情報としての仏教/沖野頼信(dew)

伝わっていくもの

「IT革命」とは「情報伝達技術の革命的な進歩」という意味です。これで世の中が変わるのか、またはぜんぜん変わらないのか、今のところわかりません。
仏教は「情報」です。紙に書かれた文字がヒマラヤを越え砂漠を通り草原をわたって伝わりました。
『歎異抄』は「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて・・・」から始まります。これは、わたしには「弥陀の誓願」という経典の中の文字、つまり情報の持つ不思議な力によって救われるのだ、と読めます。情報伝達の技術の進歩で、もっとも大きな影響をうけるのは、もしかしたら「情報としての仏教」なのかも知れません。

釈尊が五人の修行者に最初に仏法を伝えた場所、インド・サルナート

釈尊が五人の修行者に最初に仏法を伝えた場所、インド・サルナート

「情報」とは「伝わっていく」ものです。伝わらなければ情報ではありません。したがって仏教も、はじめから伝搬させなければならないという宿命を持っていました。

先人たちは仏教を伝えるために、さまざまの工夫と努力をしました。伝わるというのは二種類あります。一つは空間的な伝搬です。仏教は四方八方へたくさんの国、あらゆる民族に伝わり、多くの言語や文字に翻訳されました。もしも仏教がインド以外の国へ伝搬していなかったら、仏教は12世紀に完全に滅亡していました。

もう一つは時間の方向、つまり未来への伝搬です。仏教を滅ぼさないように、後生へ伝えねばなりません。そのためにはその時代その時代の人々が救われるような仏教が必要です。ほんとうの意味での「法義相続」は変化させないぞ、と頑張ることではないと思います。

考えてみると仏教の伝搬には多大の努力と莫大な費用がいります。それを支えてきたのは「宗派」といわれる社会的な機構です。「宗派」は本山や大学を持ち、権威をもって寺院や僧侶を育成し統括しました。また仏教を保護し研究し変化させ伝搬する役目をにないました。もしも「宗派」という機構がなかったら、仏教はとっくに姿を消していたと思われます。

権威主義からの脱出

さてここで「IT革命」の時代が始まります。仏教にとって何が革命的かというと、情報を全世界に自由に容易に安価に伝えることができること。
それから、その情報や情報の提供者を、いろいろな意味での「迫害者」の手の届かないところ、つまり「インターネット」の中に置くことができるという二点です。
これは「宗派」がその役目を半ば終えたということかも知れません。

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アショカ王のライオンの石柱、仏教を庇護した王はインド中に多くの石柱を建てた

仏教には大いに関心があるけれども、坊さんとかお寺とか教学とか宗派とかが大嫌い、という人によく出会います。この坊さんとかお寺とかは社会的な機構ですから、心の問題であるところの仏教と、あまりそぐわないところがあるのかも知れません。また嫌いな理由に、宗派などの持つ「権威主義」的な傾向をあげる人がいます。

インターネット時代の仏教は、その権威主義の残滓をできるだけ取り除いて「みんなの仏教」を標榜しなければならないでしょう。「同朋会運動」などは字面からは「みんなの仏教」なんですけどね。

だいたい権威主義者というのは横着者のことです。それはお釈迦さまはすばらしいとか、親鸞聖人は間違いない、などを出発点とします。ほんとうはそれらは到達点のはずですね? 権威主義は仏教の一番大切な部分の学習を省略させてしまうものです。

仏教についてのお話は、お坊さんよりも、作家先生とかお医者さんなどお話が珍重されるのは、お坊さんは権威主義に毒されていて、話が教条的で決まり切っていて面白くないことを、みんな知っているからです。

権威主義から脱出するためには、お釈迦さまや親鸞聖人を「客観視」できなければなりません。いったい何を私に教えようとされているのか? またその教えは私を救うのか?という段階を経ていない坊さんの話は、正しいことを言っていても、いっぱい知識が詰まっていても、聞くに値しないと私は思っています。

外向きということ

仏教を誰かに伝えようとするとき、その誰かは外側の人にきまっています。それは今まで仏教をまったく知らなかった人とか、聞く機会がなかった人とか、仏教が大嫌いで、むしろ仏教の敵にあたるような人のことです。

インド・ナーランダ大学。三蔵法師が「唯識」を学ばれた場所。12世紀に破壊される

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仏教はいつの時代でも外側に向かって語られていたはずです。それがいつの間にか仲間うちだけで語られるようになってしまいました。法話の対象をお坊さんとかお寺の人たちとか檀家の人たちに限定してしまっていました。

関心が内側に向いたとき、その宗教は滅びに向かいます。というよりも、とっくに滅んでしまっているのに、そのことにまだ誰も気付いていない状態とも言えます。

それでは外向きの仏教とはどのようなものでしょう。

  1. 易しい言葉、日常的な言葉、現代の言葉を使うこと。
  2. かるく楽しいこと。楽しくなければ仏教ではない。深刻ぶった事大主義や、重箱の隅をつつくような煩瑣主義や、セクト間の争いなどは外向き仏教にはふさわしくありません。
  3. 権威主義に陥らないこと。
  4. 仏教を客観視できること。

最後の二つはむつかしいですよ。これは仏教の学習方法まで変えることになりますからね。

このように並べてみると、外向きの仏教というのは、べつに新しい珍奇な主張ではなく、至極あたり前のふつうの仏教のことであることがわかります。

「IT革命」によって仏教は新しい時代に入ります。そして社会環境や政治やナショナリズムなどからの自由、それからまた宗派や教学やお寺やお坊さんなどからも自由な、人類すべてのための新しい仏教が生まれようとしています。

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Last modified : 2015/02/24 10:59 by 第12組・澤田見(ホームページ部)