わいわい広場1

現在は、ご意見募集は締め切っております。


編集者 2003.6.1

やっと始まりました、新企画。インターネットでしかできないことはないかと、多くの人をまきこんで、なんとかオープンにこぎつけました。
で、できあがったのが『生きてるって素晴らしい』というページです。文章や絵だけではなく、折角インターネットがマルチメディア化してきてるんだから、これを何とか使えないかと思ったんです。文章より動画の方が雰囲気でるでしょ。少しでも生に近づけないかなぁというのがみんなの意見でした。
さらに、インターネットなんだから双方向にしようなんて、誰かが言い出しもんだから こんなコーナーができちゃいました。このコーナーの流れ如何によって、次のテーマーが決まります。みなさんどしどしご意見をください。
ちなみに、みんなでワイワイガヤガヤやるのは、うちの宗派の伝統なんです。なんせ蓮如上人という(「大坂」という地名の名付け親)お坊さんが、どんどん声を出せなんておっしゃったもんだから。昔からやってます、ハイ。


編集者 2003.6.1

第1回目はご覧の通り、「身近な死」についてです。みなさんどうでしょうか?自分の死についてなかなか、日常生活の中では考えないものです。しかし、自分の死を考えずに、自分の生を語ることはできません。生と死は常に隣り合わせ。自分の死がもし現実的でなければ、自分の生も現実的ではないことになります。いいかえれば、いいかげんに毎日を生きてるってことになりますよね。
みなさん、どうお考えになられますか?


jagutchi 2003.6.2

「身近な死について」
今まさに誰もが気にしている話題ですね。
日本にも[SARS]上陸の可能性が出てきた今、まさにここにある危機ですね。(どっかで聞いたタイトルみたいですが)感染すれば、確率的には命を落とす可能性があるために、今だからこそ「死」が身近になっているのではないでしょうか?
しかし、「死ぬかもしれない」と分かっていても、台湾人医師のように何でもしてしまうのも現実で、「死」を見つめるというよりは、こんな状況でさえ生きて何かをすることしか考えないのも事実でしょう。実際、これから自分が感染する可能性を否定できない今、考えることといえば家族は大丈夫だろうかと、まず考えてしまいます。たぶん自分は、感染したら、まあ免疫力が弱いと思うので、たぶん駄目かなと思ってしまうだけで、それ以上何もできない気がします。「死」を見つめるより、まだ余裕がある意見にしかなりません。今だからこそ、人ごとでない「死」を見つめる機会なのではないでしょうか?


バイキンマン 2003.6.2

小学校6年生のとき、クラスの女の子のお父さんが亡くなりました。登校して間もなくだったと思います。連絡を聞いた彼女が泣き出し、他の女の子ももらい泣きして教室は騒然となりました。ところが男の子はというと、妙な雰囲気に戸惑いながらも「何で泣いてんだ」「だからなんだよ」という感じで素直に悲しむことが出来ずにいました。でも私の場合、このとき本当に悲しくはなかったのです。

このことを大人になっても思い出します。学校でのいろいろな出来事の中で、楽しくもなく”悲しく”もなかったこのことが何故心に残っているのか。必ず非日常であった強い印象が存在したはずです。それは、死は悲しいことだと知ってはいても、起こった事実に対して悲しいという感情が湧いてこなかった。傷ついた人をいたわるべきだと知っていても、悲しんでいる人を見て可哀想だと思えなかった。そのことを自覚したことによって処理しきれずに残った不定形な感覚は、今思えば罪悪感のようなものだったのではないかと思います。

そしてこのときのことが忘れ去らないのは、以来二度と現れない感覚ではなく、今でも自分の中に見つけてしまうものだからでしょう。実は私は未だに死というものが解らず、どう処してよいのか判らずにいて、これでよいのかという想いに苛まれる。ただしそれは、死そのものへの問いと不安ではなく、死への理解という二次的な問題へのつまずきなのですが。


dew 2003.6.16

死だけに限らず、なにか訳の分からないものに対する恐怖とか不安感がありますね。
だから生きていることはすばらしい、などと結論じみたことへ走るのは、すこし抵抗があります。
一人一人の体験よりも、いまは古今東西の宗教とか哲学とかが、死に対してどのように考えているか、のほうに興味がありますね。


編集者 2003.6.23 new

インターネット環境の不調で折角投稿を頂いたのにアップが遅れてしまいました。申しわけありませんでした。ということで、取り急ぎアップします。投稿ありがとうございました。これに懲りずまたどんどん投稿お願いします。


water drop 2003.6.4 new

身近な死‥というテーマですが、自殺と家族の死ということで少しコメントさせていただきたいと思います。
みなさんは、自殺を考えたことがありますか?どうしようもない悲しみにおそわれたとき、それは事業の失敗であったり、友達の裏切りであったり、失恋であったり、また多感な時期に生きることの意味が見いだされなかった結果として。実は私も自殺を考えたことがあります。でもそれを踏みとどめてくれたのは家族でした。最後の最後に家族の顔が浮かんでくる、それで私は後一歩を踏み出さずに済みました。
そしてそれから何年もたって今度は家族の死が、自分で死を決めるというおこがましさに気づかせてくれました。私の父はガンでなくなりました。まだまだ生きたかったのです。でも病気で死なざるを得ませんでした。若くしてなくなる人、また老いてなくなる人も誰一人喜んで死んでいく人はいないでしょう。それをまだまだ生きていける体を持った私たちが自ら命を絶っていくのはもったいなく、あまりに傲慢だと思うようになりました。
自殺について安易に考えていた私は父の死で考えが大きく変わりました。生きたくても生きられないそんな病気を抱えている人がどれだけ多くいるか。たとえば明日をも知れぬ子供を持つ母親は、自殺するくらいだったらこの子にその命をちょうだいと思うでしょう。自殺はもったいないと思います。死んだと思えば何だってできるのではないでしょうか。
こんなことを言う私は自殺をせざるを得ないえない本当に深刻な状況に陥っていない世間知らずだからでしょうか。自殺については多かれ少なかれみんな向き合ったことのあるテーマだと思います。もっとも身近な死、自殺についてご一考を願いたいと思います。


ハルナ 2003.6.19 new

私は今特別養護老人ホームで働いています。重度の方が多いです。寝たきり・歩けず・痴呆といった方々。特に痴呆の方を見るとやりきれません。きっと今まで苦労を乗り越えてがんばって生きてきたに違いないのです。それが最後は、自分がだれでどこにいてどうなっているかももうわからなくなる・・・・「生きるって素晴らしい」どころか「生きるって残酷」です。はたして寿命をまっとうすることが幸せなのか?長生きしてもう友人もみんな先に亡くなってしまった人の気持ちとはどんなものか?ここにいるといろいろなことを考えさせられます。
しかし、私の場合、最近「自分に残された時間は短い」とハッと気づきました。あと命はせいぜい40年、そのうち頭と身体がなんとかおもいどおりに動くのが20年くらい。20年なんてあっという間です。やりたいことをなるべくたくさんやっていきたいという気持ちでいっぱいです。「生きるのが素晴らしい」かどうか私にはわかりません。そう思う時もあれば「生きるだけでどうしてこんなにしんどいんだろう・・・」と思うこともあります。ただ、私に残された時間は短くてやれるだけのことをやりたい。たくさんのことを経験したいという欲求があるのですね。不思議です。これを私に教えてくれたのは施設の利用者の方の姿かもしれません。という事はやはり彼等は必要なのです。
蛇足ですけど、私は自殺未遂を繰り返して生きてきました。今も気を抜くとフと「死のうか」と考え込んだりします。でも結局、私は「死」に惹かれつつこわいのです。「死」は絶対でいずれやってきます。ならこの不確かな「生」を捨てて自分から行こうかというなんとも説明しがたい気持ちになります。死にかけたこともありますが、「死」自体は全くこわくありません。ただ自分というものへの執着がこわくさせるのです。
ここでまた最初の疑問です。自分がだれか、自分が死んでるのか生きてるのか、どうなっているのかがもう全くわからない人は「生きるって素晴らしい」でかたづけられるのでしょうか?

3通同内容の投稿を頂きました。少しずつ文章が違っていたのですが、編集者の好みで2番目に頂いた投稿をアップさせて頂きました。
もしハルナさんが、「こっちにして」というご希望がございましたら、ご連絡下さい。差し替えさせて頂きます(編)


桃ちゃん 2003.6.19new

私も父が亡くなるまでは「死」と言うものを遠いものと感じていました。それがさて父親が末期ガンに侵されだんだん痩せて食欲も無くなりテレビさえ見なくなる様になってからは流石の私も「もう死が近い」ということを受けとめなくてはならないと実感しました。
父が死んだのは平成9年1月8日の早朝でした。私は離れてすんでいますから「臨終」には立ち会う事できませんでした。でも駆けつけたときは「穏やかな今にも笑いそうな」そんな顔でした。父は冬のとても気持ちのいい小春日の中で浄土に帰っていきました。抜けるような青い空が今でも私の頭の中に残ってます。父のような死に方ができればいいのですが・・・・・
私は誰も同じだと思いますが死ぬ事が怖いと思ってます。でも私が生まれたときの事、それ以前のことは知るはずもないです、やはり死んだら「無」の世界なのかな?最近そう思うようになりました。
最近は自殺でなくなる方が増えているとのこと。それもネットで「自殺志願者」を集めて七輪を買い込んで中毒死するのが目立ってきました。いつかはみんな「死ぬのだから」頑張って生きなくては。何とかなります。
やはり父が死んだ事で「真宗」が好きになったし、死ぬまで「聴聞」する気になりました。之が父から私への最後の「プレゼント」だったようです。


編集者 2003.6.23new

「身近な死」ということになると、どうしても「自殺」ということと無関係では、いられないようです。次回Part2のテーマは「自殺」ということで考えております。

 

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Last modified : 2014/01/26 11:48 by 第12組・澤田見