問い

宗教といえば、どんな宗教も皆な同じことを言っているように思うのですが、真宗の教えは他の宗教とどこが違うのですか。

答え

 なるほど宗教といっても八百よろずの宗教があります。どの宗教も、人間が幸せになることを約束しているようです。

 しかし、何が本当の幸せかということで内容が異なり、その幸せをどのようにして手に入れるかで方法が異なってきます。

 一つは、祈願(きがん)・祈祷(きとう)・お祓(はら)い・供養・占い等によって思いを満足さそうとする宗教です。家内安全・商売繁盛・無病息災(むびょうそくさい)…等を神・仏・先祖などに願い、自分の幸せを守ってもうらおうとする在り方です。これは「自分さえよければ、我が家さえ幸せなら」という小っぽけな考えに固まってゆくエゴイズムの現れであり、それを神仏に祈る形でかえって神仏に縛られ、神仏の奴隷となってゆく道です。これはエゴと欲望を肯定する宗教であり、この様な宗教を親鸞聖人は「偽(ぎ)」の教えと言われます。

 二つには、逆に自分のエゴや欲望を否定し、自分自身を限りなく純粋化し、高め、完成してゆこうとする宗教です。それには厳しい修行や修養(しゅうよう)によって、自分の心を浄化し行いを正して立派な人間に成ってゆこうとする真面目な道です。座禅(ざぜん)によって覚ろうとする禅や、自力修行によって自己の完成を求める天台(てんだい)や真言(しんごん)、六根清浄(ろっこんしょうじょう)を願う山岳仏教、あるいは倫理道徳の教えなどもこれに入ります。これは、自分の力を頼んで理想化した自分に成ろうとする道ですが、実践すればするほどそうなれない現実に悩んでゆかねばならない道であり、聖人はこれを「仮(け)」の教えと言われます。

 真実の教えは、欲望を肯定する教えではなく、また欲望を無理に否定する教えでもありません。むしろ人間には欲望・煩悩を断つことはできないということを思いぬいた上で、ありのままの生き様のままで仏智(ぶっち)に照らされ、仏願力(ぶつがんりき)に摂(おさ)め取られている我が身をどこまでも聞きぬいていく道であります。これは、ありのままの人間が仏の本願を「聞く」一つで、万人に開かれている救済の道でありますから、聖人は「真実」の教えと言われます。どこまでも「愛欲の広海(こうかい)に沈没(ちんもつ)し、名利(みょうり)の大山(たいせん)に迷惑(めいわく)」している外ない身を恥じ痛み、自他を傷つけずにおれない生き様を懺悔(さんげ)しつつ、共に大いなるものに生かされる感動を讃え合い、明るく生き生きとした世界(浄土)に歩んでゆく道であります。

(本多惠/教化センター通信 No.37)

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Last modified : 2015/02/11 23:11 by 第0組・澤田見(ホームページ部)