宗教という言葉

いったい、日頃私たち人間は何を求めて生きているのかを、ちょっと考えてみましょうか。

少し前、日本の人口が一億二千万ほどの時代の話ですが、その時に宗教を持っている人は二億一千万と言われていました。つまり、一人で複数の宗教を持っている方がいるということですね。それから当時、「あなたにとって大切なものは何でしょうか」という新聞アンケートもありました。その結果、第一番が健康です。第二番が家族仲良く。第三番は財産お金です。そうやって順番に発表されたのですが、出てこない言葉がありました。それは宗教です。宗教が最後まで出てきませんでした。人口よりも、宗教を持っている人の方が多いという結果があるのに、宗教という言葉が出てこないのです。どうでしょう、これは私たち日本人のもつ宗教観が原因かもしれません。

先日、一泊旅行で善光寺にお参りに行きました。その時に善光寺のお坊さんが旗をもってガイド役をしてくれました。暗い所に入って行って鍵さわるところがあるでしょ、そのすぐそばでお坊さんがいろいろ説明してくれるのです。「ここでは毎日護摩焚きが行われております。」ってね。で、偉いお坊さんが焚いた護摩と、普通のお坊さんの焚いた護摩では、値打ちが違うっていうのですね。それから「この偉いお坊さんが護摩焚いたお札を家に持って帰って、御仏壇のご先祖に供えてくださいね。そしたら、『わしが死んでみんな横向いとるけども、お前は違った。偉い奴や、よっしゃ何でも言うこと聞いたろ。健康か、家族仲良くか、お金か、何でも叶えるぞ』ってなりますよ。」って言うのですよ。私ちょっと唖然としたのですが、もしかしたら、私たちが宗教に求めものはこういうものじゃないですかね。神仏に、自分が良いと感じる思いを叶えてもらうことを宗教と言っているのじゃないですか。

次の世代に

もう五年ほど前に、ある新聞社の人と清め塩についての対談をしました。その時に、ある学生から聞いたことを思い出したんです。友達二人でお伊勢さんにお参りした時に、こんな会話があったというのです。

「あれ、お前とこのお婆さんこないだ亡くなったのと違うか」
「亡くなったよ」
「そしたら、参ったらアカンやんか」
「何で参ったらアカンの」
「死者の出た家はケガレてるやろ。ケガレた者が聖なる神社に参拝したらケガレるやろ」
という内容です。

これ、一方の学生が、「死はケガレ」ということを誰かから教えてもらったのでしょ。こういうことが、ずっと知らず知らずのうちに隣のおっちゃんやったり、あるいは親戚のおばちゃんやったり、そういう身近な人から伝えられてきたのです。

私たちは何を求め、何を次の世代に伝えて行くのかということを、しっかり考えないとダメだと改めて思うことです。

良しだけを求める心

例えば、霊感商法というのがあります。霊感商法で騙される人は、最初から持たされた「お守り」を信じているわけではないのです。「お守りを持ちなさい」と言われたけれど持たなかった時に、たまたま病気や事故を起こすと「ああ、お守りをもたなかったからだ」と考えてしまうようになるのですね。逆に、お守りを持っていて何も起こらなかったら「守ってくださったから何事もなかったのだ」と考えるようになってしまうのです。これに一旦はまってしまいますとなかなか抜けられない。

これは、良し悪しの「良し」だけを求める心です。「良し」が叶うことに御利益がある。ここに祟る霊と守る霊が生まれます。自分の心を中心にして良し悪しで分けますから、そらもう、祟ると守るできちんと分けられます。何故こういう話をするのかといいますと、私たちは亡くなった人を霊として扱ってしまうことがあるからです。ないでしょうかね、日頃の心が、私たちの身内で亡くなった大切な人を、知らず知らずのうちに霊にしてしまう。そしてその霊が守ってくれたり、祟ってきたりするわけです。

なぜ法事をつとめるの

これは、もう何年前ですかね、CS放送(スカイA)で「東本願寺 心の時間」という番組があったのです。そのときに「なぜ法事をするのか」というテーマの番組に出演しました。「なぜご法事をつとめるのですか?」って、会場にマイクをふりますとね、「それはしっかりと法事のときに供養しとかんとあとで祟ってくるからや」とか「しっかり供養しといたら守ってくれるからや」という言葉が出て来たのですよ。それから、ちょっと質問を変えまして「お経は誰のためにあるのでしょうか?」って、それを司会の大谷昌子さんに振ったんです。そしたら「えっ、台本にないよ」という顔をされて「それはやっぱり亡くなった人のためにお経はあるんでしょ。だから供養っていうのでしょ。」っていう答えが帰って来ました。しかし本当にそうでしょうか。亡き人を思う前に亡き人から思われているのは私たちじゃないでしょうか。

お爺ちゃんの風邪薬

あるお宅の七回忌の法事に寄せてもらいましたら位牌が置いてありました。それで、その位牌の前に小さな薬の袋が置いてあったのです。法事の時はだいたい好きだった物をお供えするでしょ。うちの父親は甘党だったからおはぎ供えたりします。私には多分、芋焼酎を供えてくれると思います。それがね、この時は町医者の薬が供えてあったのです。

いえ、供えてあるなんて思ってないから、「こんなとこに薬置いてあるで」とお婆ちゃんに声かけたら、「いや、置いてあるのじゃないのです。供えてあるのです。」って返って来ました。思わず「ええ?お爺ちゃん変わった物好きやったんやな。薬好きやったの」と尋ねたのです。

そしたら、「いえいえ、これには深い訳がある」と続きました。法事の準備で、布施の近商というスーパーに買い物に行ったら、何でもないとこでカタっと転んだんですって。そんなこと今までなかったから、これはきっと死んだお爺ちゃんが何か言おうとしているに違いがないと思ったそうです。

そういえば、昔ミヤコ蝶々さんやったかな、お墓の宣伝してましたね。「お父ちゃんが迷ってる、えらいこっちゃお父ちゃんの家たてなアカン。」みたいに言ってね。ああやってテレビがお説教するのです。それで聞いたらみんなその気になってしまう。それがまた新しい日本人の宗教観というものを作っていくのですね。

さて、しばらくしたら今度は孫さんが自転車の後輪に足巻き込まれて大怪我したのです。きっとこれも死んだお爺ちゃんが何か言おうとしているに違いがないとこうなった。もう、こうなってしまうと中々抜けられないです。とうとう仏間で寝ていたら、夜中にお爺ちゃんが「おい」って写真から出てきたのですって。もう布団かぶって「なんまんだ、なんまんだ」とお念仏称えることしかできなかったそうです。

いや、好きで一緒になったお爺ちゃんだから「久しぶりねえ」くらい言うたらいいのにと言ったら、「出る時が悪いって」って言ってましたわ。

それで、あんまり怖いから亡くなった方の霊と話しができる人の所に行ったのですって。

いったい、亡くなった人とどうやって喋るのか不思議ですが、とにかくしばらくブツブツ言っていたと思ったら「わかった! 今、あなたのお爺さんは風邪ひいて苦しんでる。早く風邪を治してあげないと、行くとこ行かれない」と、こう言われたらしいです。

それで「ああ、そうか」と、お婆ちゃん町医者に行って
「風邪薬を欲しい」って、言うたら
「じゃあお婆ちゃん熱計りましょ」って言われるから
「私やない」と答える。でも、
「はい、口開けて」とお医者さん。
「いや、私やない」ともう一度答えたら、
「じゃあ、誰なの」と聞かれる。
「お爺ちゃん」と、答えたら、
「お爺ちゃん死んだんやろう、どうして風邪薬がいるの」って、それで
「いや、実は出てきて困る」って、答えたら、お医者さん小さな薬の袋を出してくれたのですって。で、それが位牌の前にお供えしてあったのです。

法事にはね、足を怪我した孫さんも一緒にいました。それで「この薬、効かなかったらどうなるんやろ」って話したら、「いいことがある。この位牌を病院に持って行って注射打ってもらったらいい」という話になったのです。

もう、おかしくてね、法事のおつとめができないのです。始めようとするのですけど、三回ほどやり直させてくださいってお願いしました。私だけやないのです。みんなクスクス、クスクス笑うものだから釣られてまた笑ってしまいます。なんとかご法事が終わって、「始まる前にこういう話があったけれど、皆さんはどうでしょうか」ってお尋ねしたら「私はそこまでしません」「どこまでするの」と聞いたら、「私は冷え性が治るように、熱いお茶をお内仏さんに供えるくらいですわ。」っておっしゃるのです。

まあ、切ないものもありますけれど、それが本当に宗教といえるものかどうかを確かめないといけないのです。大切な人から祟られないように法事をつとめる、あるいは自分の願いを叶えてもらうというのが、本当に宗教なのでしょうか。

Pocket

Last modified : 2020/04/28 17:50 by 第12組・澤田見(組通信員)