死んだらどうなる? 問われる生き様/高橋法信

大阪教区第21組第3回「推進員の集い」講話録より
2016年12月7日 難波別院堺支院にて
お話:高橋法信先生(第5組光徳寺)

→冊子を銀杏通信に公開するにあたって(第21組組長・山雄竜麿)

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それでは御一緒に三帰依文を唱和いたします。

三帰依文 唱和

はじめに

皆さんこんにちは。大阪市生野区から今日は寄せていただきました。地下鉄の小路駅という駅の正面です。地下鉄の階段上がったら徒歩で五歩です。五分違いますよ、階段上がって、ばたっと倒れたら手が届くようなところにお寺があります。朝は向って右隣の喫茶店からコーヒーのいい香りが入ってきます。夕方は左隣の焼き鳥屋からいい匂いが入ってきます。私はそんなところで光徳寺というお寺をお預かりしてるのです。

さて、この「死んだらどうなる」というテーマを考えるには、まず「生まれた」ということと、「生きる」ということの確かめが必要でないかと思っております。

私には、もう二児のパパになった長男がいます。孫は女の子二人です。孫は可愛いいですね。そのパパになった息子がね、まだ小学校四年生のときに「お父さん死ぬのか」と聞くのですよ。びっくりした。私も自分が死ぬって忘れていました。「お父さん死ぬの、お父さん死んだら嫌や」と言って泣くのですよ。うれしかったねえ。最近は言わないけどね。

それから、「お父さん、僕も死ぬのか?」「僕、死ぬの嫌や、死ななあかんのやったら生まれてこなかった方が良かったわ」と言って泣くのです。「何で生まれてきたの、何のために生きているの」と、幼い時の感性って凄いですね。親鸞聖人も九歳の時に、こんな生死の問題を大きな課題として生きられたのでしょう。

息子に、「それはなあ」ってこう言いかけたのですけど、「はて」と言葉が続かないのです。どうしてかと言いましたらね、分かったこととして済ましてきたことが自分の中にあったのだと思います。「こういうものだ」というような答えを持って、その持った答えに縛られて、がんじがらめになっていたということに気がつかされたのです。子どもの問いが教えてくれたのです。

思いが引っかかる

それから「人間はいったい何を求めて生きているんやろ」と書いて、掲示板に張ってみたのです。そしたら不思議なことにたくさんの人が立ち止まるのです。女子高生も、パチプロのおっちゃんもみんな立ち止まる。そう、年のころやったら八十過ぎのお婆ちゃんも立ち止まる。でも、みんな立ち止まってじっと掲示板見て、異口同音に「わからんわ」と言って立ち去って行くのです。

しかし、不思議なのは立ち止まることができるということです。「何を求めて生きているんやろ」という言葉は、人を立ち止まらせる力があるのですよ。こう問われれば、私たちは日頃の心を思い返します。つまり、自分の思い通りになることが好きで、思い通りにならないことが嫌いという思いです。その思いにがんじがらめになっていることすら気が付かないで、一生懸命に思い通りになることを願って生きているのが我々凡夫でしょ。

でも、それで全部ではないという思いがどっかにある。「本当にこれでいいのだろうか」という思いが引っかかるのです。だから立ち止まるのです。

どこからそういう思いは起こってくるのでしょうね。女子高生も、パチプロのおっちゃんも、また八十過ぎのお婆さんもみなそういう経験をしておられるのだと思うのです。私は、そこに何か大事なものが蠢いているように思うのです。

生まれ難い身

この『宗祖親鸞聖人』という赤いテキストは、これから大谷派の住職になろうとする人たちが、本山で研修を受ける際に用いられるものです。でも、これは決して特別な人のための特別なテキストではなくて、私たちの同朋会でもこのテキストを用いております。

この中の「人身受け難し」ということを紹介した所を読みます。

法語 今日道場の諸衆等、恒沙曠劫よりすべて経来れり。この人身を度るに値遇しがたし。たとえば優曇華の始めて開くがごとし。

(『教行信証』行巻・法照「五会法事讃」)

文意 今日道場に集まった人たちはかぎりない求道の時をへめぐって、いまここまできたのである。よく考えてみると、この身をうけることは、まことにまことに出会いがたいことである。たとえば優曇華の花がはじめて咲くのをみるようである。

『宗祖親鸞聖人』(東本願寺出版部・教学研究所編)九頁

優曇華の花というのはね、三千年に一回咲くのですって。ですからそれほどこの身を受けるということは得難いことである。それを私なんかは日頃生まれることが当たり前で死ぬことが他人事だと思っていますが、そうじゃないって言うのです。この身を受けるということが大変なことなのです。そこに意味を見出されたのが仏教の大事な教えでしょう。

そして死は必然ですね。だからこそ、この人生をどう生きようかということを次の法語に表現されてあります。

法語 ああ夢幻にして真にあらず、寿夭にして保ちがたし。呼吸の頃に、すなわちこれ来生なり。一たび人身を失いつれば、万劫にも復せず。この時悟らずは、仏もし衆生をいかがしたまわん。願わくは深く無常を念じて、いたずらに後悔を胎すことなかれ。

(『教行信証』行巻・宗暁「楽邦文類」)

文意 ああ、人の世は夢幻であって、まことでない。いのちはかなくて、いつまでも留めることはできない。ひといきの間にこの世は過ぎ去ってしまうのである。ひとたびこの身を失えば、永遠にかえってくることはない。今ここにおいてさとらなければ、仏もまたなすすべもない。願わくば、人生の無常を深く心に留めて、悔いなきいのちを生きてほしい。

『宗祖親鸞聖人』(東本願寺出版部・教学研究所編)八頁

生まれ難い身として生まれて来たけれども、必ずこの身には終わりが来る。そして一度死ねば、もう二度と戻ることはできない。だから、私たちに悔いのない人生を送って欲しいと仏様は願っておられるのですね。

しかし、よくよく考えてみますと、私たち自身の奥の方からも「悔いのない人生を生きたい。」という、深い叫びのようなものがこみあげて来ていませんか。

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Last modified : 2020/04/28 17:50 by 第12組・澤田見(組通信員)