心 /難波 教行

文字を書く、歩く、座る、じっとする等々、数えあげたらきりが無い、ごく日常的なことが困難である障害を僕はもっています。病名はジストニア。症状は筋肉が緊張し不随意運動が起こるというものです。自分の思う通りに身体が動かないと言えばわかりやすいでしょうか。

「そんな人間がどうやってこの大谷大学で授業を受けているんだ?」こんな疑問がわくでしょう。いや、その前に「どうやって入学試験を受けたんだ?」と思う方もいるかもしれません。

入試は公募推薦、と言っても文字を書くことが出来ない僕。ワープロで受けさせて頂きました。それでも制限時間の2時間以内では到底書き上げることは出来ません。6時間もの時間を頂きました。かといって当時は今よりも体調が悪く、全く座れませんでした。畳敷きの別室で体を横たえながら受験させて頂きました。最近では何とか座れるので着席して授業を受けさせて頂いていますが、もしまた座れなくなれば横たわりながら受けさせて頂けるそうです。

こんな風に試験や授業を受けられるのは、確かにワープロや場所といった物も大切ではありますが、それ以上に大切なのは人の心です。僕が試験や授業を受けていて、日々生きていて、本当に助けられた、本当にありがたいと思うのは誰かの優しい心に触れた時なのです。障害者・健常者を問わず本当に誰かを助けることが出来るのは誰もが持っているわけではない物質的なものではなく、誰もが持っている心なのだと僕は思います。

この社会では障害者と健常者という風に2つに分けています。でも障害者と健常者に分けること自体、僕は不毛だと感じます。障害者と健常者に分けることはそれ程重要なことでしょうか。実際に考えてみてください。もちろん初対面の人であれば、障害者と健常者に分けて見てしまうかもしれません。しかし、例えばあなたが心の通じた友人と会う時、障害者とか健常者とかいちいち考えるでしょうか。きっと誰もがそんな分け方をせず、個人個人を一人の人間として見ているはずです。障害は個人の問題ではなく、生身の人間が様々な状態を持つことは当然で、一人一人が誰とも違うかけがえない自分なのです。だから命は尊いものなのです。

障害者は確かに多くの手助けを必要とします。でも誰だって誰かに支えられて生きています。誰かの心ある手助けさえあれば、障害者であるとか健常者であるとか、きっと関係なくなるに違いありません。

病気であること、障害があることは確かに良い気分ではありません。心身共に辛く泣くことは発病から10年以上経った今でもあります。でも病気や障害は本当にマイナスでしかないものなのでしょうか。もちろん病気を治そうとしている事実がある以上、僕自身、病気や障害は悪いものではないとは決して言うことはできません。しかし病気のおかげで出会えた人がいます、出会えた幸せがあります。その事実もまた否定できません。そしてその事実はマイナスによって決して打ち消しあい、消えるものではありません。

今までに「病気でなかったらどんな人生を歩んでいただろう」「病気なんかマイナス以外何ものでもない」と考えたことは幾度もあります。でも病気がなかった人生なんていくら考えても分かるはずもありません。そして僕は病気であることを含めて僕であるのです。病気であることに「ありがとう」と思えたことは残念ながらありませんが、もしこの人生を力いっぱい悔いのないように生きることが出来れば、病気であることに感謝できると思います。これから先、僕がどのくらい生きられるか、そんなことは分かるはずもありませんが、いつかきっと病気に心の底から「ありがとう」と思えるように日々歩んでいきたい、そう心から思います。

(大谷大学100周年事業 佳作入選作品)

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Last modified : 2014/01/10 21:56 by 第12組・澤田見