ポインセチア
「対治」と「同治」

 「対治」「同治」という言葉があります。「対治」(たいじ)とは、煩悩を断ずること、退治することで、励まし、激励です。頑張るということです。

 「同治」(どうじ)とは、慰めです。親鸞聖人は、「同治」です。相手の目の高さまで自分を下げてゆくのです。相手と同じ気持ちになるのです。

 たとえば、発熱に対して、「氷で冷やして熱を下げる」のが「対治」、「温かくして、汗を充分かかして熱を下げるのが「同治」です。

 寒い日に息子や孫が、夕方、「ああ、寒かった」と帰って来ます。どのように迎えてあげるか。「対治」でしたら、「寒い寒いと言うな、若い者が何言うとるか。寒うてええのや。冬、暑かったらどうするんだ。」

 「同治」は、「寒かったやろ。先に、ご飯、食べるか、それと風呂に入るか。」こう言われたら、心も落ち着きますね。

 「今の宗教は、対治があってはならん。対治は激励です。頑張れです。やはり、同治、慰める、これが大事だ」と言われます。

 私も、以前、お年寄に励ます積りで、「元気を出して頑張ってください」と言ったら、「どう元気を出して、頑張ったらよろしいねん。もう、しんどまっさ」と言われて、ハッとしたことがあります。

 「年をとったら身体のあちこちが悪くなって来るし、だんだんさびしくなって来ますわ」と言われます。お年寄を励ましたり、病人を見舞ったりする時、つい「頑張ってください」と、言ってしまうことが多いのです。

 病人に向かって頑張れと言うのは、一番残酷なことなのです。医者も看護婦も、見舞いに来た人もみんな言います。しかし、病人は頑張れないのです。

 付添に来ているお母さんが言っていました。「重い病気で入院しているわが子に、見舞いの人は、頑張ってと言いますが、頑張らない日はないのに、これ以上何を頑張ればいいのでしょう。」

 また、「いやー、頑張れと励まされるのが一番つらいよ。その度に、病気のほうが頑張り出してね。」亡くなった人が、生前に漏らしていたということです。

 重い病人に頑張れと激励したり、励ましたりすることは到底できません。「無理をしないで」とか「お大事に」と、それとなく書葉を濁してしまうことが多いのですが、ただ黙って傍に座わって手を握ってあげる、苦しんでいる人の手に手を重ねて共に涙を流すような姿勢が「同治」なのです。

 あの阪神大震災の時、神戸の奥さんが、「どなたに出会っても頑張りなさいと言ってくださる。気持ちはうれしいけれど、あんまり言われると重荷になります。頑張ろうと思わんでも、ひとつやってみようとカの湧く時もあります。なんぼ言われてもどうにもならん時もあります。そっとしておいてほしい。」としみじみ言っておられました。

 「頑張る」(がんばる)は、岩波の『広辞苑』に「我に張る」が転じて「頑張る」(あて字)
に。

①我意を張り通す。(まちがいないと頑張る)。

②どこまでも忍耐して努力する。(成功するまで頑張る)

③ある場所を占めて動かない。(入口で頑張る)

とあります。

 児童文学者の吉岡たすくさんの本に出ていた小学生の作文です。

 「私のお母ちゃんはのんびりしています。いつも笑っています。私は走るのがにがてです。いつもおそいのです。かけっこすると、いつもビリでした。家に帰ってお母ちゃんに『また、ビリやった』といいました。

 すると、お母ちゃんは、「ビリでも大事ないよ。一生懸命に走ったんやろ、それでいいんや、ビリの子があるから、一等の子ができるんや。気にせんでもええ」といいました。私はホッとしました。私はお母ちゃんの子に生まれてきて、よかったと思います。」

 ほのぼのとした光景が眼に見えてくるようです。

 「頑張りや、負けたらあかんで」「負けたら承知せえへんで」追いつけ、追い越せ式で、子どもの勉強の出来、不出来に血眼になっているお母さんの多い中で、何という大らかな、軽々とした生き方をしているお母さんかと思われます。おそらく、このお母さんからは、「頑張れ」などという言葉は出て来ないでしょう。

 悲しんでいる人に、「悲しんでも仕方がない。頑張れ、元気を出せ」と言って悲しみから立ち直らせようとするのが「対治」、一緒に涙を流すことによって、心の重荷を降ろさせてあげようとするのが「同治」です。

 「同治」の中には、悲しみの心が流れていると思われます。涙が隠されているのではないでしょうか。

 親鸞聖人は、煩悩を断ずるのではなく、あるがまま、私を生かし給う大きなカにおまかせしていくのを「そのまま」を受けとられました。本願の自然(じねん)のはたらき、これが「同治」ということでありましょう。

 慈悲の「悲」という字には、「同化」することの意味がこめられているように思われます。「共に悲しむ」、ひとの苦痛を自分の苦痛のように感じ、ひとの悲しみを自分の悲しみのように悲しむ。何を言わなくてもひとの悲しみを二人が背負うと、その分だけだれでも楽になるはずです。

 自分も共に涙することで、ひとりの悲しみの涙を半分にしようという、ごく控えめな姿勢が「悲」というはたらきの中にあるように思われます。

 慈悲の「慈」には、いつくしむ、楽を与える、「悲」には、うめき、あわれむという意味があります。

 本願寺三世覚如上人のお書きになった『口伝紗』(くでんしょう)の中に、「凡夫として、毎事勇猛(まいじゆみょう)のふるまい、みな虚仮(こけ)たる事」というお言葉があります。勇猛とは勇ましく猛々しいこと。そのふるまいは、皆嘘偽わりだというのです。くだいて言いますと、よい格好をするな、強がりを言うな、それは皆嘘偽わりだということです。

 この言葉の後に「凡夫は、ことにおいて、つたなく、おろかなり」とあります。つたなく、無様(ぶざま)だとおっしゃるのです。ですからよい格好をしても続かないのです。

 頑張ることはいらん、無理をしなくてよい、無理をするな、楽に生きよ、そのまんまでよいぞ、凡夫という者は、悲しく、無様で、弱い者だ、それでよいのだとおっしゃっている。悲しかったら悲しんだらよい、嬉しかったら喜んだらよいのです。

 だから、私たちは、安心して、この教えを聞かせてもらい、よかったなとその喜びを胸に秘めて、毎日の日暮らしを歩まさせてもらえるのです。

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Last modified : 2014/12/10 12:54 by 第12組・澤田見(ホームページ部)