問い

私の家にはお墓がありませんが、家族の者が亡くなれば、お墓を建てる必要がありますか。

答え

 本来から言えば、お墓は必ずしも必要なものだとはいえません。
 代々、真宗門徒であるというお家には、お墓のない家が沢山あります。

 親鸞聖人は「自分が死ねば、鴨川にすてて魚の餌に与えて下さい」と言われたそうです。しかし、聖人を心から尊敬し、教えを受けた人々は、聖人の亡骸を鴨川に流すわけにはいきませんから、丁重にあつかい、お墓を造り祖廟として敬い続けて今日に伝えられています。

 その親鸞聖人の教えに生きる人々の中には、お墓を建てない人が多くあり、又聖人を慕って聖人のおわす真宗本廟(東本願寺)や大谷祖廟に納骨する人も沢山あります。生存中は聖人の教えと共に生き、死して後は聖人の帰ってゆかれた生命(いのち)のふるさとへ帰ろうという純粋な気持ちのあらわれでありましょう。

 また、岐阜県のある地方では、村の共同墓地に大きなお墓が一基だけあり、そのお墓に住職も寺族も門徒も皆一緒に納骨するのです。お念仏に生きる人々はすべて皆「倶会一処(くえいっしょ)」の世界に出遇うと『阿弥陀経』に説かれてあるように、生きている間は各々生き方も考えも違いますが、お念仏をいただき生命の故郷であるお浄土を感得することができれば、死して後すべて共(倶)にひとつの世界に帰していくという信念を、一基のお墓という形で生活の上に現したものです。
 また、滋賀県の真宗の盛んなところでは、墓石もなく、ただ共同墓地の空いた場所に埋葬するだけという所もあります。

 かといって、亡くなった人を川に流したり、山に棄てたりするわけにはゆきません。自分にとって大切な人、恩愛(おんない)の情の断ちがたい人であればなおさらのことです。大切にあつかい、敬慕の気持ちを現すのが人情です。

 要はお墓にとらわれたり、墓の大小にこだわったり、ひいては墓相(迷信)に振り回されるにいたっては、何のための墓かと言わねばなりません。立派な墓を建てたから先祖が喜び、粗末な墓であったり、お墓を建てないから亡き人が迷い祟ると言う考えは間違いです。

 お墓は、いわば亡き人を偲ぶ記念碑であって、亡き人の眠る場所ではありません。我々本願念仏の教えに生きる者は、死して墓に行くのではなく、生命の故郷(浄土)に生まれて往くのであるという信さえはっきりすれば、墓があってもよいし、なくてもよいのでありましょう。

(本多惠/教化センター通信No23)

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Last modified : 2014/12/09 6:16 by 第12組・澤田見(ホームページ部)