問い

「三帰依文(さんきえもん)」にある仏・法・僧の三宝(さんぼう)に帰依(きえ)するというのはどういう意味ですか。

(70歳・男性)

答え

 三帰依文は、江戸時代末期の仏教学者、大内青巒(おおうちせいらん)がまとめたもので、『法句経(ほっくきょう)』・『華厳経(けごんきょう)』・『法華経(ほけきょう)』の経文の一部を組み合わせたものだと言われています。仏法僧に帰依するという三宝帰依の部分は『華厳経』によった文のようです。

 したがって、「仏」とは釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)であり、「法」とはお釈迦さまが説いてくださった仏法であります。「僧」とは今日一般に言われているような僧侶ということではなく、僧伽(そうぎゃ)ということです。僧伽とは林にたとえられています。林は木々の集まったものであって、一本の木を林とは言わない。木が多く集まった全体を林というようなものだと教えられています。とすると、説法するものも、それを聞くものも、修行するものも含めた全体を「僧」というわけです。

 私たちは阿弥陀仏を本尊として、本堂に代表される聞法の道場で、合掌して三帰依文を唱和しています。その意味を考える必要があるでしょう。

 親鸞聖人の教えによれば、聖人はご自信の所信を同行衆(どうぎょうしゅう)に語っておられます。

親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。(歎異抄・第二章)

 仏法僧の三宝に帰依するという表白(ひょうびゃく)は、ひと言でいえば「ただ念仏する」ということでしょう。南無阿弥陀仏を展開すれば三帰依文になるといえましょう。三帰依文は遇法(ぐうほう)の喜びと仏弟子の決意を「如来の真実義を解したてまつらん」という、仏弟子の生涯の歩みとで終始しています。

 身近なことで申しますと、真宗門徒において「仏に帰依」するとは、阿弥陀仏に帰依(帰命)することであり、「法に帰依」するとは、よきひとの仰せに帰依することであり、「僧に帰依」するとは、聞法の道場に集う人々はもちろん、道場を荘厳(しょうごん)する全体に帰依するということであろうと思われます。

(本多惠/教化センター通信 No158)

三帰依文

人身(にんじん)受け難し、いますでに受く。仏法聞き難し、いますでに聞く。
この身今生(こんじょう)において度せずんば、さらにいずれの生(しょう)においてかこの身を度せん。大衆(だいしゅう)もろともに、至心に三宝(さんぼう)に帰依し奉るべし。

自ら仏に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、大道(たいどう)を体解(たいげ)して、無上意(むじょうい)を発(おこ)さん。
自ら法に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、深く経蔵(きょうぞう)に入りて、智慧(ちえ)海(うみ)のごとくならん。
自ら僧に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、大衆を統理(とうり)して、一切無碍(いっさいむげ)ならん。

無上甚深(じんじん)微妙(みみょう)の法は、百千万劫(ごう)にも遭遇(あいあ)うこと難し。我いま見聞(けんもん)し受持(じゅじ)することを得たり。願わくは如来の真実義を解(げ)したてまつらん。

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Last modified : 2015/02/20 0:24 by 第0組・澤田見(ホームページ部)