく到り回らんと欲すれば、群賊・悪獣漸漸に来たり○む。正しく南北に避け走らんと欲すれば、悪獣・毒蟲競ひ来たりて我に向かふ。正しく道を尋ねて去かんと欲すれば、復恐らくは此の水火の二河に堕せん』と。時に當りて惶怖すること復言ふ可からず。即ち自ら思念すらく、『我今回らば亦死せん、住まらば亦死せん、去かば亦死せん。一種として死を免れざれば、我寧ろ此の道を尋ねて、前に向こうて去かん。既にこの道有り、必ず度る應可し』と。此の念を作す時、東岸に忽ち人の勧むる聲を聞く、『仁者但決定して此の道を尋ねて行け、必ず死の難無けん、若し住まらば即ち死せん』と。又西岸の上に人有りて喚うて言く、『汝一心正念にして直ちに来たれ、我能く汝を護らん、衆て水火之難に堕することを畏れざれ』と。」  人類は二十一世紀を前にして、この三定死を自覚しているでしょうか。宇宙船地球号は目的(西の人の招喚)も持たず、船長(東の人の発遣)もいないままの旅を続けるのでしょうか。  二六、環境汚染  世界の森林が激減する状況について述べましたが、ときを同じくするように、朝日新聞の十月二十二日朝刊に、炭酸ガスの排出量を制限する記事が載っていました。世界六十七ヶ国の環境担当相らが参加して、十一月六、七の両日、オランダ・ハーグ郊外の保養地ノールドウイックで開く「大気汚染と気候変動に関する閣僚会議」は、地球温暖化の主因となっている先進国の二酸化炭素(CO2 )排出量を抑えるために開かれます。オランダ政府が事務レベルでの調整を行い、そのときに発表する宣言案の要旨が掲載されていましたので紹介しますと、  「先進工業国は、二つの異なる種類の特別な責任を有している。一つは、国内的な行動を率先してとることにより先例を作るべきだ。もう一つは、大気保全がとてつもない重荷になるような国々の行動を支援すべきだ。  温室効果ガスの排出削減の進展は技術的あるいは経済的問題のみに依存しない。人々の姿勢の変革はこれらの問題と同様に重要だ。  ◆エネルギー 先進国が二〇〇〇年を越えない時期に二酸化炭素の排出を現在のレベルに凍結する必要性を認識することに同意し、二〇〇〇年までの二酸化炭素排出量二〇%削減の実現可能性を調査することに同意する。  ◆森林 二〇〇〇年までに森林の減少と荒廃と、森林の健全な管理と造成について地球規模でバランスさせ、二〇〇〇年から最低二十年間は年間千二百万fという割合で森林の量を増加させることを追求することに同意する。  ◆基金 既存機関を強化することと並んで、国際的なファンドのような新たな資金供給のための便宜供与システムの必要性とその適用範囲について検討すべきであう。国際的な資金供給はまず、次のことに向けられことを勧告する。  @開発途上国におけるフロンの段階的な廃止 Aエネルギーの利用効率の向上と再生可能資源の利用の促進 B熱帯林行動計画などの機関を通じた森林管理の改善に対する財政支援の増加 C排出源および気候についての調査研究とモニタリング」  この宣言案に対して、はや経済界や政府には反発があるようです。  「石油、石炭など化石燃料の消費に伴って排出される二酸化炭素の排出量を凍結することは、経済成長に大きな影響がある。とくに日本は二回にわたる石油ショックを切り抜ける中で、先進国の中でももっとも模範的な省エネルギー社会を実現してきただけに、経済界、通産省などには各国一律の削減案には強い抵抗がある。」 とも書かれています。経済の発展ばかりでなく、地球規模の生態系保全に向かって真剣に考えなければならない時期だからこそ、この宣言案が提案されるのです。しかし、一方この宣言案が可決されますと、世界的に反核運動の的になっている、原子力発電所の増加や代替エネルギーの開発が叫ばれる可能性が増します。  紹介しましたテレビ報道でも,確かに日本企業は,アジアの木材輸出国に植林活動を開始しているようですが、それは地球の生態系を守ためではなく、製紙会社などが製紙原料の輸入を危ぶんだところからの発想ですので、現地住民の反発をかっています。これらのことはすべて我々一人一人の心の現れであり、経済的発展のみを要求する根性そのものです。  宣言案にもありますように、我々大衆一人一人の姿勢の変革が重要であります。そのためには、仏教者は『浄土論』の二十九種荘厳をもう一度環境問題、地球の生態系という観点から学び直す必要があるように思えます。  現代技術によって生産された各種の製品は、またたく間に廃棄処分にされることが多くなってまいりました。技術的に省エネルギー対策を行っても、それは微々たるものです。地球のエネルギーを守るためには、製品の廃棄をできるだけ少なくすることが重要です。そのためには、読者のみなさま方が子供さんや孫さん方に「もったいないで」、「贅沢したらあかんで」という言葉で地球エネルギーの節約を伝えてくださるようお願いします。  二七、宗教と科学・技術の出合いを求めて  最後に、宗教と科学・技術の出合いを求めてと題して書かせて頂きます。  斎藤先生は常日頃、エゴテクノロジー(便利さのみや儲けのみを追求する技術)からエコテクノロジー(生態系と調和のとれた技術)へと転換しなければならないとおっしゃっています。これらのお言葉は、技術が現実にエゴテクノロジーとなっていることに対する先生ご自身のいたみから出たものであります。また、このいたみから、先生は、『科学する心』や本書に載せさせていただいた『技術の源泉を問う』など数々の論文を著されたのだと思います。そして、あらゆる生命体が生き延びて行こうとするエネルギー、このエネルギーの根源を斎藤先生はビッグバン立ち会ったいのちのはたらき、意識、志向性といわれ、それは仏教で言うところの阿頼耶識かもしれないと仰っています。  「この阿頼耶識は、実は生物が生物の形をとる前にあった意識かもしれない。この意識は、実は根本的に生物の前から存在し、物理学的自然の成長に立ち会った意識かもしれない。」 というお言葉からもそのことがはっきりと伺えます。  この阿頼耶識を曽我先生は『大無量寿経』の法蔵菩薩(阿弥陀仏の因位)精神であると言われております。  また、親鸞聖人は『教行信証』の証の巻では 「無上涅槃は即ち是れ無為法身なり、無為法身は即ち是れ実相なり、実相は是れ法性なり、法性は即ち是れ真如なり、真如は即ち是れ一如なり。然れば、弥陀如来は、如従り来生して、報、応、化種々の身(形あるもの)を示現したもう」 と言われています。また、『自然法爾抄』では、 「自然というは自はおのづからといふ、行者のはからひにあらずしからしむといふことばなり。然といふは、しからしむといふことは、行者のはからひにあらず、如来のちかいにてあるがゆえに。法爾といふは、如来の御ちかいなるが故にしからしむるを法爾といふ。この法爾は御ちかいなりけるゆえに、すべての行者のはからひなきをもちて、このゆえに他力には義なきを義とすとしるべきなり。自然といふはもとよりしからしむるといふことばなり。弥陀佛の御ちかいの、もとより行者のはからいにあらずして、南無阿弥陀佛とたのませたまひてむかへんとはからはせ給ひたるによりて、行者のよからんともあしからんともおもはぬを、自然とはまをすぞとききてそふらふ。ちかいのよふは無上佛にならしめんとちかふたまへるなり。無上佛と申すは、かたちもなくまします。かたちもましまさぬゆえに自然とはまをすなり。かたちましますとしめすときは無上涅槃とはまをさず。かたちもましまさぬやうをしらせんとて、はじめに弥陀佛とぞききならいてさふらふ。弥陀佛は自然のやうをしらせんりうなり。この道理をこころえつるのちには、この自然のことはつねにさたすべきにはあらざるなり。つねに自然をさたせば、義なきを義とすといふことにはなほ義のあるべし。これは佛智の不思議にてあるなり。」 と申されています。  アルフレッド・ブルーム先生(元ハワイ大学教授 現アメリカ・仏教大学院学監)はこのご文章から親鸞聖人の教学を今日における「存在の生態学」と受け取っておられます。また、「真宗相伝義書」『三識の事』に次のようなお言葉があります。 「祖師の『信心の業識』といえるは、還滅門に約して、他力の妙門によせていえることなり。(中略)仏心真如の本源をたずぬれば、全体不変にして、言説の相を離れ、心縁・名字の相を離れて、畢竟平等にして、変易あることなきなり。しかるに、衆生利益をしめさんがために蠢々の心をいだす。六趣・四生・十二類生を摂して、衆生の妄心、万差に起動するなかに入満して、利生のために可発し起動するところを『業識』とさすなり。今は『真実信の業識』といえり。真実信の言は他力なり」  なぜ、このような文を取り上げたかと申しますと、最先端の科学者である斎藤先生が現代の物理学的見地から、生命体にはたらいている非存在としての意識について述べておられます。一方、親鸞聖人はこのことを本願の理(道理)として説かれているということに頷いて頂きたかったからです。現在、科学者はもちろんのこと医学者や技術者などにとって、いのちあるもの、いのちそのものが問題となりつつあるからです。また、科学(理)と技術(事)の関係が密接ですが、仏教においても事・理・性・相の関係が大切で、深解と深信が具備していないといけないと述べられています。(『願海誌』昭和五十三年四月号)これらの意味からも、現代社会は真の宗教をもとめていますし、宗教は他文化との対話を通した現代語訳が要求されているのです。しかしながら、我々日本人のもっている宗教(仏教)に対するイメージは、依然、葬式仏教や先祖供養あるいは自分の欲望(無病息災、家内安全)をかなえてくれる対象としてしか受け取っていません。  ここに親鸞聖人の悲嘆述懐和讃をひいておきます。    浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし     虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし    五濁増のしるしには、この世の道俗ことごとく、     外儀は仏教のすがたにて、内心外道を帰敬せり。    かなしきかなや道俗の、良時吉日えらばしめ、     天神地祇をあがめつつ、卜占祭祀つとめとす。    かなしきかなやこのごろの、和国の道俗みなともに、     仏教の威儀をもととして、天地の鬼神を尊敬す。 現代のわれわれの姿を映し出して下さっていますし、我々の仏教は外道でないのかと叫ばれています。  技術の源泉を問う           斎藤 進六  一、科学と技術  まず科学技術と一口でいわれるが、これはわが国の歴史的な宿命をある意味では負うている表現である。なぜならば明治の開国以来、すなわち日本がヨーロッパの文明と接触したところの状況に思いをはせてみると、すでにそのころヨーロッパの世界では科学と技術とが手をにぎり、当時の後進国家日本にとっては、あたかもその両者は緊密にお互いを支え合う一枚岩のように見え、しかも富国強兵策を焦眉の急とする明治政府は、技術をとりいれることに急であって、科学をたんに技術を支える学問としてとりいれてきた傾向がある。  その一つのよい例は、工学部が大学のレベルで創設されたのは、わが国が世界でも最も早いとされているが、それは当時のわが国のたいへん意欲的な姿勢を示すと同時に、科学と技術を足して二で割って工学としたような趣を払拭しえない。なぜならば、さらに思いを二、三百年前にはせて、ヨーロッパがひどいペストの流行から立ち上がって、激減した労働人口で社会生活を支えるために、技術を真剣にとりあげだしたところ、さらにそれが進んで力織機やワットの熱機関が発明されたころを考えてみると、工業用の材料の主役は木材で作った水車などから短い真ちゅうの時代を過ぎて、軸馬力が増大するに従って鉄がとりいれられてきた。しかし、そのころの鉄は木炭製鉄であったし、また蒸気機関もそれほど高い温度に耐えうる材料を必要とはしなかった。しかし熱を利用した機械は、ワットの蒸気機関で象徴されるように、1700年代の後半に英国で始まった産業革命をもっとも際だてて他の歴史時代と区別するものである。それまでは木が主要な工業材料をになっていたように、熱を使うということはほとんどなく、そのために産業革命前夜のわれわれの知見は、ごくわずかな流体力学の知識と、歯車、カムなどのメカニズム、機構学の知識しかなかったといってよい。産業革命に立ち向かったとき人間はいろいろな望みを新しい熱機関に託したものの、それはいろいろな科学的な法則性と矛盾して一進一退をくりかえしたに違いない。たとえばニューコメンの蒸気機関はそのままでは膨張行程をとることができなかったために、中に水を吹き込み冷却効果で蒸気圧を急速に低下させた。エネルギーの多くの損失にもかかわらず、そのような妥協点を熱力学との間に認めてゆかなければならなかったし、それを発展させてワットの蒸気機関は、その水吹き込みをコンデンサをもって置き換えた。  そして製鉄は木炭製鉄からコークス炉製鋼に変わり、さらに工業的な温度が上昇を続け、材料は次第に耐熱性を要求されて、まずいろいろな鉄合金が工夫され、さらにコバルトベース、ニッケルベースがあらわれる端緒を作ったにしろ、われわれの今日でいう熱力学もほとんど知らず、またラボアジェーがあらわれるはるか前である時期において、化学の元素すらほとんど知られていなかった。すなわち産業革命を推進したのは技術的なマインドであり、それが思惑通りにならないときに、その思惑を阻む相手として、その阻むものをよく知り研究すること、そこから科学が実は生まれてきたわけである。すなわち技術的な推進力を阻むものとして、科学の法則性があらわれ、その法則性を知ることによって、もっと巧みに法則性を使いこなすという方法論が生まれた。フランシス・ベーコンは、自然はそれに従うことによって使うことができる、というようなことで表現している。そのようにして科学的法則性に突き当たった人間は、そこでまず人間の環境として与えられた科学的法則とはなにか、ということを考えなければならなかった。科学的法則をめざす最も古い考え方は、もちろんギリシャ哲学やいろいろな古代の哲学のなかに濃厚にあらわれている。それが産業革命の機会を迎えて、実験的手段で試行錯誤しながら客観的裏付けを積み上げ、その客観性を抽出してゆくという手法が積み上げられて今日の科学が成立したと考えることは、ごく自然であると思う。  二、科学的法則  では、このようにして人間の社会で進歩したと称せられる科学的法則の本質は何であろうか。実はその法則性そのものは、そこに人間がいようといまいと無関係に成立する法則であって、人間とはまったく隔絶したある存在である。だから科学が進歩したというのは、その存在に対して人間が何物かを付け加え、何物かを減らすことができるというものではなくて、そのような法則性を矛盾なく説明しうる認識の方法が進んだというわけである。  たとえば、天体観測によってケプラー、ニュートンは、今日の万有引力に支配される、いわゆるニュートン力学を作り上げていったし、それが熱輻射等の問題に適用し難くなるに及んでウィーンやプランクなどの法則が次々と検討され、ついに量子力学を組み上げていった。しかしながら、そのもともとはベルリンのガス会社が燃料の消費とガスの明るさの問題についての、ほんとうに工学的なテーマを彼らに提案し、その解を求めたことから始まっている。さらに、その後アインシュタインの相対性論があらわれ、一応われわれが今日使う科学の武器はそろったわけである。  だが、これとてわれわれの力によって作ったものではなく、圧倒的に人間の存在と無関係に存在するそのような法則性を、今日までの人間の観測と推理と論理性の限りをつくして、その解釈を克ち得たものである。  そこで、きわめてここで明らかになることは、技術というのは人間が人間自身の環境を豊富にし改善するために作ってきたものであり、科学はしばしばその思惑に立ちはだかりながら、人間はその拒絶を回避するために、その法則性をしだいに解明したものであって、基本的な立場の差がまずそこにあらわれる。しかも、もう一度ここで言葉を選び、科学といわれるなかに物理化学的な自然法則と、もう一つ生命科学的な生命の在り方が今日までやや混同されて使われていることを、まず顧みてみなければならない。物理化学的な自然というのは、われわれがそれに関与することはまったくできないが、生命科学的な在り方については、生命の流れの一つの極である人間は大いに関与している問題である。この意味でも人間という今までの言葉を生物というふうに置き換えて考えてみれば、生物的自然、いわゆる生命科学のえがく生物的自然と、物理化学のえがく物理化学的自然は、まったく相異なる秩序にあるというふうに考えなくてはならない。  三、生物的自然  では生物的な自然とは何だろうか。永い地球の歴史、永い宇宙の歴史のなかに、いつ生命があらわれたか、これは有機物がしだいに外界との間に界面をもってエネルギー物質を代謝するようになり、生き物の最初の形が作られたという説もあるが、生体の最も基本的なものは、その生体が自分自身を常に自己同定し、常に拡大し、常に環境条件を超えて永遠に生き抜いてゆこうとする存在の方向性にあるといってよい。これは物理化学的自然が、さきほどのいくつかの法則性をないまぜて成立し、あるいはまだ発見されない統一場の原理というようなものがあるかも知れないが、熱力学の第二法則というもっとも素朴な現象から生まれるエントロピー逸散の法則は、圧倒的にいかなる状況にあっても物理化学自然を支配している法則であってそれは自己アイデンティファイを高めてゆくよりも、むしろ失ってゆく傾向にあるもの、すなわち一口にいって、エントロピー的なものであるといってよい。熱力学の法則に従う物理化学的な現象をエントロピーの法則で説明するとするならば、生物学者がよく言うように、生物の特色はネゲントロピー的な志向、これは法則でなくて、そのような志向にあるといってよい。  しかしながら、このような生物は常にエントロピー的に拡散する物理化学的な法則性のもとに、その存在の脅威にさらされているわけで、何者がいつ生命を創り出したか、あるいは非常に緻密なタンパクの組成があって、それが自己同定性をしだいに深めていったにしろ、それは結果的にはある意志的な存在として一貫した自己同定性という方向をもっていることは、生物の大きな特色である。その自己同定性のもっとも単純なあり方というのは、自己が常に分裂して、いつまでたっても自分自身の分身すなわちクローンとしての存在があり続けることであって、これは裏返しから見れば永遠に自己が存在するという志向方向である。しかしながら、このような永遠志向は、その内部の機作から見ればたいへんオプティミスティックなものであって、一つだけの、いわば閉じた系の存在のあり方は、それを一度否定する別の一つの条件が発生するときは全滅してしまうという危険が常につきまとう。とするならば、生体を作り上げ、自己アイデンティファイを志向してくる生命の流れは、そこに環境条件の学習ということに気づかないはずはない。このようにして環境条件を蓄積する方法として生まれたのが、いままで永遠にクローン的に自己分裂していたものから、male と femaleが出来、すなわちオス、メスが出来て、それぞれの後天的環境獲得性質をそれぞれのDNAのなかに刻み込んで、これを染色体を通じて次の時代に伝えてゆこうという試みがおこなわれたと見ることができる。そのために実はDNAの在り方を見ると、A(アデニン)、C(シトシン)、T(チミン)、G(グアミン)というような四つのタンパクから出来ていて、それが二重螺線構造を作るきわめてメカニカルな形状をしている。そして、その長さは、たとえば人間の染色体の一つをとってみても、直径が1ミリに仮定すれば日本の本州を北から南まで貫くほど長い、という驚くべきほどの情報量の蓄積がそこになされている。しかも、そのすべての情報量、すなわち生物が最初の存在から現在の存在に至るまで蓄積したいろいろな学習を、そのなかに全部蓄積してあると同時に、それをそのとき、そのときの環境に合わせて、もっとも適当に発現させ、環境に対して不適当なものは制御してゆく、発現させないというメカニズムをもっていることも、また驚異に値する。われわれはこれを利用してDNAの組替えをやったり、あるいは細胞核融合というような技術を今や駆使し始めたが、生物が原核細胞から真核細胞に発展するまでに、おそらく細胞融合というようなものがあったということは一応考えられる。  四、生物と人間  このように、われわれがいまようやくバイオテクノロジー的に注目しだした生物のメカニズムは、人間がそれに着目し、それを解釈し理解する前から存在したとはいいながら、その存在の在り方は常に自己アイデンティファイを保つがためのメカニズムとして発展し続けてきたものであって、それは人間そのものの存在からいっても、まったく同一線上にする生物の在りようとしか考えられない。このようにして生物は発展してきたが、人間があらわれる前に、地球上に生を受けて、ある種になり、ある族になったものは99%以上も既に死滅して、われわれはわずかに1%以下の生き延びた系譜のなかにいま存在する。  では、どうしてこのような状況が出てきたか。それは進化論でいう進化の道筋にうまく継続的にのったものと、あるごく狭い環境適応性のみが非常に発達したために、その状況が大きく変化したときに、もとの軌道に戻ることの繰り返しの許されない特化の軌道にのってしまったとの差である、というふうに概観できる。  このようにして、生物はやっと人間のところまでたどりついたときに、生物の内部の環境適応性あるいは自己アイデンティファイというものを、もう少し明らかに、今まで内側に積み重ねてきたものを外側に向けてゆくことができるようになってくる。もちろん内側に築いてきたその生物の技術的なメカニズムを、生物が外側にあらわしたものとして、クモが巣を張ったり昆虫が土をまるめて巣を作ったり、あるいは鳥が木の枝や葉をもって巣を作ったりとするようなことも、本能という名でよばれる技術としてわれわれは見ることができる。私がここで改めて科学と技術を考えているのは、実は人間にあらわれた技術も、そのような本能性とまったく相違のない直線上にのっているということを強調したいわけである。たとえば人間は石をとって投げて逃げてゆく小動物をとり、あるいは木の枝をたたいていろいろな果物をとるということから、さらに習熟して、あるときは狩猟民族として生物たちに殺戮を加えて、その毛皮等を剥いて日常生活の内容を豊かにすることに使っていった。これはまさに人間がこのようにして技術的なものとしてあらわれたことを意味する。人間の大脳は他の類人猿には見られない飛躍的な発達があるにしろ、その大脳の飛躍的な発達を踏み台として、今まで生物が内部的に築き上げてきた技術的なものを外側に延長しようとしてきたこと自身は、まさに本能的な自己アイデンティファイと同じものであると考えることができる。  このようにして生物そのものが技術的な存在であるということを理解するならば、今日までわれわれが築き上げてきた文明、それからさらに未来に飛躍してゆく文明が、基本的には技術的なものであるという立場に立って、もう一度見直し、将来を占ってみる必要があるのではないか。  五、エロスと死  たとえば、いま人間を悩ましている「エロスと死」の問題、これも実は生物がクローン的な自己分裂性では生きてゆけないと悟って雌雄が分裂したときに、はじめてあらわれた雌・雄の分化というのは同時に固体の死ということを宿命づけたものであって、そのときからわれわれは、固体が死滅しても、さらに永遠に伝わってゆく何ものかというものと、常に内在的に対面してゆかなければならなかったのである。人間は意識的に考える動物として社会生活をしだいに営むようになるが、そのときに基本的にはクローン的に永遠を望んで発展しようとするものから、雌雄がわかれたときの「エロスと死」がつきまとい、その「エロスと死」が一方においては詩を生み、さらに文学を生み芸術を生んできた一つの原動力となってきた。とするならばエロスを謳歌すると同時に死を悲しむ―それはわれわれが死を選びながら、それによってこそエロス的なものが生き長らえるということを見いだした生命それ自身の流れを、もう一度さかのぼって考えてゆかねばならない。これは現在に通ずる問題であるかも知れない。  それでは生というものは物理化学的な条件が生体的な発生を可能ならしめる条件まで、どこかでひそやかに待っていたのであろうか。あるいは二、〇〇〇年前のハスの花が大賀博士によって発見されて今日もう一度再生したように、どこか生命の種というものが宇宙それ自身にあったのであろうか。このような問題をわれわれはもう一度考えてゆかねばならないだろう。すべての神学はきわめて単純に天と地がわかれ、海と陸がわかれる創生紀に隠り身(かくりみ)の神として立ち合っている。神話はまことに物理化学的自然が生まれる以前の隠り身の存在を仮設することから始まり、物理化学的な自然があらわれ、そのなかから生物があらわれることに立ち合うものとしての存在を仮設している。われわれはこの存在を神といったり愛といったりするが、私は実は愛とか神とかいう、たいへん使い古されてきた言葉でこのような存在を云々することは少しも考えていない。それは数学の法則を厳密に誰もが客観的に認識しうる言葉を選びながら、論理を選びながら、その存在を証明してゆくように証明すべきものであると思う。  ここに述べたことは、その一つの試みである。決してそれ自身が満足なものとは考えていないが、おそらくビグバーンというものを仮設して宇宙論が成立するのと同じく、ビグバーンそれ自身に立ち会うものとしての生命(いのち)を仮設することも決して異様な仮説であるとは思えない。これから人間生活も実はどんどんと変わってゆくであろうと思う。たとえば武力を中心とする大きな集まりから原始的な家族が生まれ、大家族が成立し、しだいに分家、本家、親戚が出来、それがまた崩壊し、崩壊を通じて今や核家族となっているが、核家族そのものが核でとどまるかどうか。すでに物理の世界では核分裂がある。これは分裂するかも知れない。また核融合するかも知れない。そのとき、われわれは分裂した家族を異端として見るのか、異端ではなく、次の世紀の条件のなかでは分裂するものとして当然に迎えてゆくのか、これは次の世紀の人間のあり方の基本的な問題である。  六、意識と志向  なぜ家族がここまで同一の生活を送ってくる必然性があり、今後その必然性がなくなるかというのは、実は社会職能の文化の問題と非常に関係している。社会自身の現象を見ても、数十名程度の放浪狩猟集団であるバンド社会から出発し、農耕民族に変身し、農業社会が工業社会に変身して一次産業、二次産業が経済の中核となる。そのうちに今や一次産業、二次産業の人口吸収率が非常に減って、第三次産業的な業種が圧倒的に多くなってゆく。これは今われわれが想像しているよりも早く21世紀の状況となるであろう。このようになったときに、その社会を制約するところの生活の倫理はまったく違ってくる。しかしながら倫理を規制するものは実は論理である。論理はそのときそのときの社会の在り方を先導的にとらえて合理化する作用であり、基本的には人間といわれる生物が技術的に生きのび、そして自己自身を拡大してきたこの秩序を、いったん生物の外に持ち出したときに、社会秩序としてどのように再構成してゆくのかにかかっている。それ故、私は、そのときそのときの影響を受ける倫理という言葉を使わず、それに代わって人間があるいは生物そのものが自己同定し自己拡大し、そして生きつないでゆくために、われわれに与えられた論理性そのものを、もっと裸の姿で見つめてゆきたいと思う。そして、その論理的な機作を取り出すために生物はいろいろな感覚機能をもってきた。人間も五感をもち、その五感の中枢として、論理中枢である意識をもつ。唯識論のなかで、意識を超えたものとして未那識(まなしき)や阿頼耶識(あらやしき)というものが、すでに印度の古い教典あたりで述べられているが、この未那識、阿頼耶識などは、実は生物が生物の形をとる前にあった意識かも知れない。この意識は実は根本的に生物の前から存在し、物理化学的自然の成立に立ち会った意識かも知れない。眼蔵でいう「父母未生以前の我」かも知れない。  ひるがえって、古来、宗教はこのような意識に「神」をたてたがる。そして、その現われ方として「愛」という言葉を使いたがる。しかし、すでに述べた理由で私は神と愛を排除し、たんに「意識」といい「志向」という。なぜなら、現象を記述するに適している人間の言葉というものは、この現象以前のものに適切な表現を持たないからである。  たとえば神という言葉を用いれば、さまざまの宗教的イリュージョンによって視覚化され、ときに個性化された神がそこに画かれ、その映像は人さまざまに分化してくる。決して根源をさすことはできない。しかも、このような神は時空を越えて現われるが、不思議なことに時間は停止し、決して「意識」の根源的性質である能動性をあらわすことはない。  私は「停止した時間」という奇妙な言葉を使ったが、一般に神と称するものの存在を、それぞれの読者なりに想い浮かべていただければ、私の意味することはわかっていただけると思う。常にわれわれの内にあって、能動的に働きかけてくるものと、このように個性化された神とは、いかに距たっているかがわかるだろう。  おわりに  寺の一人息子として生まれながら理科系を志望し、工学部に進学いたしました。父の兄弟たちからも、寺の子だというのにと、大変な反発がありましたが、好きな道を歩めといってくれた父の応援によって何とかその場はおさまりました。理科系に進むようになった最初のご縁は、小学校五・六年の担任であった杉本先生に出会ったからだと思います。先生に担任を受け持っていただいてから、算数や理科が好きになり、とくに算数の応用問題などを解くときは、夢中になってやっていたような気がします。幼いころの、良き先生との出会いは、一生の道を決める大きな要因になるものですね。  工学部へ進んでからは〈宗教と科学のかかわり〉ということが、なんとなく私自身の問題となりました。寺に生まれた、ということが心のどこかでひっかかっていたのかもしれません。しかし、報恩講やその他の法要のとき、法話を何度となく聴聞いたしましたが、高度成長時代の影響か、科学・技術の進歩を否定される話が多かったものですから、余計にそのことが脳裏を離れなかったのだと思います。大学院にすすみ、二回生になりますと、すぐに、就職の問題にぶちあたりました。就職主任のせんせいから、日本電気へ受験するよう進めて下さったのですが、就職先が東京方面になりますので、ますます、寺から遠ざかることになってしまいます。すでに、高校二年生のとき、父は小学校の教員を定年退職いたしておりましたし、非常に悩みました。しかし、そのときも、父は「わしの元気な内はおまえの好きなようにしなさい」と励ましてくれましたので、決断することができ、日本電気にお世話になることになりました。  『願海』誌(昭和五一年二月号〜五二年二月号)で、一度対談をお願いいたしました小関彦郎氏は、そのときの直属の上司であります。小関さんからは、常にシステム感覚を養えと言われ、仕事の進め方、ものの考え方などシステム的に(系統だった、組織だった考え方)対処するようにと教えていただきました。  入社してまだわずか三年にも満たない、昭和四六年の一月、父が倒れました。大阪の成人病センターで診察をしていただいたら、リンパ腺肉腫と診断され、長くて一年半という話でした。すでに結婚もしておりましたが、母からのその報告の電話があったとき、驚きとともに、父も私を東京へ出したことで寂しい思いをしていたのではないか、好きな道を進めとは言ってくれたけれど、ひょっとしたら、私がもう大阪へ帰らないのではと、そのように心配していたかも知れないと、何とも言えない感情がこみあげてまいりました。妻とも相談し、大阪へ帰ろうという決心がつきました。  手がけていた仕事が無事終了するころ、丁度その年の九月末日で日本電気を退社し、母校の山下一美先生のお世話で、現在の関西大学に就職させていただきました。  教師の資格(住職になれる資格)も当然取っていませんでしたので、次の年の夏休み、近くのご住職、砺波恵水先生にご教授願いながら、真宗学、仏教学などの勉強をし、教師試験を受け無事合格しました。我々家族が帰阪したこともあり、父も元気に退院し、週一度の通院を重ねておりました。翌年の夏、教師修練(住職となれる資格を取得するための研修)を受ける前頃から、父の容体が再度悪化し、本山にいく二日前に入院しました。修練中の半ばに、病院より電話があり、夕べトイレから病室に帰る途中倒れ、容体が更に悪化したとのことでした。修練中はどこへも出られないのですが、特別に許可をもらい、夜病院に駆けつけましたら、意外に父は明るく、心配いらないから修練に帰るようにと反対に叱られたぐらいです。修練が終わり、病院に報告に参りますと、父は「おめでとう、よかったなと」といい、その日は非常に調子もよかったのですが、その後、日毎に悪化し、一週間後の九月十二日にこの世を逝きました。何か、私が教師の資格を取るのを見届けるまで、頑張っていたかのようでした。  翌月、住職修習(住職になるための研修)を無事済ませましたので、これから少しでも仏教・真宗の教学を学びたいと思い、秦博兄(『願海』同人)の紹介で高島洸陽兄(『願海』同人)のお寺で開かれていました「『歎異抄』の会」に出席させていただいたのが、住職としての出発でした。丁度、高島兄のお寺に寄せていただいたのが、昭和四十九年の五月だったと記憶しています。講師に、当時大阪教務所駐在の久津谷裕進先生がきておられました。その講義の中で高原覺正先生のお話が出ていたと思います。講義の後、先生から、この七月から『願海』という雑誌が発刊されます。この雑誌は他文化との出会いを通して、親鸞聖人の教えを学び直すということが中心課題です。ということをお聞きし、さっそく送っていただく手続きを致しました。その七月、秦兄のお誘いにより、西覚寺(願海舎滋賀事務所)の求道会に参加することとなりましたが、その朝、高倉会館(京都市)で高原先生の暁天講座があるから、それにも参加しましょうということで、朝五時に東大阪を出発いたしました。七時から先生の講義が始まりましたが、久津谷先生から伺っていましたとおり、きびしそうで反面あったかい感じがこちらに伝わってきました。先生とのお出会いの第一歩でしたが、「この先生についていこう」と、そのとき一瞬のうちに決断いたしておりました。  当初、『願海』誌を読ませていただいても、仏教語が目に入り、チンプンカンプンでしたが、その願いだけは感じることができました。  高島兄が第三巻(五十二年)の途中頃から『願海』のお手伝いをされるようになり、私もなんとなく、先生方の訪問先について行かせてもらいました。  第四巻一月号(五十三年)の編集を名古屋でやるのでついて来ないかと高島兄に誘われるまま、参りました。そのときに原稿の清書などをお手伝いしながら、零の話や数学の話などをしていますと、突然、高原先生から、今話していることを原稿にして下さいといわれ、びっくりしてしまいました。後でこれが先生の人に原稿を書かかす手だとわかりましたが、そのときは驚きと、作文の点数が悪かった私に書けるのかという不安で一杯でした。しかし、先生の仰せですのでいやとも言えず、その場で原稿化致しました。その後、二月号(五十三年)からは「悲願の構造」、《記号にみる悲願》、《味にみる悲願》、《住まいにみる悲願》、《科学技術にみる悲願》と題して、五年半にわたって原稿を書くはめになってしまったのです。しかしながら、このことが本書出版の機縁となっています。  学生時代から問題にしておりました〈宗教と科学のかかわり〉、それをいつも忘れず『願海』とともに今日までこさせていただきました。その間、国分敬治先生、ブラフト神父さま、東井義雄先生、足利演正先生、足利先生のご紹介でブルーム先生、ランキャスター先生など、また京都大学人文科学研究所におられました上山春平先生、また「相伝義書」との関わりで、近松暢誉先生など、素晴らしい先生方とお会いする機会を得ることができました。  「遇善知識」の遇とは「たまたまもうあうことをえたり」という親鸞聖人のお言葉がぴったりのこの十七年です。  六十年の秋だと思うのですが、三田工業(コピー機製造会社)に就職した卒業生から、三田出版会発行の一冊の本『科学技術の流れにどう対処するか』をいただきました。その中で斎藤進六先生のお言葉に触れ感動いたしましたので、早速、編集同人の皆様方にお見せしたところ、先生にお会いしてお話をお伺いしようということになりました。その当時、斎藤先生は長岡技術科学大学の学長をしておられました。何のコネもありませんでしたが、たまたまモータ制御の研究をしておりましたので、長岡技術科学大学に勤務しておられました赤木泰文先生とパワーエレクトロニクスの分野で何度もお会いし、お酒も同席して飲んだこともありました。そこで、編集の方に斎藤先生へのお手紙を書いていただき、『願海』誌を添えて、春の電気学会で赤木先生にお頼みしましたところ、快く引き受けて下さいました。学会が終わってから、赤木先生から関西大学にお電話があり、現在学長はヨーロッパに出張されていますのでご返事は遅れますが、秘書の方にお願いしてありますので、そのうちに連絡があると思いますということでした。  斎藤先生にお出会いしてからの話は『願海』誌や本書にも紹介させていただいておりますので、皆様もよく御存知だと思います。斎藤先生の教えを受けながら佐藤純一先生や『願海』同人の皆さま方と「宗教と科学・技術のかかわり」について今後とも活発な討議をしていきたいと願っております。  本書を発刊するにあたって諸先生ならびに諸兄のみなさまがたのご指導ならびにご配慮、ご援助に対し、深く謝意を表するとともに、代務住職を快く引き受けてくださっている高島洸陽兄に厚く御礼申し上げます。また、本書の校正・割付等は伊藤正善兄が引き受けて下さいました。ここに、深く感謝いたします。最後に妻・恵子をはじめ家族に日頃かけた迷惑を謝するとともに本書出版の手助けにたいし感謝する。   平成 三年十一月                         藤澤 隆章