物言えば唇寒し、といいますが。

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報告が遅れましたが、21組では2018年1月30.31日と東海方面への現地学習を行いました。
21組の教化事業の一つ「社会問題を考える会」で例年行われている行事です。社会問題を考える会では太平洋戦争を振り返る事から現代の問題をあらためて見つめるフィールドワークを毎年行っています。
2015年東京防衛省・靖国神社・千鳥ヶ淵、2016年長崎、2017年広島についで今年は岐阜へ向かいました。目的は2つあり一つは玉の火薬庫の見学、一つは竹中彰元氏のお寺を訪ねることでした。

玉の火薬庫
『関ケ原鍾乳洞から車で2、3分進むと玉の火薬庫跡があります。火薬庫の正式名称は「名古屋陸軍兵器補給廠関ケ原分廠」でした。明治末期から大正初期にかけて建設されました。関ケ原が選ばれた理由は、東海道本線に近く交通の便がよく、付近に民家もない。また、地形的に小高い山が点在し土塁の構築に適していたからだそうです。洞窟式火薬庫は小山を掘り、内部にコンクリートを流し、上部は山土で覆った後、植栽し山林のようにカムフラージュしたそうです。そのため、最後まで空爆を受けることなく残りました。終戦後、進駐軍は「玉の火薬庫」の存在に驚いたと伝えられています。(関ヶ原観光WEBより)』
近隣の方は自分の田畑にも自由に入ることが出来ず、ずいぶんと苦労されたとのことでした。

玉の火薬庫

竹中彰元氏
『日中戦争がはじまった1937(昭和12)年7月、大多数の宗教者が戦争に協力していく中で「戦争は罪悪 この戦争は侵略である」と説き、検挙された僧侶がいた。真宗大谷派の高僧・竹中彰元。警察の追及にも信念を曲げず、本山からも布教使資格のはく奪処分を受けて、1945年にこの世を去った。長らく忘れられていた彰元の行動が再び脚光を浴びたのは70年近くが過ぎてから。300ページにおよぶ当時の取り調べの記録が寺でひそかに保管されていた。そこには、事件当時の関係者の証言と共に彰元の信念も赤裸々に記録されていた。地元の人々や多くの宗教者たちの熱心な運動により、去年10月、本山はついに彰元の名誉回復に踏み切る決定を行う。彰元が検挙されて、実に70年ぶりのことだった。(NHK「戦争は罪悪である ~ある仏教者の名誉回復~」より』

明泉寺

竹中氏の事績を研究されている方からお話を伺ったが、彰元氏の特徴的なところは特定の思想家や社会主義活動家の影響が見られず、純粋に仏教・浄土真宗の教えからの言動である、という事実です。
翻って我々はどうでしょうか。“物言えば唇くちびる寒し秋の風”は芭蕉の句ですが、これは余計な事を言って災いをまねくという意味の表現になっています。余計なことを言わないのは確かに大事なことですが、大事なことを適切な時と場所で果たしていえるでしょうか。幸いな事に現代日本ではたいていの事を発言する自由はあります。でも時に流れにのまれ、言葉をのむときも少なくありません。竹中彰元氏の事績は現代に生きる我々に大きな示唆を与える、そう感じた研修でした。