7 共なるいのち

 善導(ぜんどう)大師が、『観無量寿経』という経典の心をはじめて明らかに教えてくださいました。よくご存じだと思うのですが、阿闍世(あじゃせ)という王子が提婆(だいば)という友だちにそそのかされて父の王を殺し、自分が国王の位に就こうとする。その国王、頻婆娑羅王(びんばしゃらおう)を捕らえて、牢に閉じこめて、一切飲み物も食べ物も口に入らないように、自然に死ぬのを待つということをする。それに対して、妻であり阿闍世の母親である韋提希(いだいけ)は、いろんな苦心を重ねて、その牢屋の中の夫、頻婆娑羅王のもとに食べ物、飲み物を届ける。しかしそれが発覚して、阿闍世に髪の毛を握られ引きずり回されて、そしてその刀をもって今まさにその首をはねられようとする。その時に、二人の大臣が止めに入り、いのちだけは助かるのですが、韋提希も牢に閉じこめられる。それでその牢に閉じこめられた韋提希がですね、そこに「愁憂憔悴(しゅううしょうすい)」という言葉で説かれていますが、憂いの心でもう全身が憔悴しきってしまう。「愁憂憔悴す」と書いてあるのです。

 それを善導大師が、おかしいじゃないかとおっしゃる。なぜならば普通なら今まさに殺されようとした時に、大臣のおかげで一命が助かったのだから、もっと喜んでしかるべきではないのか。韋提希はもっと喜んでしかるべきなのに、なぜ「愁憂憔悴」と、憔悴するほどまでに憂い、悩むのかと。こういうことを問うておられます。

 そして善導大師は憂いに三つの理由をあげておられるのですが、その一つは阿闍世に対する愚痴の言葉でございますね。「なんでこんな子が」という思いです。父、頻婆娑羅王を殺そうとして牢に閉じこめ、助けようとした母親の私までをも、こうして牢に閉じこめる。こういう阿闍世とどうして私は親子でなければならなかったのかと、こういう言い方をしておりますね。善導大師は、何でこんな子と共に親子となったのかと、こういう書き方をなさっておられます。普通なら「この子は私の産んだ子だ」、その私の産んだ子が「何でこんなに悪い子なんだ」と、こういう愚痴になるのでしょう。ところが韋提希のその言葉は、「何でこんな子と共に親子でなければならないのか」と、こういう言い方をしております。つまり、そこに「共に」ということで押さえられていることは、「共なるいのちの事実」でございます。

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Last modified : 2014/01/27 22:50 by 第12組・澤田見