シャガ
「今」がいただける

 お通夜や告別式にお参りします。お参りに来られた皆様方、口々に「お気の毒に」「かわいそうに」などとおっしゃっています。なかには自分とは無縁のことだと思っている人もいるのではないでしょうか。

 しかし、人ごとではないのです。もし、明日自分がそうなっても少しも不思議ではないのです。私は、自分が死すべき身であるということを忘れていたのです。人生、80年というと、80歳までは自分の命はあると思っていました。しかし、それは妄想であったのです。老人や重病人など死を直前にしている人たちだけの問題ではありません。「老少不定」(ろうしょうふじょう)、若者にとっても、明日ありともわからぬ今を生きているのです。娑婆の、この世界、この世に生まれて来たからには、いつどんなことが起きるやら、どんな目に遭うやらそれはお互いにわかりません。

 身近な人の死に出遭(であ)うと、生きていることの不思議さと、明日ありともわからぬ身ゆえ、「今」を精一杯生きなければならないことを教えられます。

 今年の3月18日付の朝日新聞の「声」の欄に、73歳の男性の方が「『死』を考えて今日を生きる」、続いて4月4日付には41歳の男性の方が「残りの人生を大切に生きる」という投書が載っていました。いずれも、死すべき自分であるという自覚から、自分に残された人生を美しく、よりよく生きていこうという内容のものでした。しかし、やがては死すべき自分であると自覚することは、なかなか難しいことです。

 明日もあると思うから、大切なことを後廻しにし、空しい日々となります。明日あるとは限りません。それがわかったら、じっとしておられません。「今」が真剣勝負です。人生は、「今」の連続です。明日ありともわからぬ身であるが故に、一瞬一瞬「今」を精一杯、大切に生きるのです。そこに、いつ命が終わっても完全燃焼の人生があります。しかし、その「今」を自覚するのは、「死」ということを通して可能なのです。念仏の「念」はそういう「今の心」なのです。

 「救いとは/どうにかなって/ではなく/今が/いただけることである。」

(平成5・5・15)

Pocket

Last modified : 2014/12/10 12:31 by 第12組・澤田見(ホームページ部)