大阪教区の別院

難波別院

minami 難波別院の歴史は、今からおよそ440年ほど前の文禄4年(1561)に教如上人が、現在の大阪市北区の天満橋と天神橋の間あたりの大川のほとりに位置する「渡辺の地」に大谷本願寺を開創したのがはじまり。

天正11年(1583)豊臣秀吉は、石山本願寺の地を手に入れ大坂城を築城し、城下町大坂の町制と整備にとりかかり城下町を拡大していった。そのため秀吉は渡辺の地にあった大谷本願寺の移転を教如上人に命じ、慶長3年(1598)現在の南御堂・難波別院の地に移される。時を同じくして北御堂(西本願寺津村別院)が建立されているが、大阪のメインストリート「御堂筋」の名前が両別院(南北の御堂)に由来することはいうまでもない。

慶長7年(1602)に徳川家康が京都東六条の地を教如上人に寄進し、東本願寺が建立されるまで、難波別院はいわゆる「お東」の本山であった。

その後、別院は難波御堂とも呼ばれ、正徳4年(1714)には幕府から旧大坂城の外堀の石垣の寄進を受け、淀川から砂を運び地盛りをし、壮大な本堂が建立されている。今では目にすることはできないが、現在の東本願寺の御影堂はかつての別院の本堂をモデルにしたといわれている。別院境内には教如上人が建立した大谷本願寺の「文禄五年大谷本願寺」銘の梵鐘が保存されている。

難波別院

  • 大阪市中央区久太郎町4-1-11(541-0056)
  • TEL 06-6251-5820
  • FAX 06-6251-1868
  • WEB http://minamimido.jp/

天満別院

tenma01 天満別院は、関ヶ原の合戦の翌年、慶長6年(1601)に教如上人が建立した御坊である。

織田信長との間で十一年間にわたって争われた石山合戦終結後、本願寺は紀州鷺の森、泉州貝塚などを経て天正13年(1585)に天満川崎に移り、次いで天正19年(1591)に京都堀川(現西本願寺)へ移っていった。

天満御坊は教如上人が天満本願寺ゆかりの地に建立された寺である。別院の境内には「大坂天満本願寺跡」の石柱も残されている。

教如上人の天満御坊建立は、上人に帰依した佛照寺祐恵の尽力によるところが大きかったという。祐恵が留守居となり子孫十一代の祐照まで、その留守居役を受け継ぎ、御坊の整備と発展に尽力したことから近年まで別院は「佛照寺さん」と呼ばれ親しまれていた。

tenma02また、本堂内には、1910年(明治43)に厳修された「親鸞聖人650回御遠忌」の際、本願寺第二十二代の現如上人によって染筆された『六字城』の額が掲げられ、石山本願寺以来の伝統を今に伝えている。

 

戦後、焼失した天満別院は大阪市の都市計画事業によって境内地は南北に二分され、北側を「天満別院墓地」として整理し、現在は約四百基あまりの墓碑が並んでいる。また、境内地の西半分ほどを「読売テレビ大阪本社」に貸与し、1959年(昭34)に本堂や輪番所を復興再建している。
その後、1990年(平2)に「読売テレビ」が大阪ビジネスパークに移転。テレビ局の跡地を別会社に貸与し、2000年に本堂を新築、落慶法要・蓮如上人500回忌御遠忌法要が厳修された。

大阪市北区東天満1-8-26
  • 大阪市北区東天満1-8-26(530-0044)
  • TEL 06-6351-3535
  • FAX 06-6351-3547

八尾別院

yao 八尾別院の歴史は、慶長12年(1607)徳川家康によって寄進されたと伝えられる八尾の荘に、教如上人が「大信寺」を開創したのがはじまりとされる。

八尾別院大信寺は東本願寺の兼帯所であったため、江戸時代を通じて本願寺住職の兄弟・子弟である連枝が住職をつとめていた。
当時、大信寺の境内地の規模は四町四方(約440m四方)にもおよび、崇敬寺院の門徒五千戸、本山直轄の門徒三千戸、大信寺直轄の門徒三百戸あったといわれる。当時、大信寺を中心とする寺内町が形成され、河内地方における教化の拠点として重要な役割を果たしていた。

yao-zue 教如上人のあと、万治3年(1661)住職になった孫の宣縁(智光院)は、門信徒の増大と寺内町の発展にともない財力も豊富となったため、現在地に御坊を移転している。当時の境内地は、3262坪もあり、29棟からなる七堂伽藍が完備された巨大な堂宇をもっていた。
この立派な大信寺の本堂は、天明8年(1788)京都でおきた大火災(天明焼)によって東本願寺か消失したため、本山の御影堂として移建されることになり、約10年間、東本願寺の御影堂の役を勤め、再度、寛政11年、大信寺に移築され再建されている。1872年(明治5)に東本願寺の別格別院となリ、別院大信寺と称するようになった。

yao_juuji 以来、八尾市発展の歴史とともにあった別院であったが、1953年(昭28)3月2日の昼下がり、巨大な本堂は白蟻の被害によって屋根全体が轟音とともに倒壊している。

その後、本堂復興を願う声が強くなり、一九六六年(昭41)に境内の木造建物を一掃して、現在の鉄筋コンクリートの諸堂か完成。翌年、大谷光暢門首の御親修によって落慶法要と宗祖聖人の七百回御遠忌法要が厳修されている。

八尾別院は、戦争の被害を受けなかったため、教如上人筆の「十字名号」や「光明本尊」をはじめ九十二件の法宝物が境内の宝物収蔵庫に所蔵されている。
また境内には松尾芭蕉の高弟宝井其角の句碑が立てられ、毎年追弔の句会が開催され、多くの人が参加している。

  • 創建   1607(慶長12)年
  • 開基   教如上人(本願寺第12世)
  • 主な行事
    • 報恩講(12月5日から7日まで)
    • 開基会(5月11日から12日まで)
大阪府八尾市本町4-2-48
  • 大阪府八尾市本町4-2-48(581-0003)
  • TEL 0729-22-2724
  • FAX 0729-23-8409

茨木別院

ibaraki 阪急電車「茨木市」駅前にそびえる茨木別院は慶長8年(1603)に教如上人が46歳の時に開創され、400年以上の歴史をもっている。

慶長7年(1602)、徳川家康に京都東六条の地の寄進を受けた教如上人は現在の難波別院の地にあった東本願寺を京都に移し東本願寺を建立する。その翌年の慶長8年に茨木別院を建立している。

当時、茨木は西国街道の宿場町であり、教如上人が大阪下向の際、常にこの地に宿泊されたといわれ、茨木城主の片桐且元が上人に城内の地を寄進し建立されたと伝えられる。

現在の本堂は安永6年(1777)に建立されたもので、大阪教区内の別院で唯一往時を今に伝える御堂が残っている。かつては、茨木御堂、茨木御坊、茨木掛所といい、現住でも「御坊さん」と呼ばれ地域の人ひとに親しまれ、北摂地域における教化の拠点となっている。

山門から境内に入った右側にそびえたつ樹齢四百年の黒松は、別院建立時に植樹されたといわれ、1920年(大正9)に第二十二代影如(句仏)上人が「弘誓の松」と命名されたもので、茨木市の保存樹に指定されている。

法宝物として、教如上人が茨木別院建立を依頼された御書である「教如上人御書」「教如上人御絵像」「教如上人御七歳御筆『無心』」「蓮如上人御自筆御文」「蓮如上人焼残御名号」など多くが残され、本堂には開基の教如上人の木像も安置されている。

大阪府茨木市別院町3-31

大和大谷別院

yamato 本願寺が大坂天満から京都堀川(現西本願寺)に移った翌年の文禄元年(1592)に十一代目の顕如上人が亡くなっている。長男の教如上人はいったんは継職されるが豊臣秀吉の命によって文禄2年(1593)に退隠している。奈良県の大和高田市大谷にある大和大谷別院は同年に教如上人によって開創された寺である。

上人が吉野遊行の折に、正行寺(大谷派・奈良県大和高田市有井)に滞在中に村近くの大谷山に遊び、この地が「大谷」というのを聞き、宗祖親鸞聖人ゆかりの名と同じであることを喜び、山上にあった真願寺を村に移し坊舎を建立したのが大和大谷別院の起源である。また、御本尊は、真願寺の阿弥陀如来像を移したと伝えられる。

江戸時代の文化10年(1813)に大谷派本願寺第二十代達如上人がご消息を出して大和一国の寺院門徒を崇敬下とし、また、1884年(明治17)には第二十一代厳如上人が大和一円の崇敬別院となす旨のご消息を出している。

かつては、旧街道沿いに位置し、本堂はじめ会所や輪番所、庫裡、鐘楼、太鼓楼や庭園を誇る別院であったが、大正、昭和を経て、特に戦後は老朽化が進み、本尊などの避難を余儀なくされ1978年(昭53)に取り壊された。
しかし、1980年(昭55)に地元寺院や門徒の尽力で再建され、1986年(昭61)4月に落慶法要を厳修している。

奈良県大和高田市大谷274
  • 奈良県大和高田市大谷274(635-0076)
  • TEL 0745-22-7619

堺南御坊(難波別院堺支院)

sakai 堺南御坊(難波別院堺支院)は1971年(昭46)までは真宗大谷派の堺別院であった。西本願寺堺別院である北御坊(信証院)に対して、「堺南御坊」と称され長年、堺の市民に親しまれている。

その創立は慶長8年(1603)教如上人によって開創されたと伝えられている。

堺南御坊の変遷を明らかにする資料は乏しいが、天正7年(1579)教如上人に従った最勝寺道了の尽力により深広寺(堺南御坊の前身)が建立され、その後の本願寺の東西分派により、現在地に東本願寺の堺御坊として創建されたと伝えられている。

しかし、1926年(大正5)の火災をはじめ、1945年(昭20)の堺大空襲によってその立派な伽藍は焼失し堺南御坊は灰侭と帰してしまった。
戦後、別院は堺市の区画整理事業で境内地の西半分を隣接する堺市立殿馬場中学校に接収され、南側も道路拡張によって削られ、境内地は約半分に縮小されてしまう。

この状況の中で本山の宗祖聖人七百回御遠忌に先だち、1957年(昭32)に「御遠忌お待ち受けの法要」が、大谷光暢門主を迎え執行され、その後、難波別院輪番が堺南御坊の輪番を兼任するようになり、1971年(昭46)には、難波別院と合併し支院となり復興が進められた。
以来、堺市を中心とした地域の教化の拠点として活発な役割を果たしている。

東本願寺堺南御坊

  • 大阪府堺市堺区櫛屋町東4-1−29
  • TEL 0722-38-3539
  • FAX 0722-38-3539
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Last modified : 2015/02/24 10:59 by 第12組・澤田見(ホームページ部)