問い

浄土真宗では、神棚(かみだな)は拝まないと聞きますが、神棚がある場合は、どうすればよろしいか。

答え

 神棚(かみだな)は必要でないと気付いたら、速やかに取りはずすべきでしょう。決して罰(ばち)は当たりません。

 神棚の発祥(はっしょう)は、仏教が日本に伝わって以後のことです。まだ親鸞聖人が出られる以前のことですが、一般の家に仏壇を置き仏様を安置するようになりました。それをまねて神社が各家に神棚を勧めるようになったのです。

 しかし、真宗門徒の家には神棚を置きませんでした。弥陀一仏(みだいちぶつ)に帰依(きえ)する上には、神を祠って祈る必要がないからです。

 現在では真宗の家でも神棚を祠っていられる家がかなりあるようです。これは、一つには神国日本という明治以後の国家の方針によるものでしょうし、もう一つには真宗門徒の信心があいまいになってきた証拠といえましょう。

 「祈(いの)れば神、拝(おが)めば仏」と教えられています。祈る心は何かを要求する欲望の心であり、拝む心は報恩感謝の念であります。神に祈る心は、いわゆる「家内安全、商売繁盛、無病息災」であり、幸わせになりたいと願う心でしょうが、これは個人的なものであり、自分さえよければというエゴイズムの表われに過ぎません。このような勝手なエゴイズムの要求を満して下さる神様があるでしょうか。神様を祠り、神に祈る心は、つきつめれば気安めに過ぎないのでしょう。

 今、ここに、現にスバラシイ生命が与えられ、日々を生きている。その事実に目覚めよと教えるのが浄土真宗です。浄土はあらゆる生命の故郷であります。この世にある間は、二度とない大切な人生を共に生き合い、肉体の生命が尽きれば生命の故郷へ帰るのです。

 このスバラシイ生命の世界、浄土に目覚めて生きる時、ああして下さい、こうして下さいと注文することの身勝手さが知らされ、神に祈る必要のない、尊厳なる生命の事実をあるがままえられて生かされながら、神に頼り注文の心に生きることは、浄土を見失い、浄土に背くことになります。

 長年祠ってきた神棚を取りはずすことに恐れを感ずるならば、その恐れの心はどこから来ているのかを問い、明らかにして、スッキリとした健康的な精神生活を送っていただきたいものです。

(本多惠/教化センター通信 No32)

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Last modified : 2014/12/09 6:16 by 第12組・澤田見(ホームページ部)