9 帰去来(いざいなん)

 私どもは今日、本当につながりを一所懸命に求めております。親子の断絶、夫婦の断絶、そして友だちとの間も、本当の友だち関係というのもなかなか持てないで苦しんでおります。さらに広く言えば、民族間の断絶。同じ民族の中でも主義主張による断絶。

 そしてそれを憂いてどうすればいいかと、いろいろ智恵を絞っております。けれども智恵をしぼってずっとやってきたのですけれども、人間というものはもうこれで3000年近く、つまり人間の歴史の始まりと同時に、戦争ばかりしてきたのですね。

 いつもご紹介するのですが、私は昭和6年(1931)生まれでございますから、生まれた時には満州事変がございました。そして、小学校に入りました年に日中戦争が始まり、5年生の時に大東亜戦争。このように戦争の時代でございました。そして小さな子どもの時代にいつも聞かされたのは、「今は非常時だから我慢しなさい、欲しがりません勝つまでは」という言葉です。ですから私は、非常時というのは戦争の時代を表す言葉だと思っておりました。

 ところが、カントという方がおられます。その方の書かれたものを読んでおりましたら、「非常時とは平和の時だ」と書いてあるのですね。そして「戦争こそが人間の常時だ」と書いてありました。これはカントが深い悲しみをもって書いているのでございましょう。人間の歴史を振り返ったら、本当に戦争ばかりを積み重ねてきている。そして武力では何一つ本当には解決しないのに、未だに武力を手段として、何かつながりが開かれるかの如くに、思いなしている。そうではないのでしょう。そこに何か、思いのところに立って、その思いを尽くしてどうしたら一緒になれるか。妥協してみたり、屈服させてみたり、いろいろと人間、理智を働かせて、やってきたわけでございます。

 しかし、それはついに本当の人間としてのつながりを開く道にはなっていない。お一人おひとりが善意で、イラクに入って行かれた3人の人が捕らわれて、そしてそれがまた駆け引きの道具にされるというようなことが起こりました。本当に人間の理性とこう言っていますが、そういう人間の理智、理性というものが、いかに無力といいますか、本当の人間としてのありようを開いてこれない、そういう事実に対する深い悲しみを持たずにおれません。

 そうではなくて、そこに善導大師は、「さあ帰ろう」と私どもに呼びかけられております。理智を働かせて、理想を実現しようと、向こう向こうへ行くのではなくて、「さあいのちの事実に帰ろう」と。いのちの事実は、たくさんなつながりのおかげである。そのいのちの事実に帰ろうじゃないか。「帰去来(いざいなん)」という言葉で、善導大師は呼びかけておられます。

 そしてそのためには、「仏に従いて、本家に帰せよ」と。本来の家に帰れと。こう『法事讃』でおっしゃっておられます。仏に従ってということ、それは仏の心を常に聞きながら、その仏の心において歩もうではないかということです。私どもの理智に立つかぎり、決して本当のつながり、人間としてのつながり、そういうものはもはや開かれないということ。この長い歴史の果てに、今ぶつかっている現実が、本当に身に痛く、教えてくれているではないか。まさに念仏申すということにおいて、いのちの事実、賜っておるいのちの事実にお互いが帰る。そこにつながりの中に、つながりを私として賜っていた、そのいのちの尊さを改めて受け止めていこうではないかと、そういうことを善導大師は、「帰去来」、「いざ帰ろう」と、こう教えてくださっていることを思います。

 この「つながり」という言葉を改めていただきまして、そういうようなことをいろいろと思わずにはおれなかったわけでございます。

 大変、不十分なことで申し訳ございませんが、これをもってお許しいただきたいと思います。どうもありがとうございました。

2004年4月10日/第35回大阪教区同朋大会・午前の部講演

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Last modified : 2014/01/27 22:50 by 第12組・澤田見