問い

お葬式で、出棺の時、お茶碗を割ったり、火葬場から帰った時、清め塩をする必要がありますか。

答え

 死は、生きている私達にとっては手の届かない、想像を絶した出来事です。特に自分の死を思えば、限りない不安と恐れがつきあげてきます。したがって、死に関する事は、だれしも畏敬(いけい)の念を持つものです。必ずお互いの身の上にふりかかってくる死を前にしたとき、私達は大きな不安の気持ちにおち入ります。そんな時、周囲(まわり)からまことしやかに、「霊魂は…」というような事を耳にすると、とたんにとまどってしまいます。常識すらも通用しなくなるものです。こういう重大な事実に直面した時にこそ、目覚めた人の教え・仏教に耳を傾け、明快に事を運ぶべきです。

 出棺の時、故人(こじん)が常用していたお茶碗を割る風習があります。地方によっては、家の庭を出る時、棺をぐるぐる三回まわすそうです。これは、霊魂が再び家に帰って来ないように、故人の方向感覚を狂わすのだということです。

 茶碗を割るというのも同じ意味で、常用していた茶碗を割ることによって、死者の霊魂が再び家に帰って来てとりつかないようにというマジナイです。これは死を忌(い)み嫌い、霊に対する異様な恐れを持つ気持ちのあらわれにすぎません。
 仏教では、特に浄土真宗においては、死者についての「霊魂」、肉体を離れた実体的な霊魂というものを認めないのです。「本願を信ずる」ことにおいて、この世が終われば直(ただ)ちに浄土に生まれて仏と成る確信が与えられるからです。従って、死後フワフワと浮遊(ふゆう)して来て、お茶碗やその他の物にのり移るような霊はありません。人情からして、生前親しく共に生活して来た人の大切な持ち物を、死別によって、たたき割ったり、方向感覚を狂わして帰って来ないようにするのは、とんでもない冒とく行為ではないでしょうか。

 また「清め塩」は、現在ほとんどの葬儀で会葬者に手渡され、「清め」をすることが常識のように思われていますが、これも愚かなマジナイです。
 死を「穢(けが)れたもの」と見て、塩で「清める」というのです。生前親しくしてきた人を、亡くなるやとたんに、「穢れたもの」として扱い、自分は穢れのないもののように思い、「お清め」をするとは、何と身勝手な行為ではありませんか。まさに尊厳なる死をもっての教え、遺言を「穢れ」としてふみにじるものであります。

 この身勝手な私の姿こそ、塩などでは清められない煩悩熾盛(ぼんのうしじょう)の穢れた存在であったと気付き、いよいよ清らかなさとりに導いて下さる阿弥陀仏の本願の確かさを確かめてゆく外はありません。

(本多惠/教化センター通信 No.14)

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Last modified : 2014/12/10 14:21 by 第12組・澤田見(ホームページ部)