「障害者」という文化圏 -共に生きるということ-/頼尊 恒信

阪神大震災という一つの全く予期していなかった大きな天災を契機に、日本の福祉は、大きく展開した。このことから、その年をボランティア元年と呼ぶ人がいる。

日本における「ボランティア」に対する姿勢の大きな転換点となったのは私が言うまでもないことであろう。 私は、今から23年前、大阪の大谷派の寺院子弟として産まれた。

出産時のトラブルが原因で脳にダメージを受けてしまい、四肢と言語に障害を伴って、この世で生きることになったのである。

勿論、出産時のトラブルであるので、いわゆる「医療」と密接な関わりを持っている。

そのような中で思うように動いてくれない身体と23年間、一緒に生活してきたわけで、ある意味では、「不自由な生活」を強いられてきたのかも知れない。

それ故に「思うように動けない」ということに苦しみ、悩んできた。その中で、自分なりに考えて来たことがある。このご縁を通して皆さんと共に考えていきたいと思っている。

「自分が障害について考えてきたこと」と一言でいっても、言い尽くせない。とりわけ、私の心の中で「マイブーム」となっているのが「共に生きる」という言葉である。

この言葉は「福祉」の世界ではと言うより、今や「流行語」となっている。この文章を見て「初めて聞いた!」という人は稀れであろう。

そんないわば「使い古された言葉」であるけれど、私の今から言わんとする「共に生きる」という言葉は世の中で使われている「共生」という言葉の少し意味と違う。だからこそ、マイブームとなっているのである。

私は、今まで小・中・高等学校で、健常者と共に学んできたので、高校に入るまでは、週一回リハビリのために専門の病院に通っていた。そこで「障害者」と呼ばれる人と出会う他は、障害者と出会う機会がなかった。

ところが高校に入学して、ふとしたきっかけで3歳からリハビリのつもりで始めた水泳を、今度はパラリンピック出場を目指した競泳に転向することになった。そして高校2年の春、初めて障害者の水泳連盟が主催する強化合宿に参加したのである。

勿論、障害者の水泳連盟が主催であるから、参加選手は全員、「障害者」である。その時、初めて大勢の障害者、しかも勿論全員、水着姿の障害者を見たのである。その光景に、私は一種のカルチャーショックを受けた。

「ここ、俺が来る所じゃない」と一瞬、本当に叫びそうになった。 あの「不思議な体験」から、もう6年という歳月が経過した。その間、色々なご縁で数多くの「障害者」と出遇う機会を得た。

その中で思うのが、障害者には独特の「文化」が根付いているということである。

それは、「言葉」ひとつを取ってみても、障害者の中でしか通じ得ない言葉の概念を持ち合わせている。そこには、苦難の「歴史」を持つ。また、その歴史につちかわれた「伝承文化」がある。

その伝承文化とは、障害者の先輩から後輩へと脈々と伝わっている、一種の生活の知恵みたいなものである。表現に少し苦しむところがあるが、そこに確実に「固有の文化」が存在する。

何故、表現に苦しまなければいけないのかといえば、「日本固有の文化とは何か」と聞かれて、解答に苦しむということとほぼ同じであろう。 障害者の「固有文化」について考えようとすると、どうしてもナショナリズムの諸問題と絡み合わせて考えることが中心にあるが、私が今から言い出そうとすることはそういうことでは全くない。

もし、「障害者の固有文化」の存在を認められるなら、翻って「健常者の固有文化」も、「障害者文化」に対峙する形で存在することになる。言い換えると、そこに二つの異質の生活文化が存在することになる。そのような中で「共に生きる」ということは何か。

私なりの解釈では、二つの生活文化が共に生き合うという概念の他にないと思っている。

そこには今まで、「共生」といえば、この「2つの生活文化」の共通項だけを見て来たのではないかという私なりの反省点が存在する。どうしても今まで「障害者」が一般社会に出て、色々な社会活動をするという機会が少なすぎたため、「共生」といえば、健常者の助けを借りて「障害者が社会へ出る」ということの一つのスローガン的に使われてきたことがある。

だからこそ、「共生」と聞くと、私はどうしても、社会参加をするというイメージを払拭することが出来ない。確かに障害者における社会参加の意義は大きいだろうし、私も重要視していることである。

しかし、それは、例えば障害者が一般企業で就労したり、健常者と共に就学したりというように、「社会参加」といった場合の多くは、大半は、「健常者の文化圏」に障害者が入っていくという意味で使われているのではなかろうか。
そこに「二つの文化が共に生き合う」、すなわち「五分と五分の対等な立場で付き合う」という概念を持って使われていることは殆どないのではないか。

言い換えると、「障害者」は、社会の構造から見ると少数派である。だから、健常者という大多数の文化に少数文化が入って生きるこという意味で使用されているのである。

私の視点は、そんなものではない。

大多数であろうが、少数であろうが、ひとつの「文化」であることに違いない。その文化に優劣は付けられない。共に「一つの文化」として独立している。その独立している一つの「文化圏」に属する者が他方の文化圏に属すことほど、大変なことはない。それは、日常的にあることで言い換えるなら、ビジネスマンが海外へ転勤するようなものであろう。

だからこそ、脳卒中など中途に障害を持つことになった人が、「障害」を認識し、受容するまで、相当な時間と労力が必要であるのであろう。それと同じように「障害者の文化圏」で育ってきた人が、健常者の文化圏で生活をするということほど、健常者の文化を受容することが困難なことはないのである。そこには、必ずと言っても良いほどカルチャーショックがある。

何故なら、生活圏が違うということは文化圏が違うことになるからである。 そのような中で、再び、「共に生きる」ということはどういうことかと言うことを考えたい。

まず、「共に生きる」には、圧倒的多数派である「健常者」自身が、「健常者文化という固有文化を持つ集団である」ということを再認識する必要がある。言い換えるならば、今まで、「当たり前」として認識していたもの、すなわち、「勝手に作ったスタンダード意識」から、「多数派という固有文化」を持つ集団であるという意識に替えていく必要がある。何故なら、無意識的な「スタンダード意識」は、自分文化と異にする存在をマイノリティ(少数派)として、無意識的に位置付けてしまうからである。実は、何処にも「スタンダード」という存在はなく、それぞれ「固有文化」なのである。そして、その「固有文化」を保有する集団として意識されたとき、初めて「対等」な対話が始まるのである。

すなわちその「対話」とは、互いの文化を尊重しつつ、共に生きていこうと歩み始めることである。 共に生きていこうと歩み始めること。それは、今までのように多数派の健常者主導の「共通性」だけを尊重し、共に考えていくのではなく、文化同士の対話によって得られた「相違点」をも、互いに尊重しあえるようになるということが、共生への第一歩なのである。

そこに「相違点」を「相違点」として認め合うと言うことは、お互いの「共通領域」と「固有領域」の存在を認めることになり、「固有領域」の存在を認めるということは、お互いの「生活分野」、すなわち誰にも侵されない文化領域を確保し、保持することを認め合うことになるのである。

この関係は、基本的には社会的対人関係のすべてに該当することであろうが、障害者福祉の世界では未だこのような関係性を意識せずに今に至ってきている。むしろ、健常者というスタンダードに障害者の固有領域を合わせるという形でしか「共生」への道がなかったといっても過言ではないであろう。いわゆる障害者独自の「固有の生活文化領域」という、本来「輝くべき文化」を失って、無理矢理にでも、健常者の文化圏の生活ペースに合わせてきたということが現実にはあるのである。

お浄土の世界観を説いて下さっている経典に「青き色には青き光、黄なる色には黄なる光、赤き色には赤き光、白き色には白き光あり。」という文章がある。

これは「お浄土」の世界では、ひとりひとりの個性に応じて、ひとりひとりがその色の光を放つ、すなわち、その「個性」のままで、生命を輝かせて生きていくことが出来るというみ教えである。

しかも、それは、様々な人間が一色に染まることなく、それぞれの「個性」のある色で輝いていくことが出来るというのである。しかしこれは、「お浄土」の世界観である。

我々の住むところは、あくまでも、「五濁悪世」、「穢土」と呼ばれる世界である。
すなわちそこには「青き色には青き光」ではなく、無理矢理にでも「青き色」が「白き光」を放たねばならないような「現実世界」がある。もっと言うならば「青き色」が「白き光」を放っていても、「放っている」ことすらも気付かない世界がある。しかし、ひとたび「お浄土」と呼ばれるところの教えに触れると自分の持っている色に気付かされ、「自分の色以外の色」を放っていたという私の愚かさに、つくづく気付かされるのである。

自分の持っている色に気付くということは、他の色の放っている光も大切にしようと気付かされることになるのである。かといって、それぞれの色が、それぞれの光をもって生きることが出来得る世界が現実に存在させることが出来るのかといえばそうではない。あくまでも、お浄土という「仏土」は、衆生と呼ばれる人間が建立できる世界ではない。

あくまでも法藏菩薩が、五劫といわれる人間の知能では考えることすら出来なくなるような途轍もなく長い時間をかけて、阿弥陀仏となられて建立された世界である。私達が、少しばかり仏教を聞いたからといって、阿弥陀仏と同じ「国土」が建立できるものであれば、仏教は不要なものになるだろう。

しかしながら、「お浄土」というみ教えを聞いて、常に「自分の色以外の色」を放っている、自分自身の愚かさは、気付かされることが出来るであろう。また、それと同時に、自分自身だけではなく、ありとあらゆる人が、「自分の色」や「自分の輝き」を見失っている現実世界を痛ましく感じることは出来るであろう。その「痛ましさ」は必ず人間の「生き方」をかえていくものとなる。本当に「自分の色の光」に生きようとする歩みが始まってくるのである。

話を繰り返すことになるが、健常者と障害者のお互いの文化圏に気付き、お互いを尊重し合う世界が、いつか出来ることを願っているのではない。しかし、そのような世界観があるということに気付き、それに向かって「歩み出す」ことは出来るであろう。しかし、それは「健常者」がスタンダードと、健常者も障害者も誰しもが思いこんでしまっている現実世界の闇をうち破るような光に出遇わなければ、「歩み出す」ことは出来ない。言い換えるならば、その「光明」に出遇わなければ、闇の中で、自分自身の色は見えることは決してない。しかし、ひとたび自分の色に出遇うならば、自分の放つべき自分の色の光が見える。その光は、闇夜を照らし、他者が「光明」と出遇い、自分本来の「色」と「光」を回復していくための道を指し示す確固たる道標となるのである。言い換えれば、その「スタンダード意識」という思いこみが破れるところに、初めて、「共に生きる」世界への第一歩を歩み出すことになるのである。しかし、その「共に生きる」という、それぞれに「色」と「光」が尊重される世界観は、決してお浄土という「仏土」に触れることなく出遇うことは出来ない。でも、ひとたび仏土に触れ、光明に照らされて初めて、仏土より与えられる「眼(まなこ)」なのである。

合掌

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Last modified : 2014/01/10 21:53 by 第12組・澤田見