紫式部
吾(われ)、唯(ただ)、足(た)ルヲ知ル?

 松原市内の大きな園芸店で、ちょつと変わった手洗石(直径49センチ、高さ25センチ)をみつけました。欲しくなって、早速運んでもらうことにしました。真中に縦横20センチの水の入る四角い穴があり、上下左右に中途半端な文字が彫られています。石庭で有名な、京都の龍安寺の手洗石をまねて作ったもので、禅僧の字遊びの一つと言われていますが、四文字の合成文字で、真中の口と合わせて上、右、下、左と読んでいくと、「吾、唯、足ルヲ知ル」となります。「私は、ただただ、満ち足りていることを知る」と言うことです。

 この世の中、満足できるどころか不満ばかり、私たちの人生も、なかなか思うようにならないことばかりですが、その中で満足はできないが、時と場合によっては、妥協して、次の一歩を踏み出していることも多いのではないでしょうか。

 それにしても、60歳も過ぎると、個人差はあるものの、体力・気力でも食事の量でも無理がきかなくなって限界を感じるようになります。いくらがんばっても、身体のほうが正直でごまかせません。と言って、一つ一つそれで満足しているかと言うと、なかなかそうなりません。まだまだ元気だ、まだ何とかなると思っています。

 私たち人間というものは、実に勝手な、厄介なものです。

 いつでも、自分はまとも、自分こそ正しい、自分は善人だと思い、自分さえよければよいと思っています。また、損か得か、苦か楽かの生活から一歩も出られません。そして、お金もほしい、物もほしい、もっともっとほしい、まだまだ足らんと限りがありません。都合のよいことは大歓迎、都合の悪いことはあっちへ行け。人と比べて、勝った負けた、何かあると人のせいにしてしまいます。目先の楽しみだけを追いつづけ、煩悩にふり廻わされて右往左往して迷い続けているのが私たちではないでしょうか。

 なかなか、私たちは、「ただただ、満ち足りていることを知る」といった心境にはなれません。親鸞聖人も、

「凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず。」(『一念多念文意』)

と、私たち人間の生きざまをきびしくみつめられています。

 このような私たちも、仏の智慧(光明)に照らされてはじめて、自分の心の闇、わがままな私、欲深い私の姿、そしてその中で分を知ることの大切さにも気づかせてくださるのではないでしょうか。

(平成14・10・1)

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Last modified : 2014/12/10 3:21 by 第12組・澤田見(ホームページ部)