3 つながりを生きる

 さて、この大会のパンフレットに書かせていただきました、この「つながりを生きる」ということで、正確には昭和58(1983)年1月9日の京都新聞に載せられておりました投書でございます。21年前になります。その投書には、「自らいのち断った娘、生きる尊さ教えたかった」という、これは記者が付けた題かもしれませんが、綾部市の方がお書きになった投書です。こういう文章を投書しておられます。

 「悲しい正月を迎えることになりました。中学三年生だった二女が亡くなって二十日余りになります。二女は今春の卒業と進学の喜びを捨てたのです。父として今、失った春の重さにうちひしがれています。二女は自分の意志でわずか十五年の人生を断ちました。あまりにも短い歳月でした。葬祭を片づけ、来客で日が暮れて、妻は今も夜ごとに、失った娘を偲んで泣いています。寂しくなりました。年老いた足の不自由な母は、孫を亡くすなど死ぬ順番が違うと訴えます。今は高校二年の長女の優しさと明るさだけが、一家の支えとなっています。たくさんの人に驚きと大変なご迷惑をおかけしました。こんな多くの人とのつながりの中に自分があるのをどうしてもっと死んだ娘に教えてやれなかったのか。それが無念でなりません。父母があって自分があり、社会があって己があるのです。その自己が、家庭、学校、社会生活で重要な一因であるのを、どうか皆さんはわかってください。」

 そういう祈りといいますか、願い。そういう言葉でその投書は閉じられています。そこにわずか十五歳、中学三年という若さでそのお嬢さんが自らいのちを断ってしまわれた。その事実にそれこそ呆然としておられたのでしょう。お通夜、葬儀、次々と続くその営みの中に実にたくさんの友だちや、あるいは関係の人々が集まってくださった。そのたくさんの人々を見ているうちに、お前はこれだけの多くのいのちのつながり、これだけ多くの人々のいのちのつながりをその身に恵まれて、生きていたのではないのか。そのことがわからないままに、一人、自分の思いの中で絶望に陥り、自分の思いの中で一人寂しく死を選んでしまった。何かもう少し「いのちのつながり」があるのだということを子どもに伝えてやれたら、こういうことにはならなかったのではないかと。まさに、父親としての無念でございますね。そういう父親としての無念を訴えておられました。

 そしてだからこそ皆さんは、どうかそういうつながりの中に生かされてあることということを忘れないでほしい。そのつながりというものを本当に大切に大事に生きてほしいと、こう訴えておられるわけでございます。その中に、「こんな多くの人とのつながりの中に自分があることを」と、書いておられるのですね。

 自分がつながりを持つのではございません。つながりの中に自分というものを与えられてきているわけでございますね。私というものがまずあって、そしてその私が周りのいろんな人とつながりを持っていくのであれば、それならつながりは、私のいのちの外のことでございます。いろんな事情でそのつながりが失われても、私は私だと、そういうことにもなりましょう。けれどもそうじゃない。私のいのちの事実は、つながりのほかにないのですね。決して外のものとつながっているのではない。私のいのちの事実として、いのちの中につながっている。

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Last modified : 2014/01/27 22:50 by 第12組・澤田見