推進員になったけれども…/大橋恵真

大阪教区第21組第1回「推進員の集い」講話録より
2014年12月6日 難波別院堺支院にて
お話:大橋恵真先生(第18組遠慶寺住職)

→冊子を銀杏通信に公開するにあたって(第21組組長・山雄竜麿)

冊子も在庫が残っております(残部些少・なくなりしだい頒布を終了させていただきます)頒価一部100円+郵送費
お問い合わせは山雄(isokuji@gmail.com)まで

PDFファイル
ePubをブラウザで読む
ePub(汎用電子書籍ファイル)ダウンロード


はじめに

 歳末になりまして、世の中が何かそわそわと慌ただしくなってまいりました。また、今日は大変冷え込みますが、そんな中をよくご参加くださったことでございます。皆様方の求道の意欲、道を求めようという心にたいへん敬意を表することでございます。

 私は柏原市から参りました大橋と申します。大阪の南東の方、生駒山系の山の裾野にお寺が建っていまして、北東の方には天王寺のハルカスが見えています。そういうところからお邪魔させてもらいました。

 事務をしてくださっている山雄さんからご依頼をいただきまして、講題は「推進員になったけれども・・・」でお願いしたいということでした。要は、推進員になったけれども具体的に何を推進したら良いのか分からない。また推進員というのはどういう役割が期待されているのか、これもよく分からない。そういう意味が込められている講題だと私はいただきました。ですから今日はまず、推進員は何を推進する人なのかを共に考えていきたいと思います。

 何を推進するのか。先ほど、組長さんのご挨拶に「お寺にみんなでお参りする」「誘い合う」というお話がございましたね。まずこれが、推進員さんに期待される大切なお仕事です。

 ところが、お誘いしてもお友達がなかなかお寺に来てくれないことはないですか。「お寺にお参りしましょう」と誘っても「その日は諸用がありますから」と断られることが多いでしょ。みんな自分の楽しい趣味の会にはいそいそと出掛けるのに、お寺には足が向かないのはどうしてでしょう。

 「話が難しくてよく分からない」ということもよく聞きます。確かに楽しくないと行く気がしませんし、何かそこで得るものがないと足が向きません。お寺に足が向かないということは「行っても楽しくないし、お話は難しくてよく分からない」ということでしょうか。

 では「いったい私たちはお寺に何を求めているのか」その辺から考えたほうが良いみたいです。皆様方はお寺に何を求めていますか。お寺に行ってお参りしたからといって、宝くじが当たるわけでもないですね。お寺に健康法を求めるということでもなさそうです。では、お寺は何を学ぶところなのですか。

先生の生き様をとおして

 私に浄土真宗という仏教を教えてくださったのは寺川俊昭先生です。大谷大学に入学しまして、先生のゼミに入れていただいたのですが、お話はまあ難しかったです。言葉が仏教の専門用語ばかりで講義を聞いてもほとんど分かりませんでした。

 しかし先生の側におりますと、言葉ではなくて先生の生き様から伝わってくるものがあります。そこには、何か魅せられるものがありましてね、「ああ僕もこんな先生みたいになれたらいいのにな」と、すごく憧れたことがありました。
 先生は一言でいいましたら大変謙虚なのです。謙虚といってもペコペコ頭を下げておられるということではないのです。学生の前でも絶対に偉そうになさらない。自慢話もされない。お酒を飲んでもそれは変わりませんでした。

難波別院にずっとお話にこられた時期がありましたので、大阪在住のゼミ生は卒業後もお話を聞きに行っていました。お話が終わって京都へお帰りになる際はいつもみんなでお見送りいたします。先生は淀屋橋駅までタクシーで行かれたら良いのに「地下鉄に乗ります」とおっしゃるのです。当時、大谷大学の学長ですよ。学長先生が八時ごろ混雑している地下鉄で揺られて帰るのです。それで私たちホームまで行きまして「先生ありがとうございました」と頭を下げますと先生も車中から頭を下げられます。それでふっと頭を上げたら先生はまだ頭を下げておられるのです。慌ててこちらも頭を下げ直すのですが、次に頭を上げたらもう電車が行ってしまった後です。凄いなあと思いました。歳は私たちと三十五ぐらい離れているのですよ。その方が学生あがりの者に深々と頭を下げられるのです。

 それともう一つは、与えられたお仕事に対する姿勢です。人間として果たして行かなければならないそれぞれが抱える雑多のことが毎日あるではないですか。会社でのお仕事にせよ、家事やら育児やら、あるいは地域の中でいろいろやっていかなければならないことなどいっぱいありますね。先生は、そういう一つ一つの細かいことをきっちりと丁寧に果たしておられました。私のようなものがお歳暮とかを送りましても、必ず直筆で「ありがとうございました」とお礼状が届きます。ちょっと真似できないですね。また、時間があれば原稿を書いておられました。与えられたお仕事、目の前のことを丁寧に果たしていかれる、いえ尽くしていかれるお姿を見せていただきました。

 このように謙虚に生きるということが浄土真宗という仏道を生きている方の生き様というか、生きて行く姿だと私はいただいたのです。学長先生が私たちみたいな若造に頭を下げる。それは礼儀で下げておるわけではないのでしょう。まさか、へりくだっておられるわけでもない。あれは私たちに頭を下げておられたのではなく、私たちが親鸞聖人の仏教を学ぼうとする心に敬意を表しておられたのでしょうね。それは、ともに仏道を歩もうとする御同朋としての姿を見つめてくださっていたのでしょう。

 とにかく私は寺川先生のお姿から「ああこれが南無阿弥陀と念仏して生きるということ。ここに生きた仏教がある。これが信心の生活なのだ」と教えていただいたのです。

 ああいう謙虚さは、全ての人が尊い御同朋だといただけた信心のご利益だと思うのです。また、目の前の雑多なことにも誠実に、丁寧に処していくことができるというのも信心の御利益ではないでしょうか。
 
私たちは、楽しいことや自分にとって都合のよいことは進んでしますが、しんどいことや都合の悪いことはついつい遠ざけます。しかし、自分にとって都合の良いことも、都合の悪いことも「全部丸ごとこのままが私の人生であった」と、私の人生のすべてを引き受けて処していける。そういう励ましや勇気をいただけるのが、南無阿弥陀仏と念仏して生きる信心の生活だと先生から教えていただきました。

 だから自分が求めていたのは、表面的には先生のように成りたいということでしたが、その内実は「先生と等質の信心を得たいということと、信心を得るということの大切さ」ということを先生の生き様を通して教えていただいたのです。
 
 皆様も養成講座の最中によく「信心が大切です」とお聞きになられたことかと思います。そして「お寺というのは、信心を獲得するための教えを聞く道場だ」と何度もお聞きになられたのではないですか。「お寺は聞法の道場である」と。ですから推進員のお仕事は、まずは自身の聞法を推進していくということであり、次にそこから自分の信心を推進していくということです。

 信心を推進していくといことは、まだ信心を得ていない人は信心を得るために法を聞く、聞法するということを自分自身に推進していくということです。

 そして聞法の努力によって、私が南無阿弥陀仏と念仏するものになって信心を喜ぶものになってゆく。そこには、自分にとって都合の良いことも悪いことも「これが私の人生だ」と、謙虚にすべてを引き受けていく生活が開かれてくるのです。先生はそのような生活を「いぶし銀のように光り輝く人生」とよく言っておられました。

 そうでないと、いくら友達を誘っても「あなた、よくお寺に行ってお話聞いているけれど、別に輝くようなものがあるわけでもないし私と何も変わらない。何も変わらないのならお寺へ行っても無駄でしょ」という話になってしまいます。

 ですからお誘いしても来てくれないということは、私に信心の魅力がないということです。どう言ったらいいのでしょうか、私もそうですが、私たち一人一人が念仏に生きていないから、それがお誘いした人には分かるのでしょうね。念仏に生きているか生きてないかは直感で分かるみたいです。ですからお誘いしても「それだったら行っても無駄」という話になるのだと思います。

 先ほど司会の方が「光り輝くような世界にしたい」とおっしゃいましたが、私自身が光り輝いていなかったら世界は光り輝きません。世界は勝手にピカピカ光り輝きません。それこそ何かお寺でいただくものがあって、私が光り輝くような生き方をして初めて世界が光り輝いて見えてくるのですね。

 とにかく自分の信心を推進していき、自分が南無阿弥陀仏と念仏していくのです。そういう人間に育てられていくことが推進員として期待されています。それが実現していったならば、自ずと人を誘って「念仏はいいものですよ。南無阿弥陀仏はこんなに素晴らしい。みんなでお寺にいって、私がいただいたこの素晴らしい南無阿弥陀仏を分かち合いましょう」という言葉が出るのでしょう。自分が実証していますから説得力もありますし、心動かされるものがあると思うのです。少し休憩いたします。
 

Pocket

Last modified : 2020/04/28 17:48 by 第12組・澤田見(組通信員)