8 響きあうもの

 阿闍世と私。私と頻婆娑羅王。いろいろな人間関係を持って生きている。その人間関係を持って生きているということは、実は、共なるいのちをいきているんだと。その共なるいのちを私は母親として、妻として、そして阿闍世は子どもとして生きている。生きられているものは、共なるひとつのいのちの事実。いのちがつながっておればこそ、そういう母となり子となり、そしてまたそういう争いの中で、いうならば相手を切り捨てることがそのまま自分自身の在り方を失うということになる。

 これは共命鳥の胴体でございますね。私とあなたは、一つのいのちを生きているということがなかったら、出会うこともないでしょうし、もう知らない、あんな人は関係ないと、切り捨てるということも自由でございましょう。だけれども人間には、関係を否定して切り捨てることが、そのまま自分自身を失ってしまうことになる。そういうつながりが一番根っ子にございます。親子関係ということもそういうことでございましょう。夫婦関係もそうでございましょう。また友人関係もそういう、外に一人ひとりが別々のいのちを生きておって、たまたま仲がいいから一緒にと、そういうことではなくて、そこに何かいのちの響きあうものを感じている。いのちが響きあうという体験がそこに与えられる。そういうことがあって、はじめてつながりというものが、恵まれてくるのだと思います。

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Last modified : 2014/01/27 22:50 by 第12組・澤田見