問い

お盆にはどのような意味があるのですか。

答え

 毎年八月になると(関東では七月)お盆月(ぼんづき)といわれ、お盆の行事が行われます。京都の大文字焼などもその行事の一つで、「送り火」といわれ、お盆に先祖の精霊を迎えおもてなしをして、最後の日にあの世へ送り返すという内容の行事です。

 ご先祖を偲ぶ気持ちは大切ですが、先祖の霊を迎えたり送ったりというのは、あまりにも人情の世界に取り込んだ考えであって、仏教本来の考えとはかけ離れてしまったものといわねばなりません。

 お盆は、「盂蘭盆経」(うらぼんきょう)というお経に由来するもので、仏弟子目蓮(ぶつでしもくれん)とその母親の話が説かれています。釈尊の教えによって目覚めた目蓮が、亡くなった母親のことが気になり神通力をもって母親をさがしたところ、餓鬼道(がきどう)に落ちて、食べ物もなく、さかさに吊されるような(倒懸(とうけん)という)非常な苦しみを受けていることがわっかた。早速、食べ物をさしあげたが、母親が手にしたとたん火に変わり、ますます苦しみを深くするばかりでした。

 目蓮は釈尊にお尋ねしたところ、釈尊は「安居(あんご)(雨期の間の聞法会(もんぼうえ))が終わった時、聞法に精進した衆僧(しゅうそう)を招いて供養しなさい」と教えます。その教えに従って衆僧供養(しゅうそうくよう)を行ったところ、母親が救われたと説かれています。

 この説法が起源となって、仏・法・僧(ぶっ・ぽう・そう)の三法(さんぼう)に供養する法会(ほうえ)がもたれるようになり、後に特に先祖の霊を供養する行事と変化してきたのです。俗に「お盆の三日間は地獄の釜のふたがあく」といわれ、先祖の霊が帰ってくるようにいわれますが、それはまちがいで、私達の先祖はそのようなお盆の間だけ行ったり来たりするようなものではありません。

 母親を餓鬼道に落としたのは、外ならぬ子供である目蓮自身なのです。我が子を可愛いがる親の愛情の中には、可愛さ余って我が子しか眼に入らず、我が子のためには人を落とし入れてでも子供の幸せを願い、時には鬼にも餓鬼の姿にもなるエゴイズムが潜んでいます。その母親を救う道はただ一つ、子供が親の本当の願いに応えて生きる人となる以外にはないのでしょう。

 親の本当の願いとは「人間に生まれた意義と生きる真の喜びに目覚めて生きる」人と成ってほしいということに尽きるのでしょう。その事に目覚める道は「聞法」以外にはありません。釈尊が「衆僧供養せよ」と説かれた本意は、「聞法を大切にせよ」ということでありましょう。

 お盆は、実体化した先祖霊の供養の期間ではなく、亡き人を偲びつつ、お念仏の法となって常に私の所に来て下さっているご先祖の心を聞いてゆく大切な機縁であります。

(本多惠/教化センター通信 No.38)

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Last modified : 2015/02/22 23:36 by 第0組・澤田見(ホームページ部)