寛喜の内省

 親鸞聖人は二十九歳の時、このように地獄が私のすみかだと決着がついた。ところがその親鸞聖人もそれで九十歳まですんなり行けたかといったら、そういうわけじゃないんです。これも『恵信尼消息』のお言葉から考えておきたいと思います。この出来事は「寛喜の内省」と呼ばれています。寛喜三年という年号が始めに出てくるからですね。この寛喜三年というのは親鸞聖人五十九歳の時のことでありまして、六十二、三歳ごろに京都に帰ってこられるので、まだ関東時代であります。

善信の御房、寛喜三年四月十四日午の時ばかりより、風邪心地すこしおぼえて、その夕さりより臥して、大事におわしますに、腰・膝をも打たせず、天性、看病人をも寄せず、ただ音もせずして臥しておわしませば、御身をさぐれば、あたたかなる事火のごとし。頭のうたせ給う事もなのめならず。(聖典六一九頁)

 「風邪心地」と書いてありますから、親鸞聖人が風邪気がして寝ていたら、熱がものすごく出たというんですね。「天性、看病人をも寄せず」ですから、誰か近くにいるとそれだけでしんどくなる、誰も来るなと言うくらいきつかった状態なんですね。恵信尼様が親鸞聖人の体を触ってみたところ、「あたたかなる事火のごとし」と書いていますから、むちゃくちゃ熱かった。火のように燃えるような高熱が出ていた。そして「頭のうたせ給う事もなのめならず」というのは、頭の痛い時は頭を軽く叩いたりしますが、どれだけ打っても収まらなかった。尋常じゃなかったというのが、「なのめならず」という言い方です。きつい頭痛と発熱で臥せっておられた。そうしたら、

さて、臥して四日と申すあか月、苦しきに、「今はさてあらん」と仰せらるれば、「何事ぞ、たわごととかや申す事か」と申せば、「たわごとにてもなし。臥して二日と申す日より、『大経』を読む事、ひまもなし。たまたま目をふさげば、経の文字の一字も残らず、きららかに、つぶさに見ゆる也。(聖典六一九頁)

 親鸞聖人が「今はさてあらん」とおっしゃった。「今はそうしておこう」という意味です。それを聞いた恵信尼様は熱にうなされる中でたわごとを言われたのかと思って、「何事ですか、たわごとですか」と尋ねたら、「いや。たわごとではない」と言って、実は、伏して二日目から「大経を読む事、ひまもなし」と。そして目を閉じれば、『大無量寿経』の文字が一文字残らず出てきたというのですね。

さて、これこそ心得ぬ事なれ。念仏の信心より外には、何事か心にかかるべきと思いて、よくよく案じてみれば、この十七八年がそのかみ、げにげにしく『三部経』を千部読みて、衆生利益のためにとて、読みはじめてありしを、(聖典六一九頁)

 なぜこんなことが起こるのかと思ったら、十七、八年前の時のことを思い出された。実際には建保二年、親鸞聖人四十二歳です。この時、何をしたかといったら、『大無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』の三部経を千部読誦しようとしたというんですね。三部経を読もうと思ったら、慣れた人でも一時間半以上はかかるでしょう。それを千セットですから、一日十セット読めばまあいいほうだとすれば、千セット読もうとすれば百日間かかるわけですよ。そういうことをやろうと思い立ったというんですね。

 なんのためかといったら「衆生利益」と書いています。人びとが困っているのをなんとか助けたいという思いから三部経を千セット読もうとした。飢饉や疫病でばたばたと人が死んでいくという状況の中で、「お坊さんなんとかしてくれないか」と、「仏教はこういう時になんの役にも立たないのか」と言われたかもしれません。一応は引き受けたんです。「わかった、やってみよう」と言って、三部経を千回読もうとした。しかし結局、四、五日でやめてしまったということがあったという話なんですね。

 そのことが、十七年経ってもういちど出てきたんです。この親鸞聖人が臥せっておられた寛喜三年は、前の年から飢饉が続いていて、たくさんの人びとが飢えて苦しみ、そして栄養失調になりますから免疫力が下がって病気もものすごく流行って、たくさんの人が死んでいたような時代だそうです。だから四十二歳の時と同じ状況がまた五十九歳の時にもあって、その中で熱にうなされて『大経』の文字が出てきたという出来事のようです。

 大事だなと思うのは、まわりで困っている人がいた時に、親鸞聖人は知らん顔ができなかったということです。「お坊さん、なんとかしてくれんのか」と言われた時に、「いや、うちの宗派はそんなふうにお経を使わんのや」と言ってもよさそうです。しかしそうは言っていないんですね。「わかった」と言って引き受けているわけです。でもその中で思い返してやめていった。

 なぜやめたのか。やめた理由が大事だと思います。引き受けた親鸞聖人もすごい。やっぱり放っておけないんです。苦しんでいる人をなんとかできないか。一緒に田んぼを耕すわけにもいかない。土地もないし、そんな技術もない。では自分は何ができるんだと考えた時に、なんとかしようと請けあったのです。

げにげにしく『三部経』を千部読みて、(聖典六一九頁)

 この「げにげにしく」という言葉の「げに」というのは、漢字では「実に」と書きます。まことにそうだという意味でも使いますが、「げにげにしい」という時には、「もっともらしい」という意味になります。ここでは「いかにも坊さんらしく」ということでしょうね。もっと言えば、いかにもお経を読んで人助けができるような顔をしてということでしょう。「げにげにしい」というのはそんな意味です。ここではけっして肯定的な意味ではありません。

 お経の力を借りて衆生利益をできるような顔をして読み始めた。でもそれは違うと思って、やめたんだという。なぜ違うのか。これは一瞬でも助ける側に回ったということを反省なさったんだと私は思います。親鸞聖人は二十九歳の時に法然上人と出会って、勉強したからといって煩悩が消えない危うい自分自身がわかったわけです。好きか嫌いか、損か得かということを離れられない自分がよく見えたはずなんですよ。だから阿弥陀仏を念じて生きていかないといけないということが、決まったはずなんですね。ところがしばらく経って、大変な状況の中でまわりから要請された時に、「わかった」と請けあった。でもやっぱりこれは違う。なぜかといえば、私が助ける側になったということです。私も阿弥陀仏によって、良い悪い、損得ということから解放されなきゃならない人間なんです。それなのに私がお経を読んで助けてあげましょうというのは、これはいつのまにか上から目線になってますよね。

 今までに、末期の癌でもう余命宣告されて長くないという人のところに、何人かお見舞いに行ったことがあります。そのいちばん始めの時でしたけれども、私がなにも言えずにおりましたら、向こうのほうから「癌でなくても死ぬからな」と言われました。私にはなんて聞こえたかというと、「おまえはどうも俺のこと心配してるようやけれども、おまえ大丈夫か」というふうに聞こえたわけです。「おまえは俺を見舞って、元気づけようと思って来たかもしらんけど、おまえも死ぬんやぞ」と。

 自分は健康な体で、むこうはもうあと余命わずかだということは知っていたのです。しかしなにも言葉が出てこなかったわけです。それを見抜くかのように、「癌でなくても死ぬからな」って言われた。ようするに、生きている人間がいるだけです。片や健康で、片や病気をかかえているという違いはあるかもしれませんが、どちらかが元気づける側で、どちらかが元気づけられる側って、そんな関係じゃないですよね。その方の「おまえ大丈夫か」と聞こえたその言葉で、自分の人生を見つめ直す機会をいただきました。そのお言葉はずっと残りました。

 人のことを心配するのはたいへん尊いことですけども、自分が大丈夫かということを横に置いておいて、私がなんとかしてあげます、私が支援する側ですとか、私が助ける側ですというのは、どこかおめでたいんじゃないでしょうか。場合によっては、相手をかわいそうな人として上から見下ろしているかもしれません。

 そういう助ける側と助けられる側という関係ではないと気がついたのが、「げにげにしく『三部経』を千部読みて」という言葉になっているんです。いかにも坊さんらしく、いかにも助けられるような顔をして読んだ。しかしそうではなかったということです。だからやめたんですよ。

 そのことがここに出てきます。

名号の他には、何事の不足にて、必ず経を読まんとするやと、思いかえして、読まざりしことの、さればなおも少し残るところのありけるや。(聖典六一九頁)

 「南無阿弥陀仏」と阿弥陀仏を念じて、阿弥陀仏にたすけられていく以外に、なにの不足があってお経を読もうとするのか。二十九歳の時には、行き先がたとえ地獄であっても、阿弥陀仏を念ずるところに、そこにも道をいただいていくということで決着したはずです。状況が好転するから生きられるとか、状況が悪くなるならもう生きていられないのではなくて、良い悪いを言っていることから解放される道を法然上人から教えていただいたはずです。ところがそのためにお経を使ってとはいえ、自分が良いほうに向けますよとなっている。これは南無阿弥陀仏を忘れて、救うとはこういうことだとか、私はそれをできるはずだとか、こういうところにいるわけです。

 そう思いかえして読まなかったことが、五十九歳になっても「なおも少し残るところのありけるや」というんですね。四十二歳の時にお経の力を借りて私がなんとかしてやるというようなことは離れたはずなんですよ。もっと言えば、二十九歳の時の「生死出ずべき道」という原点に立ち返ったはずなんですが、それが十七年経ってまだ残っていたようだと、親鸞聖人はおっしゃっているんですね。

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Last modified : 2022/03/30 17:47 by 第12組・澤田見(組通信員)