分別は役に立たない

 第四願には、先ほど申しましたように、もう一つ「無有好醜」の願という呼び方があります。これは「好きとか嫌いとか醜いとか綺麗とか、そういうことは本当は有ることが無い。つまり絶対に無いのだ」という意味です。つまり、私たちは何でも比べるでしょうと言っているのです。私たちが、いつも比べては「好きだ嫌いだ、勝った負けた、損した得した」と言って、その上で勝ったり得したらちょっと傲慢になってみたり、負けたり損したら卑下してみたりとふらふらして、堂々と生きていない姿を言い当てられているのです。

 それにしても好きとか嫌い、良い人悪い人というのというのも結構いい加減ですね。あの人は良い人だというのは、私にとって都合が良い人を言っているのと違いますか。良い人とか好きな人、私の都合が作り出すのです。そのことを、よく教えていただいた出来事がありました。

 去年のことですが、あるご門徒さんが両親の五〇回忌の法事を勤められました。そのご門徒さんというのが、無愛想ですぐお寺の批判をされるのです。ですから、どうも苦手で何となく避けていたのです。正直、私にとっては「嫌い」で「悪い」人です。そういうお宅でご法事をお勤めした後のことです。 

 ご主人がお寺に来られて「五十年間月参りしていただいて有り難うございました」と永代経の志を持参されたのです。帰られた後、それを持ちましたらすごく分厚くずっしりと重みがあるじゃないですか。あわてて開封してみたら銀行の帯封がついていました。その途端に「あのおっちゃん、やっぱり良い人だった」と思えて、それ以来むちゃくちゃ「良い」人になりました。その人は何にも変わっていません。やはり今でも無愛想でお寺の批判もされます。

 その時、思ったのです「このご主人は何も変わってない。でも私からの人物評は、百八十度変わった」と。その人に良いとか悪いとかいう意味があるのではなくて、私の「都合」が、良いとか悪いとかの評価を作り出しているのですね。それを分別というのです。

 ですから、第三願と第四願は「分別というのは何の根拠もなく、本当は役に立たない、ということをわかってください」ということを言っていると思います。私たちはいつも頭で考えて「これが良いだろうか、あれがどうだろうか」と計るわけですね。計らうところに「好醜」好きとか嫌いとか、良いとか悪いとかが出てくるのです。その計らい、分別には、何の根拠もなく、役に立たないというのです。

 「醜い」とか「綺麗」とかもあまり根拠がありませんね。時によって変わってきます。平安時代の美人画ってだいたい太っていますよね。今だけですよ痩せている人がもてはやされるのは。「好醜」は、時代によって変わるし、時と場合とよって変わるのです。私たちの思いとか分別とか考えるというのは、仏様の智慧の眼差しからご覧になったら、いいかげんで、役に立たない何の根拠もないものなのです。そのことに気が付いたらもっと楽になるでしょう。

 南無阿弥陀仏と念仏するということは「分別が妄念妄想だった。役に立たん。勝手に思っているだけだった」と気がついたということです。そこには、広やかで大らかな世界が開かれてきますよね。「ああ、これでいいんだ」という世界です。

自信教人信の誠を尽くす

 私たちは、目の前にある与えられたお仕事にも、「善」「悪」といって価値をつけて分別していますね。例えば、お礼状出すといのは面倒くさい仕事、たくさんお礼をいただける仕事は良い仕事と、分別するわけです。でも、報酬があってもなくても、全て私が果たしていかなければならない尊いお仕事なのです。

 目の前にある、小さい、こんなことしても意味がないと思える仕事でも、大切な立派で尊いお仕事だとうなずいていく。

 それを最後までずっと考えていったら、死んでいかなければならないということも、立派で尊い大切なお仕事であるということではないでしょうか。

 病院のベッドの上で、ただ天井見上げている状態といったら、私たちの分別で考えたら情けないし「なんで俺はこんなことしているのだろう」という話になってきます。でも、あれは分別する心がそう思わせるのです。そんな時に「南無阿弥陀仏」と、「仏様の本願の教えの方が本当やった」と気がつけば「ああ、病院の天井を見上げているということも、仏様からいただいた私が果たしていかなければならない大切なお仕事やったな」と、いただき直していくことが出来るでしょう。もちろん「こんなのは嫌だ」という気持ちは消えないです。でも「大切なお仕事だ」といただいていけるのです。

 そういう生き様ができるようになっていくと、何か仏教の香りのようなものが身から出てくるのではないでしょうか。たぶん寺川先生みたいにです。そうすると周りの人に伝わってきます。「この人、何か違うな。お寺に行ったら、私もこんな生き方できるのかな」「何かお寺というのは、世間の価値を超えたようなもの(出世間の教え)を教えてくれるみたい、それなら一回行ってみようか」となるのです。

 まず私が、そういう「いぶし銀に光り輝くような人生」を歩んでゆく。具体的には、目の前にある果たしていかなければならないお仕事を、謙虚に、誠実に、一つ一つ果たしていくということが大切です。

 それにはやはり、信心ということ、本願にうなずくということが必要です。人間の努力とか考え方とかでは絶対実現しないのです。今まで散々努力して精進してきたけれども、どうにもならなかったのではないですか。自分から努力してそうなろうということではないのです。本願の教えに目が覚めていくところに、仏様の方から実現してくださるということです。

 これが推進員に期待されていることだと私はいただいています。

 だから、私自身が念仏に生きていく。そうすると、念仏に生きているというその姿を感じ取った方がまたお寺へ導かれていく。

 それを仏教の言葉では「自信教人信の誠を尽くす」と言います。『(真宗大谷派)宗憲』の最初に書いてありますね。「自信」ですから自ら本願の教えを信じ、「教人信」とは「教えて人を信ぜしむ」と読みます。

 しかし、教えるといっても私が教えるのではないのでしょう。教えるのは阿弥陀様のお仕事だと思います。私は終始、本願の教えに聞いていく。その姿が本願の力によって自然と人に伝わっていくということだと思います。教えてやろうという根性では伝わらないのでしょう。教えるのは仏様のお仕事です。

 ここ堺南御坊へお話に来られていた伊東慧明先生は、「自信が自ずと教人信するのです」とよくおっしゃっていました。

 私なんかは、すぐに教えてやろうと思うのですがそうではないのです。自らはただ信じていく、本願の教えにうなずいていく、その姿が阿弥陀さまのお力によって、自然と教化というはたらきをするのだということです。
 「推進員になったけれどもどうしていいのかな」という問いに対しては、ひとこと「自信教人信の誠を尽くす」という言葉、これに尽きると思います。

 みなさまの奮闘を念じております。

合掌

本書は、2014 年12月6日に難波別院堺支院(堺南御坊)で開催された「第21組『推進員の集い』」の大橋恵真先生のお話を加筆訂正したものです。
この「推進員の集い」を開催するにあたり、下記検討会の推進員と住職で何度も打ち合わせを行いました。
その結果、「推進員とは何か」という原点を確認したいという推進員の方々の意向を受け、大橋恵真先生には「推進員になったけれども……」という講題でお話をいただきました。
それをこの度、より多くの推進員の方々の、活動のヒントや助力になることを願い活字として取りまとめた次第です。
最後になりましたが、本書の発行に御快諾いただきました大橋恵真先生に深甚の謝意を申し上げます。

2015年12 月10日

「第21組推進員連絡協議会」(仮称)等に関する検討会

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Last modified : 2020/04/28 17:48 by 第12組・澤田見(組通信員)