生死出ずべき道

又、百か日、降るにも照るにも、いかなる大事にも、参りてありしに、ただ、後世の事は、善き人にも悪しきにも、同じように、生死出ずべきみちをば、ただ一筋に仰せられ候いしをうけ給わりさだめて候いしかば、(聖典六一六~六一七頁)

 今度は六角堂に籠ったのと同じように、法然上人の許に百ヶ日通ったというんですね。いつ六角堂を出たのかというと、『御伝鈔』の記述によれば「四月五日夜寅時」(聖典七二五頁)、現代の暦で言うと五月半ばぐらいでしょうか。そこから数えると八月末で百日です。ちょうど梅雨から、暑くなって、さらには京都もお盆過ぎの残暑が厳しいですけども、そのあたりまで、ずっと百ヶ日通われた。二十九歳の時のことです。「降るにも照るにも、いかなる大事にも、参りてありし」とあります。

 そしてその次にも「ただ後世の事は」とあります。親鸞聖人は後世を聞きたかったんです。私なりに荒っぽく言い切ってしまえば、明るい未来ですよ。道がひらけることを法然上人に聞こうとしたんです。先が見えなければ生きていけないということです。法然上人はそれに対して応答してくださったんですが、ただ上人のお答えは「こうやったら明るい未来ですよ」とはおっしゃっていない。「善き人にも悪しきにも、同じように、生死出ずべきみちをば」と言っています。「生死出ずべき道」つまり迷いのあり方を出ていく道を、一筋におっしゃったと書いてあるんですね。

 「善き人にも悪しきにも、同じように」とあります。善人も悪人も、つまりどんな人にも平等に語られたのが法然上人なんです。これは比叡山とは対照的です。比叡山は山の上で修行できる出家のお坊さんが中心です。例えば男の人でも猪を獲ったり魚を捕ったりして殺生の罪を犯している人は、その正統な道を歩めない。女性は女性であるというだけで、比叡山の修行はダメだと言われている。

 これだけなら悪人と女人を排除していますから、そのために法然や親鸞が活動したとなりそうですが、そういう話じゃないんですね。悪人や女人とレッテルを貼って排除しているんですが、しかし「あなた用の道があるから喜べ」と、もう一度抱きこんでいくのが旧仏教であります。これは比叡山だけじゃありません。奈良の仏教も同じです。比叡山は京都にいるとこちら側が表かと思うんですが、表は滋賀県側なんだそうですね。そこに日吉大社があります。比叡山の御本尊が日吉権現という神様となって、人びとに利益をもたらしていくんですよ。だから女人、あるいは罪深い悪人に対しては、「あなたは山の上で修行はできないけれども、せいぜい日吉権現にお参りして罪滅ぼししなさい」とか、あるいは「善根功徳を積みなさい」と言っていく。そういう形で「誰もが仏様のご利益を受けられますよ」と言うんです。しかし修行できる善人、善を積める人と積めない人とは別の道になっているんです。

 法然上人は同じなんです。たくさんお経を読んだり、善根功徳を積んでいる人が来ても、逆に生き物を殺すことを仕事にしてる人が来ても、大事なことはこのことひとつ。平等なんです。親鸞聖人はびっくりしたと思いますね。今まで男の出家者しかいない比叡山で生活してきた親鸞聖人が、男も女も、貴族もそうでない人も、お坊さんも在家の人も、みんな平等にいて、同じ教えを聞くんです。これが本当の仏教だと思われたに違いないと思います。お釈迦様まで遡ってもそうです。お釈迦様は、男用の道を説いたんじゃないんですよ。お坊さんだけが覚りを開けるなんて言ったんじゃないんですよ。誰の上にも成り立つ法則・道を説いておられたのがお釈迦様です。「ここに生きた仏教があったか」と、親鸞聖人はものすごく感動したと思います。

 「生死出ずべき道」、そのことを「ただ一筋に」とある。このことひとつなんです。先ほどの「後世を祈る」に対して「生死出ずべき道」。同じように見えるかもしれませんが、私は中身が違うと思っています。後世を祈るほうはやっぱり明るい未来です。今よりもちょっとは状況が好転する、自分にとって都合のいいほうに動くことを祈るわけです。誰だって暗い未来は祈りませんよね。道がひらけることを祈っているわけです。ところが法然上人は「生死出ずべき道」だとお答えになっています。

 善と悪、明るいか暗いか、あるいは優れているか劣っているか、あるいは勝ったか負けたか、役に立つか立たないか。私たちは価値をふたつ立てて、どっちかが良くてどっちかが悪いと言っています。例えば生と死で言えば、生まれてきて生きていること、こちらが大事ですから、病気になって死んでいくことは、できるだけ遠ざけたい。しかし生まれたということは、その病気になることも死んでいくことも、備えているわけですよ。

 自分にとって都合のいいほうだけを手に入れて、悪いほうをなくそうということなんてできないですよね。でもそう願う。これがやっかいなんです。明るい未来ならいいけれど、暗い未来なら生きていけない。優れてるのはいいけれど、劣っているなんてもう生きている意味がない。それから勝ち負けもそうです。勝ちたいです、やっぱり。そして有用か無用か。これが一番きついと思います。役に立つ人間か立たない人間か。生きてる値うちがあるかないかまでやるんです。

 上を求めて下をできるだけ遠ざけようというのが、私たちの生き方じゃないですかね。上は良いことだと言い、下は悪いことだと言うわけです。しかしたまに逆の人もいます。生まれたことがぜんぜん嬉しくなくて、なぜこんな苦しい思いをして生きなければいけないのか、死んだほうが楽になれるのではないかと、死のほうに苦しみから解放される明るい未来があるかのように思っておられる人もあります。でもこれは価値付けが変わっているだけで、価値付けしていないわけじゃない。だから生に意味があるか、死に意味があるかということは、人によっても状況によっても変わるかもしれませんが、しかしだいたいどちらかに価値を置けば、どちらかは反対です。どちらかがプラスなら、どちらかがマイナスなんですね。こういうあり方なんですよ。

 先日、大谷大学の宗祖誕生会に、大分の佐藤病院の院長をしておられる田畑正久先生がおいでくださいました。この方は大学時代から人生について悩んだり、道を求めたりしたご縁で、仏教に深く帰依し、特に親鸞聖人の教えを大事に生きておられます。宗祖誕生会でもありがたいお話を聞かせていただきました。

 田畑先生は仏教と医学では生老病死の扱い方が基本的に違ってきてしまっているとおっしゃるんですね。本当は別物ではいけない。だから仏教徒にももちろん科学的な知識も持っておいてほしいけれども、医学の人にも仏教の眼をもっておいてほしいと。医学の立場は今どうなってるかといったら、病気が治らなかったとか、治らないまま死んだといったら、医学の負けだと思っている。しかし、負けなんて本当はないとおっしゃるんですね。お医者さんがどれだけ頑張っても助けられない命はある。逆にお医者さんがなにもしないでも助かっていく命もあるとおっしゃっていました。

 今の医学はプラスかマイナスかでしか見ていないというんです。しかし病気になって、そこから大事なことを学ばさせていただくということもありますよね。誰かの死を通して大事なことに出遇うということもある。だから病気や死はマイナスかというと、そんなことは決められないわけです。それを一方的にプラスとマイナスに分けていく。これが今の医学界なんですという話をしておられた。

 プラスもマイナスもないという世界に出遇うことが大事である。これを田畑先生はお念仏、阿弥陀の世界と語ってくださっていました。でも私には仏教徒も大丈夫ですかとも聞こえました。仏教徒も自分にとって都合がいいものをご利益と言い、都合が悪くなったら「なんや仏さん力ないわ」って言っているとしたら、結局、発想が一緒ですよね。

 法然上人が語ったのは、そこなんですね。「生死出ずべき道」とは、生か死かという、どっちがプラスでどっちがマイナスかというあり方を超えるということです。どっちかが良くてどっちかが悪いという考え方から出るということです。これを法然上人は教えてくださったというのが、このお手紙の内容だと思います。

 後世はこうしたらいいという答え方ではなく、「生死出ずべき道」をただ一筋におっしゃったという答え方になっています。ですから親鸞聖人の問いと法然上人の応答とは、まったく同じとは言えない。同じ場面で起こっているんですけれども、法然上人は聞いた者とまったく違うところから答えられているんですね。

 親鸞聖人は「どうやったら本当に覚れますか、迷いを超えられますか」という仏教の根本の問いを聞かれたと思います。「どうやったら本当に道がひらけていきますか、比叡山ではそれを感じられませんでした」ということも言ったかもしれません。しかしそれに対してこれから先なにが起ころうとも、どんなことがあろうとも、その中にいられるような生き方は、この「生死出ずべき道」なんです。

ただ念仏

上人のわたらせ給わんところには、人はいかにも申せ、たとい悪道にわたらせ給うべしと申すとも、世々生々にも迷いければこそありけめ、とまで思いまいらする身なればと、ようように人の申し候いし時も仰せ候いしなり。(聖典六一七頁)

 法然上人が行かれるところには、「人はいかにも申せ」ですから、人があんなところやめておけとか、そんな人についていくなとか言ったとしても、「たとい悪道にわたらせ給うべしと申すとも」、たとえ行き先が、地獄・餓鬼・畜生というような過酷な道、悪道であったとしても、「世々生々にも迷いければこそありけめ」です。迷いを離れられない、どこに行っても迷いが次から次へと起こってくる自分だということがはっきりしたのでという意味です。だから人からどのように言われても、ここで生き方が決まったと言ってるわけです。

 明るい未来がひらけるなら、法然上人についていくというんじゃないんですよ。どんなことがあっても、法然上人の教えが大事だということが見えたわけです。中身はなにかと言ったら、良いか悪いか、勝ったか負けたか、そういうようにふたつに分けて、どちらかに価値があるというあり方、どちらかがプラスでどちらかがマイナスというあり方から出るということです。

 この恵信尼様のお手紙と同じことが『歎異抄』で言われている箇所を見ておきたいと思います。第二章に出てきます。関東から来られたお同行に対して、親鸞聖人がお答えになられたお言葉です。

親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん、また、地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもって存知せざるなり。(聖典六二七頁)

 これが「生死出ずべき道」の中身でしょう。「ただ念仏」、阿弥陀仏を念ずるところに、比べることからの解放があるのです。良いか悪いか、プラスかマイナスかと量ることからの解放があるということです。弥陀にたすけられていく生き方です。

 比べる心が消えたんじゃないですよ。お経を読んだからといって、プラスかマイナスか量らなくなるのではないのです。心に湧くんです。湧くんだけれども、阿弥陀を念ずる時に、「ああ、良いか悪いかだけじゃなかったなあ」と、あるいは「得か損かで量る必要のないものをまた量っていたなあ」と知らされるところに、その分けている、量っていることに振り回されることからの解放があります。

 だって私たちがパニックになっている時は、自分の思いの通じない時です。パニックに落ちている自分を見るもうひとつの眼をいただいたら、「ああ、またなんか浅ましいことになっとるなあ」「また自分中心の思いで人に文句ばっかり言うとるなあ」ということが見えてくることがある。だからといってその比べる心がなくなったわけじゃない。あるからこそ、阿弥陀の世界を念じ続けてくださいというのが、「ただ念仏して」ということでしょう。

 『恵信尼消息』では「生死出ずべき道」とありましたが、具体的にそれはなにかと言うと、阿弥陀仏を念じて善し悪しを離れていく道、プラス・マイナスを超えていく道です。自分中心の根性があるからこそ、それを超えた世界を聞かせていただくことが大事になるということです。

 そしてそのあと親鸞聖人は、「念仏が浄土に生まれる種なのか、地獄に堕ちる業なのか、そんなこと私は知りません」とおっしゃっています。つまりいい状況に行くための念仏じゃない。あるいは称えて悪い境遇が待ってるからといって、やめるわけにいかない。だって阿弥陀仏を念じなかったら、もうそれこそ一歩先は真っ暗なんです。自分の思いがいっぱいいっぱいで行き詰まっていますから、どう生きたらいいのかもわからない。それを超えることを法然上人は教えてくださったということで、浄土に行くための念仏じゃないんです。地獄に堕ちるならやめときますっていう念仏と違うんです。行き先の善し悪しを超えてということです。

コロナ禍を超えて

 今、「緊急事態宣言」が解除になって、「まん延防止等重点措置」に移ってきたわけですが、これまたリバウンドということもあるかもしれません。来年はもうないだろうと思っていますけれど、上がったり下がったりで、四十波目が来ましたとか、もうそろそろ五十波目ですみたいなこともありうるかもしれない。

 もう去年入った学生が二年生です。ワクチン打って、みんなとご飯食べたり集まったり、あるいはクラブもできるような大学になったらいいねという話を学生たちとしていますが、わからないです。だからその子たちは四年間、コロナで楽しくもない大学生活でしたみたいなことになる可能性もあるわけです。しかしコロナのせいで自分の学生生活はがっかりだったとなるなら、自分で自分の人生の四年間をマイナスイメージだけでレッテルを貼っていることになるかもしれません。一回しかないかけがえのない学生生活が、四年間コロナと共であったとしても、それをつまらない人生だったと言わないような道ってないのか。それがこの親鸞聖人が言ってくださっている「生死出ずべき道」という、法然上人からの教えだと思います。

 念のために言いますが、日常生活を取り戻さなくていいって言っているのではないのです。コロナが収束しなくていいって意味じゃないんです。たとえそういうことになったとしても、そこで終わりじゃない、そこにも大事な人生があるでしょということです。これが行き先が悪道であっても、あるいは地獄であっても、そこに必ず道は開けますという親鸞聖人のおっしゃり方ではないかということなんですね。

 続きをもうちょっとだけ読んでおきますと、

たとい、法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう。(聖典六二七頁)

 「さらに」というのは、「決して~ない」という強調の言葉です。ですから法然上人に騙されて念仏して地獄に墜ちたとしても、決して後悔はいたしませんと言ってるんですね。するはずがありませんというくらい強い言葉です。そしてその理由は、

そのゆえは、自余の行もはげみて、仏になるべかりける身が、念仏をもうして、地獄にもおちてそうらわばこそ、すかされたてまつりて、という後悔もそうらわめ。(聖典六二七頁)

 他の行を励んで迷いを超える、仏になってしまえる私であれば、念仏申したために地獄に堕ちたならば、だまされたという後悔もあるでしょうということですね。法然上人の言うことを聞いてくっついていったとすれば、法然上人が間違ったら、「だまされた、信頼してたのに」となるでしょうね。でもそうじゃないんです。教えられたことがある。それが次です。

いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。(聖典六二七頁)

 どんな方法をもってしても迷いを超えきれない私であるし、どこに行っても次から次へと問題が起こってくる人生だということが、はっきりしたということです。これさえやっておけば問題に会わずにすむなんていうことは、誰も言えない。あれほど頑張ったんだから、私が問題に会うはずないと、こんなことも決められない。想定外という言葉もよく聞きますが、人生そのものがもう始めから想定外なんですね。想定してなかったことが起こってくるのが人生なんです。そこが私の人生ですと言ってるのが、この「地獄は一定すみかぞかし」ということです。

 これが浄土真宗の根本のご利益だと思います。地獄にもいられるという利益です。状況が自分にとって都合のいいほうに動いた時だけいられるのではない。都合の悪いほうに動いたとしても、そこも大事な自分の人生の場として生きていく道をいただいていく。

 しかしこれも私が強い心になるというよりは、そうやって励ましてくださる方との出会いがあるからです。私たちで言えばお釈迦様もこういう中を苦しみながらも生き抜いていかれたに違いない。親鸞聖人もそうだったに違いない。蓮如上人もそうだったに違いない。あるいはうちの爺ちゃんもそう。婆ちゃんもそう。そういう方がたくさんいればいるほど、違ってくると思います。私だけがひどいめにあっている、私だけが苦しんでるのではないのです。

 なにがあっても文句を言うなとか、そんな話とは違います。問題を感じた時にはきちんと言わなければいけませんが、言ったからといって思うように動くかといったら、それはまた別問題です。それが動かない中にもまた道はある。なにも変わらない中をどう生きていくかということも、私たちの人生の中で多々あるわけですよ。そういう時に先達の顔や生き方、お言葉がいただけるところに、この地獄の真っただ中にいられるようになるという利益が成り立つ。これが親鸞聖人の立たれたところだと思います。

 「地獄は一定すみかぞかし」ってすごいお言葉だなと思うんですね。コロナの状況の中でどう生きるかという時に、好転する日もあるでしょう、思わぬ形でもっとひどくなることもあるかもしれません。しかしその中にある人生の大事さというのは、増えたり減ったりしてるのではないですよね。本当に大事な人生、一回限りのかけがえのない人生があるんです。それをたくさんの励ましをいただきながら生きていくということ。親鸞聖人だったらこういうことをおっしゃってくださるんじゃないかなということを、考えさせられることです。

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Last modified : 2021/09/26 19:08 by 第12組・澤田見(組通信員)